コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

烏は主を選ばない (阿部智里著)

本作は八咫烏シリーズの二作目。

舞台は同じく、人ではなく八咫烏が支配する世界。金烏(きんう)と冠する族長宗家が君臨し、東西南北の有力貴族の四家がそれぞれの領地を治める。一作目『烏に単は似合わない』は、次代族長たる若宮のお嫁候補とすべく、四家からお嫁候補専用の桜花宮に送りこまれた姫君たちから見た物語だった。二作目は同じ時間軸を、若宮の付き人・雪哉を中心に若宮側から描く。

『烏に単は似合わない』では、若宮は桜花宮にまったく訪れようとせず、宮中行事を片端からすっぽかし、姫君たちを振りまわして一喜一憂させるうつけ者として描写されているが、今作では若宮側の事情が明らかにされ、桜花宮に足を踏み入れなかったのもさもありなんとうなずかされる。

十年前、政変によりそれまで皇太子だった兄・長束(なつか)に代わって若宮が皇太子に立った。しかし長束の生母・南家出身の現皇后、大紫の御前(おおむらさきのおまえ)は長束の皇太子復帰を諦めておらず、一方、若宮の生母・十六夜の実家である西家は断固若宮擁護の立場。東家は持ち前の狡猾さで様子見を決めこみ、武人を多く派出する北家もどっちつかずながら、北家出身の姫君入内に望みをかけている。複雑な政治情勢の中、若宮は姫君たちに近づかないことを選んだ。

第一作では、当の姫君たちの口から語られる政治情勢は限られたものであり、彼女らは桜花宮で自分以外の姫君たちを相手に美しさを競っていた。第二作ではがらりと変わって、若宮とその側近たちから、暗殺の危険性まで孕んだ険悪な政治情勢が語られる。

第一作と第二作は、女性視点と男性視点という意味では対となった物語である。

主人公が人間ではなく八咫烏であることを除けば、物語中の八咫烏社会は、平安時代の貴族社会を模したものとなっている。高級貴族の男性は政治によって立身出世し、女性は力ある男性に嫁ぐことで姻族閨閥を広げることがあたりまえとされる。生きる世界がはっきりと分断されていたため、女性視点と男性視点は重なることがほとんどなく、両方読んで初めてことの真相が浮かびあがる構成だ。

 

一読した感想は、作者は「一見問題ない」人(八咫烏だが)を取りあげるのがほんとうにうまいということだ。
第一作では「悪気がなければすべては許されると知っていて、汚れなきふるまいでとんでもない結果を引き起こしたうえ、自分は悪くないと心底信じる」人。

第二作は「忠誠を尽くす相手によかれと疑うことなく、当の相手の意に反しているとわかったうえでとんでもない事態を引き起こし、『自分の思う通りの展開になれば、相手はこの自分の苦心を分かってくれる』と信じきっている」人。

「こんなことになるなんて思わなかった」「あなたのためを思ってやった」と言いわけして許された人に、心当たりがある人はきっと多いだろう。
…それは恐怖以外のなにものでもない。こんなことを平気で口にする人は、その実相手がどう思っているのかを一切思いやらない。相手の意思など考えなくともよいと心底信じているのだから。作者はそれを見事に浮き彫りにしてみせた。その手腕も見事ながら、なぜこのような人々をテーマに選んだのかについても考えさせられる。

烏に単は似合わない (阿部智里著)

途中でおもいきり世界をひっくり返された。

きらびやかな王朝絵巻の舞台を楽しんでいたら、半ばでいきなり舞台装置がすべて引き上げられ、鉄骨剥き出しの舞台裏に放り出されたような衝撃が後半でいきなり訪れた。

すべて読んだあと、ほんのりとした恐怖が残った。最終場面でのある人の言葉が空虚に響く。

「彼女らの幸せが、他人を不幸にするものではなかったら良かったのにと、そう思っている」

物語は荒削りだ。唐突な展開もある。だがなぜか目が離せなくなる。

 

物語は八咫烏の一族が支配する世界。金烏(きんう)と呼ばれる族長宗家が君臨し、東西南北の有力貴族の四家がそれぞれの領地を治めている。八咫烏らは人姿と鳥姿を取ることができるが、普段は人姿で暮らしており、身分高い者は一生鳥姿にならないことも珍しくない。

シリーズ第一作となるこの小説は、次期族長のお嫁探しから始まる。現族長には四家のうち南家出身の正室と、西家出身の側室(故人)がおり、側室の産んだ若宮が皇太子に立てられている。その妻を選ぶために、東西南北四家から四人の姫君が専用の屋敷・桜花宮に入ったーー。

