コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

宗教と社会との結びつき『世界は宗教で動いてる』

著者が慶應丸の内シティキャンパスで行なった講義をまとめた本書は、目からうろこの宗教知識が盛りだくさんで、西洋社会だけではなく、インド、中国、さらには日本の宗教を理解するうえでのお役立ち情報満載。

世界史知識として、西洋社会がキリスト教の上に成り立っているだの、イスラム教徒とは戦争を繰り返しているだのということは知っていたが、本書はさらに一歩踏みこんで、宗教と人々の思考体系、社会体制そのものの結びつきにふれているのが素晴らしい。

たとえば本書では、いまではあたりまえに思える(が、一部国家ではそうでもない)所有権について、「神が創造物である人を絶対的に支配する」という考え方がベースにあると指摘する。この発想は私にはとても新鮮だった。なるほど、一神教がない国家に、所有権がなかなか根付かないのも納得できる。

近代的「所有権」の大事な性質は、絶対的なことです。「絶対」とは、誰にも邪魔されないで所有権を主張できる、ということ。自分の所有物を、絶対的に支配することができる。こうして私有財産制度が確立し、西欧世界は封建制から脱して、近代社会に移行できたのです。

...

この近代的所有権は、Godと被造物(人間など)の関係を、人間とモノの関係にあてはめたものです。

なぜ共産主義が西側ではなくロシアで起こったのかについても、著者は面白い説を唱えている。西側社会では歴史的事情から、教義を解釈する教会と人々を支配する政治権力とが分断されていたが、東側社会ではこれが連携されていた。ゆえに政治権力に「教義を解釈する」ことができ、その結果、強力な一党独裁体制ができたのだという。

政治権力と教会の権威が連携する東方教会のシステムは、マルクスレーニン主義に受け継がれたとも言えます。共産党は、教会と国家権力とを兼ね、現実世界の解釈権を独占していました。そして共産党の支配を内側から批判することは、きわめて困難だった。

本書は新書であるために内容がわかりやすく、いくつかの面白い考え方を紹介しているものの、あまり深くは立ち入っていない。宗教への興味をかきたて、宗教と西欧社会の結びつきについてさらに知りたいと思わせてくれる点で、本書は充分役割を果たしているのだと思う。

司馬光《資治通鑑》巻百八十一: 隋紀五

資治通鑑》。全294卷、約1300年にわたる中国の歴史を記録したものであり、権謀術数渦巻く宮廷権力闘争を学ぶには最適だと毛沢東も愛読していた。

あまりにも長編ゆえ、気がむいたときに少しずつ読んでいく。順不同で興味が向いたところを読んでいくつもり。権謀術数、人間模様、抱腹絶倒がキーワードだ。

 

卷百八十一は《隋紀》の五。中国史上トップクラスのダメダメ皇帝扱いされる隋煬帝の治世初期のお話。

この巻の最初に、北京からの運河建設をするべく、百万の大軍を動員してなお足りず(建設機械なんぞ影も形もない時代である)、女性までも土木工事に駆り出したエピソードがある。京杭大運河の開通工事。隋煬帝が民を虐げる暴君である根拠のひとつである。

この大運河、建設当時こそ民にとんでもない苦労を強いたが、やがて「広大な中国の行き来がすごく便利になった」と喜ばれ、現在も物流の大動脈として使用されている。なのにそれを完成させた隋煬帝の評価は最低最悪のまま。派手好きで南方好きだった隋煬帝がよく大運河を龍船(皇帝専用船)で中国南部まで行ったため、「船遊びのために大運河造ったのかコイツは。建設工事で何人死んだと思ってるんだ」と恨まれたためらしい。成果を出してもアピールが下手くそだったというべきか、そもそもアピールする気が端からなかったのか。

この巻から隋煬帝の派手好き仕事サボりイエスマン大好きがだんだん明らかになってくる。隋煬帝がお気に入りだという臣下はことごとく忖度のエキスパートで、巧みに法解釈をして隋煬帝の望むままに重罪判決にも軽犯罪にもできる者、朝廷を毎日開くのは激務だから5日に一回でいいのではという者がいたという。

煬帝と臣下の間にこんな対話があった。

「長江南側の王は多くが色好みで、宮殿深くにいて民と顔を合わせないのはなぜだろう」

「だから彼らの王朝は長続きしないのですよ」

お前が言うな、である。

 

