コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

もうひとつの京都 (アレックス・カー著)

 

もうひとつの京都

もうひとつの京都

 

10代の頃、京都に住んでいたことがある。盆地の中にある街だから、夏は暑く冬は寒かった。通学途中で毎日のように古い町並みや、寺院や、京都を囲む山々を見ていたが、住んでいればわざわざ行こうと思わないものである。今思えば、毎日世界遺産級の建物のすぐそばを素通りして学校に通うというのはとんでもなく贅沢なことだったが、子供心にはあんまり興味がなく、暑い寒いの文句ばかりだったと記憶している。

京都から離れてから、旅行で行くことが増えた。嵯峨野、嵐山、貴船、上賀茂・下鴨神社......年齢を重ねてきたこともあるだろうか、子供のころは古くさく感じただけの京都に、行けば行くほど味わいのようなものを感じられるようになり、また行きたくなる。

この本の著者はアメリカ出身で、オックスフォード大学で中国古典を勉強し、東洋美術収集家のデヴィッド・キッド氏との縁で京都の隣市亀岡に移り住み、以来数十年暮らしている。京都の重要性について著者が語った一文を引用する。

大陸の動乱と隔たっていた島国の日本は 、こうした文物を受け入れ、ゆっくりと時間をかけて洗練させていきました。インドの仏教はインドから姿を消し、中国の王朝は栄えては滅びの変遷を重ねました。インドや中国が生んだ「文化の宝石」はあたかもタイムカプセルで別の惑星に送られたかのように、本国での破壊を免れて日本で生き延びた結果、この国は古代アジアの叡智がぎっしりと詰まった巨大な宝庫になったのです。その日本で京都は約千年ものあいだ首都でしたから、最良のものがこの小さな空間でさらに洗練されていきました。そのため、東アジアや東南アジアの文化に興味のある人にとって、京都は極めて重要な場所です。

京都の、ひいては日本の文化遺産の話を東アジアや東南アジア出身の人達にすると、「祖国でこれの元になった文化遺産を見たことがあるよ」と反応する人達がいる。そういう人達は「日本は自国文化のおかげで文化が発展し、文化遺産をもてた」と言わんばかりだ。それは一面真実ではあるが、本国で破壊され焼却された文化遺産が、日本でよい保存状態で残されているのを見ると、歴史とは皮肉なものだという思いがこみあげてくる。本国から持ち去られたからこそ、生命をつないだ文化遺産もあるのだ。

この本は京都の寺院について述べたものではない。門、塀、畳、襖、額……どの家や寺院にもあるけれど、あまり注目されることなく素通りされてしまうところを、口伝により聞き集めた話を丁寧に述べている。

例えば門の作りにも格があり、茶道家元の表千家の櫓門は、江戸時代後期に紀州徳川家から賜ったものであり、武家相当の地位があると認められた証だったこと。襖絵がさかんであるが、すべての襖の総面積は約一九五平方メートルにも及び、ひとつの方丈の襖絵の面積は、ミケランジェロが四年がかりで描いたシスティーナ礼拝堂の天井画の約半分に相当すること(この例えが面白い)。そんな襖に、屏風に、京都人は美しい絵を残したこと。

細部まで京都の千年にわたる文化が宿る。それを実感させてくれる、素晴らしい一冊だ。これを読んでから京都に行くと、これまで素通りしてきた小さな神社や寺院でも、立ち止まらずにはいられなくなるだろう。

22年目の告白 ー私が殺人犯ですー (浜口倫太郎著)

藤原竜也伊藤英明W主演で映画化されたことで、この小説のことを知った。

1995年1月14日から始まる5件の東京連続絞殺事件は、被害者の家族を拘束したうえで目撃者とする残酷極まりないものだった。4月27日の事件を最後に、犯人逮捕が果たされないまま時効を迎える。それからさらに7年後、三流暴露本を主に出版する帝談出版社に勤める川北未南子の前に、信じられぬほどに美しい容姿と上品な物腰の曾根崎雅人が現れてこう告げた。