四人の姫君はそれぞれに魅力的だ。東家からは病を得た姉の代わりに急遽選ばれた、音楽の才能に長けたあけび。南家からは男勝りな話し方でおよそ姫君らしくない浜木綿(はまゆう)。西家からは妖艶で織物の技術がすばらしい真赭の薄(ますほのすすき)。北家からは必ず入内しなければならないと気負う白珠(しらたま)。

物語はあけびとそのまわりの人々を中心にすすむ。人々が八咫烏に変身できることを除けば、広がるのは源氏物語の時代をベースにし、人間を人姿の八咫烏に変えただけにも見えるような、絢爛豪華な王朝絵巻だ。

だが途中から世界が一変する。文字通り。これまで見えていたものがどれほど脆弱で信用ならないものだったのか、突きつけられる。

 

技法としては「信用できない語り手」になるのだろうが、私は見事にひっかかって悔しい思いをした。そしてこういう人間(八咫烏だが)が実際にいるのだろうとぞっとした。自分はなにも悪くないと無邪気に思える人間。たとえ自分の行動がどんな結果をもたらしたとしても。

「私は、悪意が無ければ、全てが許されるのだと知っている者を決して許す事は出来ない」

最後まで読んでから最初から読み直すと、同じ文章からまったく違った物語が浮かびあがってくる。

 

前日読んだ『わかったつもり  読解力がつかない本当の理由』という本で、著者は「文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです」と述べているが、この小説はそれを見事にやってのけている。ある文脈が物語終盤まで読者の目から注意深く隠され、それが明らかになったとたんに物語全体が新しい意味に書きかえられる。見事だ。

蒼穹の昴(浅田次郎著)

 

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

  • 作者:浅田 次郎
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 文庫
 
蒼穹の昴(2) (講談社文庫)

蒼穹の昴(2) (講談社文庫)

  • 作者:浅田 次郎
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 文庫
 
蒼穹の昴(3) (講談社文庫)

蒼穹の昴(3) (講談社文庫)

  • 作者:浅田 次郎
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 文庫
 
蒼穹の昴(4) (講談社文庫)

蒼穹の昴(4) (講談社文庫)

  • 作者:浅田 次郎
  • 発売日: 2004/10/15
  • メディア: 文庫
 

面白い小説だ。黄砂舞うかつての北京の空気のにおいまで感じとれるような。時代を生きる王侯貴族や政治闘争を書く一方で、作者は丹念に、貧しき民衆達の姿をも書く。都を追われた老宦官達や、道端で餓死を待つばかりの流民達、大道芸人で幾ばくかの日銭を稼ぐ人達、西洋から七つの海を越えてやってきながら迫害された伝道師達。それこそがその時代の、真の姿であるから。

 

【1巻】
舞台は19世紀末、中国、清朝末期。「ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の一代前である光緒帝が在位し、悪名高き西太后が政権を握っていたころ。

この時代、平民が立身出世する方法は二つ。科挙試験に合格して官僚として出仕するか、男性の生殖器を切り落として宦官(太監)として後宮に仕えるか。一般的に、高価な書物をそろえ、家庭教師をつける財力がある地方有力者の子弟は前者。貧しき者は後者を選ぶことになる。

 

小説の中に強烈な一場面がある。

暗闇のなかの石牢にぺたりと座りこむ少年。錫の水差しを抱えて、こちらに視線を向ける。

彼は宦官となる手術を受けたばかりだ。

生殖器を切り落としてすぐ尿道に白蝋の棒を入れ、三日三晩そのままにする。肉が盛り上がって尿道が閉ざされるのを防ぐためだ。三日三晩の間、水を飲んではならない。白蝋の棒が入った状態でおしっこすることはできず、外せば尿道は閉ざされ、いずれにしても残酷な死を迎えることになる。

少年は水差しを抱えていた。つまり、死ぬと分かりながら水を飲み、ただ死を待つばかり。

宦官になるとはそういうことだった。

 

この本の二人の主人公、天津直隷省静海県の地主の次男である梁文秀(リャン・ウェンシュウ)と、貧しき糞拾いの子、李春雲(リー・チュンユン、愛称は春児)にも、時代の規則はあてはまった。