日本から遣隋使小野妹子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という手紙をもたらし、隋煬帝をたいそう不機嫌にさせたエピソードもこの巻。

煬帝の返書がこれまた失礼なものだったため、小野妹子がわざと返書を失くしたという歴史小話まであるが、こちらはどこまで本当かわからない。まあどの時代もトップ同士のやりとりは部下の神経を削るものである。

また、隋が「流求国」を攻め負かしたこともこの巻で登場するが、これが台湾に沖縄までふくめた地域なのか、台湾だけを指すのかは歴史学者の間でも意見が分かれるらしい。

 

この巻のハイライトは高麗国討伐開始である。隋煬帝はその治世で三度にわたって高麗国討伐を試みたが、この巻で語られるのはその第一回。高麗軍は人数では隋軍に遠く及ばなかったが、守りが堅固であり、時間稼ぎがうまく、チャンスをものにするのがうまかったことが、数々のエピソードとともに語られている。

 

司馬光《資治通鑑》卷百七十七: 隋紀一

歴史は繰り返すといわれるように、ある国家の現在を理解し、未来を予測しようとするならば、その国家が過去歩んできた歴史をひもとくのが近道である。

アメリカとの熾烈な貿易戦争で注目を集めている中国だが、この先どうなるのか、さまざまな憶測が飛び交っている。

歴史書をひもとけば、歴代中国王朝には共通点がある。経済状況が良好の間は為政者が多少強引でもうまくいくが、ひとたび経済状況が悪化すれば、経済悪化の不安にそれまでの強引な政策推進への不平不満が上乗せされて、社会が一気に不安定化する危険性がある。経済発展こそが歴代中国王朝の拠りどころであり、それは現在の中国共産党一党独裁体制でも変わらない。アメリカにとっては国益を守るための貿易戦争だが、中国では政権維持がかかる。切実さが違う。アメリカ有利に見えるけれど、窮鼠猫を噛むというし、勝敗の行方はわからない。

 

こういうことを考えるにあたって、私が読もうと思ったのが《資治通鑑》。全294卷、約1300年にわたる中国の歴史を記録したものであり、権謀術数渦巻く宮廷権力闘争を学ぶには最適だと毛沢東も愛読していた。

あまりにも長編ゆえ、気がむいたときに少しずつ読んでいく。

 

卷百七十七は《隋紀》の一。

日本から遣隋使を派遣したことで、日本歴史にも馴染みのある隋王朝は、傀儡皇帝を除けば二代37年で滅亡し、唐にとって代わられた。だがこの間の成果は目を見張るものがある。後に唐や日本がまねた律令の制定、科挙制度の創設、少数民族を含めた国家統一。隋の成果や教訓から学んだからこそ、唐は280年間続く大王朝になれたともいう。

 

《隋紀》は隋王朝の初代皇帝、隋文帝が当時長江南方にあった陳王朝を滅ぼし、三百年近く続いた南北分断状態を終わらせ、中国全土を統一したところから始まる。

読み始めてすぐに、権謀術数、人間模様に加えて、抱腹絶倒が《資治通鑑》のキーワードなのではないかと思えてきた。登場人物がスゴいやつとアホと小悪党と、どいつもこいつもキャラが立ちまくっており、酒の席で「あいつスゴいなー」「あいつアホだなー」と笑いをとるのにぴったりの連中ばかり。

私が大好きなアニメ作品『コードギアス 反逆のルルーシュ』の現実版が1300年分続くと思えば、期待が否が応でも高まる。


末代皇帝はたいてい歴史書でろくな書き方をされない。陳王朝の末代皇帝、陳後主はなかでもダメ皇帝の代名詞であり、「コイツは無能で政治軍事をサボり倒して酒や女遊びにふけったから天命を失った」とボロクソ言われるのがお約束。

資治通鑑》での記述も容赦ない。

いわく、陳後主は隋文帝の息子・楊広率いる隋軍が攻めてくる報せに怯えて泣くばかりだった。

いわく、陳後主は蕭摩訶将軍に隋軍討伐を命じたが、女遊びの激しい陳後主が奥さん(美人の若妻!)に手を出していたせいで、将軍はやる気ゼロだった。ちなみにこの将軍、陳後主に出陣を命じられたとき「国家と自分自身のために戦ってきましたが、今回は妻子のためにも戦いましょう」と嫌味で返している。