「私が殺人犯です」

曾根崎が未南子に渡したのは手記の原稿。素晴らしい文章で、殺人犯本人しか知り得ぬ細部にわたる事件描写がなされていた。

手記本はたちまちセンセーショナルな話題となり、曾根崎本人の容貌の美しさもあいまってカルト的人気を集めた。だが一方で被害者遺族は塗炭の苦しみを味わうことになる。捜査段階で先輩刑事が自分の身代わりとなって殉職した記憶を抱える刑事・牧村航もその一人だった。

「すべての国民が、この男に狂わされる。」

映画のキャッチフレーズがこれほど身に迫る小説も珍しい。

惜しいのは後半あまりにも展開が乱高下して、ラストにたどり着く前に振り回されることにいささか疲れてしまったこと、劇場型犯罪宮部みゆき模倣犯』を連想させ、展開がある程度読めてしまうことか。

 

社長復活 ぼくが再起業した理由 (板倉雄一郎著)

 

社長復活

社長復活

 

IT起業家の頭の中を垣間見せてくれるとても面白い本。

著者の板倉雄一郎氏の略歴はこうだ。

  • 高校卒業後、ゲームソフト開発会社の起業、電話会議サービス会社の起業を経て、1991年、3つめの会社となる株式会社ハイパーネットを設立し、サービスを世界に展開し注目を浴びる。栄えあるビジネス賞を総ナメにし、ビル・ゲイツと商談、『日本経済新聞』一面を飾る。
  • 1997年、負債総額37億円で倒産。自らも自己破産をする。著書に、そのときの経験を書いた『社長失格』がある。
  • 2003年以降、投資家として活動。2011年の東日本大震災を機に、再び株式会社シナジードライブを起業し、声のSNS:  VoiceLink (www.vlvlv.jp) を展開中。

著者は根っからの起業家である。ハイパーネット倒産後は再起業まで紆余曲折を経て、一時は鬱状態にもなったが、東日本大震災Softbank孫社長が100億円寄付したのを聞き、金がなければまともに寄付すらできないと思い立ち、さらに「震災前と震災後では間違いなく世の中が大きく変わる。この大転換期を黙って見過ごす手はない」との考えのもと、徐々に鬱状態から脱却する。そして再起業する。

 

起業内容は本書に詳しいから繰り返さないが、スピード感あふれる起業ストーリーは、変化の速いネット時代ならではで読み応えがある。

ここでも著者は「時代を先取りしすぎて理解してもらえない」と愚痴をこぼす。このようなことを口にするオンラインサービスの起業家はかなり多いように私は思う。著者の言葉を借りればこうだ。

次の時代をつくれるのは、ごく一握りの人だけだ。大半の人は、今あるものの修正バ ージョンで生きている。半歩先なら、みんな理解できる。理解できるから、短期的には一番儲かる。

だが、一歩先だと、たいていの人は気がつかないし、すぐには理解できない。時間がたてば、「ああ、こういうことだったのか」とわかるのだが、わかったときには、すべての権利は押さえられている。それがぼくのやり方だ。

 

私がなにより興味をもったのは、本書全体に一貫された著者の起業家としての行動哲学だ。一つ抜き書きする。

親元にいれば「不満」が募る。

親元を出れば「不安」に変わる。

従業員でいれば「不満」が募る。

独立すれば「不安」に変わる。

ぼくは、他人に向ける「不満」を持つより、自分自身に感じる「不安」のほうがはるかにマシだ。なぜなら、自分自身で解決可能だからだ。

自分自身でコントロールできるかどうか。この差は決定的だ。航空機パイロットは墜落事故への恐怖が乗客よりもずっと小さいという。なぜなら操縦桿が自分自身の手にあるからだ。あるできごとを自分自身でコントロールできないとき、人は恐怖と無力感を覚える。逆に、自分自身の努力で変えられるのであれば、そこに希望が生まれる。