二人は、かつて皇帝の居城・紫禁城で星占をすることを許されるほどの実力がありながら、先皇帝の早世を予言したがために都落ちを余儀なくされた老婆、白太太(バイ・タイタイ、バイは姓、タイタイは「奥方様」くらいの意味)に予言を受けた。文秀は天子の傍にありて天下の政を司ることを。春児は昴の星の守護を受け、やはり皇帝の側近く仕え、あまねく天下の財宝を手中に収めることを。

二人はその通りの道を歩み始める。文秀は科挙試験をトップで合格して紫禁城にあがる。春児は自宮(みずからの手で宦官となるための手術をすること)ののち、かつて紫禁城に仕えながらさまざまな理由で追い出され、肩寄せ合って暮らしている老いた宦官達と出会い、彼らから後宮で暮らすための掃除、料理、芝居稽古などを受けながら、機会をじっと待つところで、第1巻は終わる。

 

【2巻】

第2巻は、梁文秀が、同期からある伝説を聞くところから始まる。

頃は大清帝国建立期、後に皇族となる愛新覚羅氏が満州部族を征服して統一を目指していたころ。最後まで抵抗していたのは、葉赫那拉(イエホナラ)という部族であった。追い詰められた部族の長、布揚古(ブヤング)は、いまわの際に呪いの言葉を残す。葉赫那拉の女子が一人でも残れば、必ず愛新覚羅氏を滅ぼし、恨みを晴らすだろうと。

三代にわたり権力を握ってきた西太后は、その葉赫那拉氏の娘であるーー

 

西太后は歴史上ではまごうことなき悪役扱いだ。仇敵の東宮太后を手にかけ、夫の咸豊帝と息子の同治帝の在位時から事実上政権を支配し、甥にあたる光緒帝を軟禁の末ついには毒殺した希代の女傑。彼女の時代に清国は列強の侵略を許し、香港租借を余儀なくされ、国辱をなめさせられた。それもこれも西太后が近代化を拒み続け、腐敗しきっていた国家に力がなかったからだ、というのが現代の解釈だ。

だがこの小説での西太后はとてつもなく人間臭く、それこそがこの小説の大きな魅力だ。

小説の中で西太后は心許した幼馴染で元婚約者たる栄禄(こいつがまたこの上なく腹黒い)の前では少女のように「もういや!」と駄々をこね、食事がまずいと癇癪を起こし、心迷ったときは皇太后宮裏の花園の奥にある築山にこもり、独り亡き乾隆皇帝に「おじいちゃん」と語りかける。とても五十代の婦人とは思えない子どもっぽい本心の傍らで、彼女は乾隆皇帝から託された、大清帝国の断末魔を肩に負う宿命に押しつぶされそうになっていた。

(中国ではおそらくこんな書き方をする小説家はいないだろう。清国に代表される封建社会は、現政権をにぎる共産党が否定し続けてきた国家のあり方であり、その権化ともいえる西太后は悪役以外のなにものでもない)

 

一方乾隆皇帝だが、小説の中では彼こそが大清帝国衰退の原因をつくったとされる。はるか昔から代々天子に伝わり、真に天命ある者にだけ手にすることができる「龍玉」を乾隆皇帝がどこかに隠してしまったせいで、天命なき軟弱者が皇帝の位につくことになり、清国が徐々に衰退していったのだ。第2巻ではこの「龍玉」が小説全体のキーワードとなっていく。 

 

【3巻】

第3巻冒頭から、当時租界に住んでいた外国人達が登場する。主人公の梁文秀と春児だけではなく、小説はしだいに、動乱の時代に生きる人々の群像劇のようになっていく。

会津出身で天津に駐在しているジャーナリスト、岡圭之介は、ニューヨークタイムス特派員のトーマス・バートンと親しくしている。トムはニューヨークタイムスに西太后の記事を面白おかしく書き立て、悪女西太后のイメージを広めることに成功していた。

だが同じトムの口から、西太后は息子によく似た現皇帝光緒帝を母親として愛するひとりの女性にすぎず、光緒帝が忍びないからこそ政治に関わり続けているのであり、清の民は彼女を慈悲深い生き仏よと慕っているという真逆の現実が語られる。ならばなぜあんな記事を書いたと気色ばむ岡に、トムは「この国を植民地にしないためには、まず古い仏を倒ねばならない」と言い放つ。

 

第3巻のハイライトは、李鴻章がイギリス公使と香港租借について交渉するシーンだ。居並ぶイギリス公使達とジャーナリストを前にして李鴻章は高らかに宣言する。香港を九九年間租借してやろう、と。その宣言の真の意図をトムは見抜き、プレジデント・リーと呼ばれた李鴻章という人物に戦慄する。

 