いわく、隋軍が王宮に迫ると陳後主はパニックになり、みっともないからやめろと止める部下を振り切って寵姫二人と枯井戸に隠れた。

ダメ皇帝の見本市のような陳後主が捕らえられたあと、隋文帝は彼を丁重に扱い、隋王朝で官僚として生きていけるようにはからった。しかし彼は役職付きじゃないから居心地が良くないと文句たらたら、毎日呑んだくれてまったく仕事をしない、といった調子で、勤勉な隋文帝を呆れさせたという。

一方で隋文帝は、陳王朝の残党狩りに力を入れた。現在の広西壮族自治区一帯を治めていた女性頭領・洗夫人が、みずから隋王朝に帰属してきたことを隋文帝はよろこんだ。彼女は女性の身でありながら戦地で弓引いた、中国史上最初の女傑ともいわれる。

 

歴史の皮肉をひとつ。

泣きわめいて逃げまどうダメ皇帝陳後主を玉座から引きずり下ろし、中国全土統一に大きく貢献した隋文帝の息子、楊広。

彼こそ、のちに陳後主以上のダメダメ皇帝といわれることになる、隋の2代目皇帝にして事実上の末代皇帝、隋煬帝である。

歴史書が隋煬帝のことにふれるときは「コイツは暴君で度重なる戦争と舟遊び用の大運河建設でカネを使い果たして民をとことん虐げ、都落ちした先で酒におぼれて自滅した」とボロクソにこきおろすのがお約束。とどめとばかりに、「煬」という諡が、「礼を行わず民を遠ざける」「天に逆らい民を虐げる」という悪意のかたまりのような意味だという解説もついてくる。ぶっちゃけ隋を滅ぼした唐の初代皇帝が嫌がらせでつけたのだが。

彼の物語は、この後読んでいく《資治通鑑》でおいおい紹介しよう。

 

いまの職場から逃げたくなったときに読む『The End of Jobs: Money, Meaning and Freedom Without the 9-to-5 (English Edition)』

少し長い前置きになるが、私がインターネットを通したビジネスに本気で興味をもったのは、勤務先 (日系企業) での会議がきっかけだった。

その会議で、「重要な設計図の内容にリスクがある。プロジェクト全体に影響するかもしれない。リスク管理をどうお考えか」という質問がプロジェクトリーダーに向けられた。リーダーはその設計図を手がけた20代の若手の方を向いて「〇〇君が一生懸命作ったものなんだからそんなことにはならないよ、ねえ?」と言った。

プロジェクトのリスク管理は、リーダーであるあなたの仕事ではないのか。なぜそれに答えないのか。そもそもなぜ精神論で出来不出来を評価しようとするのか。

怒鳴りたくなるのをこらえた。

事実、設計図はひどかった。必要情報が足りなかったからだ。プロジェクトリーダーの仕事は、設計図にリスクがあることを把握し、リスクの管理方法を考えること。若手にはできないことだ。だがリーダーはそうすべきだと思っていないのがよくわかった。

あの会議以降、私はこのリーダーや、このような上司から逃げる方法を探し続けている。

本書にめぐりあったのは、そんな時だった。

 

本書は、この前読んだ『どこでも誰とでも働ける』(尾原和啓著)のアメリカ版といえる。インターネットを通して、好きな国に住みながら居住国以外でビジネスを創り出すことが理想的であり、この情報化社会にふさわしいというのがテーマだ。

私がこの本を購入したのは、スティーブ・ジョブズの素晴らしい言葉が引用されていたから。最初にこの言葉をもってくる本はきっと読み応えがあるだろうと思った。

“Everything around you that you call life was made up by people that were no smarter than you and you can change it, you can influence it, you can build your own things that other people can use.

Once you learn that, you’ll never be the same again.”