そして、天災などを除いて、状況は結構変えられるものなのである。(天災を変えることはできないが、そこから立ち直ることはできるーー東日本大震災の後、被災地の方々はずっとそのことを私達に身をもって教えてくれている) それを思い出させてくれる本だ。

道を継ぐ (佐藤友美著)

この本を手に取ったのはタイトルと表紙が美しかったからで、取り上げられている鈴木三枝子さんという美容師のことは、本を開くまで知らなかった。

髪は邪魔にならなければいいやという考えの私であるが、それでも美容院でカットを終え、鏡を見て、髪が美しく整っているのを見るあの一瞬は喜びを覚える。鈴木三枝子さんはその喜びをお客さまに与えるために、人生かけて美容師という仕事に情熱を燃やし、ステルス胃がんで亡くなる直前まで、サロンに立ち続けた人だ。

いわゆる職人肌というのか、とことん仕事にこだわっていた。卓越した美容師の技術はもちろん、自分自身の服装や化粧に至るまで、サロンに来るお客さまを楽しませるためのもの。あるお客さまが予定日を変えてサロンを訪れることになったとき、たまたま前回そのお客さまが来店したときと同じ服装だった鈴木さんは、休憩時間に服を買いに行き、お客さまが来店する前に着替えたという。

鈴木三枝子さんはサロンのスタッフを母親のように叱咤激励して育てた。感情のままに怒ることはなく、とことん相手の立場に立つ。だからスタッフやお客さまがついてくる。それどころか叱られ自慢をする。亡くなる報せを受けたスタッフは泣きながらお客さまの髪をカットし続けたという。

この本を読んで、こういうとことん踏みこんで部下と向きあう上司がそういえば少なくなったな、と、会ったことがない鈴木三枝子さんに思いを馳せた。

シェリー《フランケンシュタイン》

「おれはおれをつくったおまえにも嫌われている。だとすれば 、おれに何の恩義もないほかの人間からどんな希望がもらえるというのか?はねつけられて嫌われるだけのことだ。」

哀れで惨めな醜い生き物、主人公フランケンシュタインの手で、納骨堂の骨と動物の血肉を材料に生み出された怪物の言葉だ。

名もなき怪物は人の愛と哀れみと温もりを欲しいと思ったが、あまりに醜い容貌のためそれがかなわないと分かると、絶望感からやがて怒りと憎悪に身をまかせた。欲しかったのはたった一つ、自分を認めてくれる存在だけなのに。

怪物は憎悪のままにフランケンシュタインの弟、友人、妻を殺し、父を死に追いやった。フランケンシュタインは復讐を誓い、怪物を文字通り地の果てまで追った。雪と氷の大地、北極海に浮かぶ分厚い氷の上で、やがて終焉がくる。怪物は、フランケンシュタインの愛する者を殺したことで自分もまた苦しみ苛まれ続けたのだと独白する。

「愛と友情を望んでいたのに、おれはいつもつぶされた。これが不当でないと誰が言える?人間すべてがおれに罪を働いたのに、なぜおれだけが犯罪者呼ばわりされるのだ?...だがおれが悪党であることも事実だ。愛すべき人間、無力な者を殺したのだからな。...人を殺したこの手を見る。どうやって殺すかを考えたときの心を思う。そうしておれは楽しみに待っているのだ。この手が見えることも、自分のたくらみに取り憑かれることもない日が来ることをな。」

怪物には人の心があった。良心があり、喜びと苦しみを認識することができ、自分がしたことを好ましからざることだと判断できる知恵があった。自分がなにを欲しているのか正確に理解しーー共感できる伴侶が欲しかったのだーー、それが得られないことに逆上して罪を重ねたが、それが罪だと認識していた。

ここに怪物の不幸の根源があると思う。醜い容貌に、人の心が宿ってしまったことだ。罪だと認識していなければ、苦しむことはなかっただろうから。

世界文学の名言 (クリストファー・ベルトン著)