【4巻】

清帝国の断末魔をのせて、登場人物それぞれの運命は疾走する。ついに政権から離れることを決心した西太后、古き国法を変えんと理想を燃やす康有為(カン・ヨウウェイ)とその同志、北洋軍を掌握した袁世凱(ユアン・シーカイ)。歴史上名を残した人物達が次々登場し、あるいは嘆きを、あるいは叫びをあげながら滅びゆく清国のさなかで生きる。主人公のひとり梁文秀は清国を離れて日本に亡命し、春児は西太后のそばにとどまる。

時代そのものの物語があまりにも濃く、そこにさらにフィクションを被せようというのだから、いささか急ぎ足で物語展開を進めなければならなかったような感じはある。天命ある天子のみが手にすることができるという龍玉も、最後まで昔話の中にしか登場せず、物語は続編を思わせるような終わり方をする。実際『蒼穹の昴』はシリーズ第1作であり、この後は『珍妃の井戸』『中原の虹』と続いていき、そこには本作の人々も再登場する。

 

第4巻まで読んできて、なんだか物足りないと感じた。

歴史小説の難しさは、結末がすでにわかっていることだ。だからその途中で小説の魅力を盛り上げなければならない。歴史上の人物の悲喜こもごもだったり、架空の人物を加えて盛り上げたり、といった工夫が必要になるだろう。

だけどこの小説では少し急ぎすぎていて、途中で歴史の教科書を読んでいる気がしてきた。もっと登場人物の心情を細やかに書きこんだほうが私は好きだ。とはいえこれでも充分面白い。

なぜ男は「そんなこと」で怒るのか(安間 伸著)

女が男にとって謎であるように、男は女にとって謎である。変なタイミングで怒ったり、話を聞いてほしいだけなのに話の腰を折りまくったあげくヘソをまげたり、浮気にトンチキな言いわけをしたり。

そんな男という生物の特性を、「まとめるとたったこれだけの話」という身もふたもないタイトルの章で、著者はそれこそ身もふたも底もないことをさくっと書いている。

男が怒る根源的な理由は、「資源の浪費」と「尊厳の否定」がほとんど。男は資源の浪費に対しては「怒り」、尊厳の否定に対しては「恨み」の感情を持つ。

「怒り」は人間関係の修復が可能だが、繰り返し馬鹿にして「恨み」にまで至ると修復不能。男のやる気の9割は勘違いによるもの。本人も周囲もそれをうまく使いたい。

 

男のやる気の9割は勘違いによると書いてしまうのもすごい。怒る理由がふたつしかないのなら相当付きあいやすいのでは?  と思うが、どんな行動がそれにあてはまるのか、判断するのはやっぱり難しい。寝起きにすぐさま優先度の低い話をしてはならない、なんてこの本以外で読んだことはまだない。

男がいま「重要だと考えている問題の解決」を邪魔されたり、「貴重だと考えている時間・認知資源・会話資源」などを無駄遣いされると、怒りの感情が湧いてきます。男の行動は資源獲得に向かっているため、そのための時間や労力を浪費されると不快になるのです。

コンサル男などはまさにこの典型だ。「それで結論は?」と聞いてくる彼らの脳は、最短距離でゴールにたどり着くよう訓練を重ねている。

 

男を何度も怒らせたり、繰り返し馬鹿にしていると、「尊厳の否定」をしたことになります。これは修復不能な「恨み」「憎しみ」という感情として蓄積します。これはたとえ自分が損をしても、相手には得をさせないという強い負の感情です。

モンテ・クリスト伯』に代表される復讐譚は、男の恨みを余すことなく書ききっている。馬鹿にされた恨みをけっして忘れず、見返すために死にものぐるいで努力して、ついには立身出世する男も数多い。とはいえ褒めすぎるのもよくない。むしろ逆効果の危険性がある。

何もしていないときに褒めるのも、かえって警戒心を呼びます。...そして口先で褒めれば簡単に利用できると思われている自分自身に失望します。心底舐められているのだと本当に本当にがっかりします(大事なことなので二度言いました)。何もしていないのに褒めるのは、「繰り返し軽んじて馬鹿にする態度に近い」と覚えてください。

まこと、男は単純でめんどくさい生物なのだ。

【おすすめ】『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(西林克彦著)

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

文章を読むにあたって、わかったつもりでわかっていないかもしれない、思いこみで勘違いしているかもしれないという可能性をつねに頭の片隅に置けるようになる。非常に役立つことだ。

 

一読して「わかったつもり」になることがどれほど多いか、小学校の国語の教科書を使いながら教えてくれる面白い本。著者は、わからなければ調べようとするが、わかったつもりになればそれ以上深く読もうとしなくなるため、新しいことを身につけるチャンスを逃してしまったり、間違えて覚えてしまったりするという。

実は、よりよく読もうとするさいに、私たち読み手にとって最大の障害になるのが、自分自身の「わかった」という状態です。

著者は「スキーマ」という考え方を用いて説明をしている。あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識を、認知心理学では「スキーマ」と呼ぶ。このスキーマというものは読解では必要不可欠だ。たとえば「最初は歩くより走る方がいい」という文章があるとする。いきなりではなんのことだかわからないだろうが、これが「凧揚げ」のことだと知るととたんに凧揚げについてのスキーマが発動して「ああなるほど」と"わかる"。

このスキーマは強力だけれど、「わかったつもり」を引き起こす原因にもなる、というのが著者の主張だ。読み手が自分の持っている「ステレオタイプスキーマ」を文章に簡単・粗雑に当てはめてしまうことで、間違った、不十分な読みになってしまうためだ。言葉尻を取りあげる人、一部分だけ見聞きして全体を知ったつもりになる人、自分に都合のいいようにしか理解しない人。そんな人に誰でも心当たりがあるのではないだろうか?

 

著者は「わかったつもり」の壊し方を紹介している。まず、結果を決めつけてしまう場合。

変化の過程が読み飛ばされていますから、それに対抗するためには、どこからどういう変化をしたのだろうという文脈で、文章を見直す手だてが有効なはずです。

次に、色々書いてあることの細部を思い出せない場合。

そのような場合には、事例やできごとに関して個別の特徴を浮き出させることが必要になってきます。

 

最後に、著者はとても大切なことを書き留めている。少し長いが引用しよう。

文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。この意味においても、探求は果てしないものであると考えて、できるだけ開かれた姿勢を保っておきたいものと思うのです。

"Funny English 1-2-3: Funny Mistakes Japanese Make in English" (by Steward Dallas)

日本人がやりがちな英語の間違いを、まず会話形式で紹介して、その後解説してくれる本。著者は十数年日本で英語教師をしており、英語表現はわかりやすく面白い。

まずは試してみようーーどうして違うのだろう?

Jake: Koji, have you ever had horse?

Koji: Haha! No! I’ve never had horse, but I had dog.

Jake: Oh, no! You ate dog?! You ate man’s best friend?

ジェイクは「馬肉食べたことある?」と聞いているのだが、コウジは「馬飼ったことある?」と聞かれていると勘違いし、「馬はないけど、犬なら飼ったことあるよ」と答えた…つもりが、ジェイクには「犬なら食べたことあるよ」と聞こえて仰天した、というオチ。(犬食文化がある韓国人と中国人の場合は勘違いじゃないことも…)

「犬を飼ったことがある」と言いたければ、正しくは“I had a dog.” である。わけわからない英文法選手権があれば上位争い間違いなしの「a = 不定冠詞」をつけなければ、一匹二匹と数えられる犬とは理解してもらえない。“I had dog” では数えられないもの、すなわち犬肉を意味してしまうのである!  愛犬家相手であればどうなるか、まあ想像してみてほしい。

こういう日本人が勘違いしがちな英語表現が、全部で30紹介されている。どれもうなずけること間違いないので、話のネタにぴったりの本だ。

「本当にいい会社」が一目でわかる有価証券報告書の読み方 (秦美佐子著)

決算の時期である。決算報告が各会社のホームページ上で公開され、従業員や株式投資をしている人々が一喜一憂する時期である。試験前の一夜漬けのように、今から会計知識をちょっと身につけたいと思い、本書を手に取った。

本書は物語形式で進む。監査法人に勤める会計士の主人公が、有価証券報告書に記載された会社情報を使って、友人達の悩みを解決していく。実家の定食屋のもうけを増やしたいという相談には、マクドナルドのビジネスモデルからもうける仕組みを真似できないかと探り、オフィス用品の営業マンには、有価証券報告書から増収増益かつオフィス用品の資産価値が低い=古くなっているため新調する可能性がある会社を探す方法を教える。株式投資を考える友人には、優良企業の見分け方を伝授する。

100ページを越える有価証券報告書だが、どの情報が欲しいか、どこに載っているかがはっきりすれば、読みこなすべきはせいぜい十数ページだ。それで貴重な会社情報が手に入るのだから、宝探し感覚で読み解いてみるのもいい。