著者もふれているように、たいていの文学の名言はその文学物語のストーリーの中で理解されるべきであるけれど、その部分だけでも心に触れてくるものをいくつか書く。

 

Fear of  danger is ten thousand times more terrifying than danger itself. ーー危険への恐れは危険そのものより一万倍も恐ろしい。(ダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー』)

原子力発電所などはその典型だと思うが、ものごとを正しく恐れることはとても難しい。そのものごとについての知識が必要になるからだ。人は未知のものを恐れるようにできていて、たいてい過大評価して過剰に恐れ、時にはそのために精神力を消耗してしまう。ロビンソン・クルーソーのように無人島に漂流した人間にとってこれは致命的だろう。

 

Really it is very wholesome exercise, this trying to make one’s words represent one’s thoughts, instead of merely looking to their effect on others. ーー自分の言葉が相手にどんな効果を及ぼすかということだけを気にするんじゃなくて、自分の考えを自分の言葉で表現しようとすることは、本当にすごくいい訓練になるよ。(エリザベス・ギャスケル『従妹フィリス 』)

この作品は読んだことがないが、この言葉だけでも味わい深い。芸能人でいうと春名風花ちゃんがツイッターで日々発信していることがまさにこの通りだと思う。

 

I am never afraid of what I know. ーーぼくは自分の知っているものなら恐れたことがありません。 (アンナ・シュウエル『黒馬物語 』)

この作品も知らないが、この言葉は深い。火を恐れ、それと闘う術を身につけるために消防士になった人の話を聞いたことがある。それがなんなのか知っていれば恐れずに済むかもしれない。少し前に読んだ『40連隊に戦闘技術の負けはない』ではないが、銃が安全かどうか判断できるようになって初めて、銃を扱う資格が生じるのだ。

チェーホフ《ワーニャ伯父さん》

ビジネス書が続いたので文学で息抜き。チェーホフの四大戯曲のひとつで、田舎生活の情景と副題が打たれているものだ。

私はロシア文学をあまり読まない。理由は人名が覚えにくすぎること。例えばこの本のタイトルにもなった主人公「ワーニャ伯父さん」のワーニャは愛称で、本名はイワン・ペトローヴィチ・ヴォイニツキーという。どこに「ワーニャ」の要素があるのかさっぱり分からない。

戯曲はある田舎の領地で暮らす退官した大学教授であるセレブリャコフとその後妻エリーナ、教授の死別した前妻の残した娘ソーニャ、前妻の弟ワーニャと母親マリヤ、屋敷に通ってくる医者アーストロフを中心に進む。ワーニャは領地で懸命に働きながら妹婿である教授に仕送りを続けてきたが、教授とは違い、自分は人生を楽しめないまま年老いてしまったと感じる一方、若く美しいエレーナに恋慕感情をもつ。エレーナは親子ほども年が離れた教授と結婚したことを後悔していないかのようにふるまうものの、心の底では忸怩たる思いがある一方、閉塞的で俗っぽい田舎暮らしに息苦しさを感じている。ソーニャはアーストロフに恋しているが、自分の器量がよくないと思い悩み打ち明けられない。

それぞれの息苦しさを抱えながら、戯曲が進んでいく。終わり方もあまり後味がよくない。教授が領地を売り出したいと口にしたことで激昂したワーニャが拳銃を持ち出し、身の危険を感じた教授はエレーナとともに領地を去る。残されたワーニャとソーニャたちは絶望に耐えて生きていかなければならないことを、「あの世では息がつけることを信じている」と口にすることで受け入れる。

なんという閉塞感、閉ざされた世界であることか。同じ田舎生活でもそれを豊かに細部まで書ききったジェイン・オースティンに比べると、チェーホフの田舎生活はあまりにも息苦しい。最後のソーニャの言葉だけが幾ばくの救いといえなくもない。

「ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。…そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。...うっとりと微笑みを浮かべて、この今の不幸を振り返るの。そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。」