ーーあなたのまわりにあるもの、あなたが「生活」と呼ぶものはすべて、頭の良さではあなたとどっこいどっこいの人達によって作られた。

あなたはそれらを変え、影響し、ほかの誰かが利用できるものを自分で作ることができる。

このことを学べば、あなたはもはや以前と同じあなたではなくなる。(意訳)

読めば読むほど、興味深いことが次々出てきた。

たとえばなぜ高学歴にもかかわらず就職が難しくなっているのか。著者の主張をまとめると、学校教育では決められたやり方をこなせる人材を育てるが、インターネット時代には「やり方を創る」人材こそが重宝されるから、となる。

Cynefin Frameworkというチャートで示されるとさらに納得できる。人工知能ブームは、 まさに、人工知能の応用先をみつけ、その市場を開拓してやろうという世界競争である。人工知能というものは過去存在しなかった。したがってその利用方法も自力で考えねばならない。これこそが起業家がやるべきことで、チャートで ”Complex” と表現されているエリアだ。

 

本書では繰り返し、インターネットの普及によりゲームのルールは変わったと述べる。かつては土地、債券、知識、情報が高く売れた。しかし今は地価は落ちつき、債券市場は歪みが小さくなり、インターネットで最新情報や教育プログラムにタダでアクセスできる。

ではこれからの時代で金になるのはなにか? それは起業だと著者はいう。

これについて私は疑問をもっている。知識は売れる。教育がまさにそうだ。だが起業はあくまで手段であってそれ自体が売れるわけではない。

ではこれからの時代はなにが高く売れるのか?  私にはすでに答えが出ているように思える。「経験」だ。

かつてないほどに細分化された消費者需要に応えることは、大企業には難しい。大量生産が見込まれる分野ではこれからも大企業が必要になるだろうけれど、それ以外の分野では、特定の消費者需要にあった製品を提供できる小規模企業がどんどん成長するだろう。また、大企業がつくったものをシェアするビジネスも栄えるだろう。

消費者はどんどん自分の好みにあった製品やサービスを欲しがるようになるだろう。それは自分好みの経験をするためだ。人生は経験の積み重ねでできている。自分好みの経験をしたいという欲求は、つまりは自分好みの人生を過ごしたいということだ。そのためにならお金を出し惜しみしない。細分化された消費者需要に応えて彼らをファンにできれば、お金儲けに困ることはないだろう。日本のオタク文化がいい例だ。

多様化こそが生存の鍵。生物学上の真理が、これから世界規模で推し進められるのかもしれない。

 

置かれた場所で咲くこととは逆に『どこでも誰とでも働ける』

この本の一番凄いところは「自分にもできるかもしれない」と思わせてくれるところだと思う。

著者の尾原和啓さんは新卒でマッキンゼーに入社、その後NTTでiモード立ち上げに従事、Googleに転職、と、どこを切り取っても凄い経歴なのに、書いていることは、ハイスペックエリートではないごく普通の私にもできそうなことばかりだ。

たとえばインターネットの影響。私がブログやSNSを書いているように、ほとんど誰もがコンテンツをネットで発信する時代に、著者の表現はスッと入ってくる。

世界がインターネット化することによる影響は無数にありますが、個人の働き方は、多くの人や企業と対等(フラット)の関係でつながり(リンク)、知識や成果を分け合う(シェア)形に進むことになるでしょう。

たとえばプロフェッショナル。「その道のプロ」は雲の上の人に思えるが、著者にかかれば身近に感じられる。

プロフェッショナルの語源は 、自分が何者であるか、何ができて何ができないかを、自分の責任で「プロフェス(公言)」することです。自分で自分を律して成果を出し、それを相手にしっかり説明して、相手がそれを評価してくれること。この3つをおこなうことができれば、どんな職種であれ「プロ」と名乗ることができます。

 

読者ができそうに思える知識・経験をシェアする、というのは「こうすればうまくいく」主張が強くなりすぎて押しつけがましくなったり、「著者はうまくいったんだろうけれど…」と一歩引かせたりすることになりかねず、バランスが難しい。ことに私のようなひねくれた読者にとっては。

だが、この本では、著者はただ語りかける。知識・経験をシェアするけれどもどう使うかはあなた次第。そのスタンスのおかげで、押しつけがましさを感じさせずにコンテンツを楽しめる。それが魅力だ。

著者は自分のことを一匹オオカミだという。どこにも馴染めないけれど、さまざまなところを渡り歩き、あるところから別のところに情報や知識を「シェア」して喜んでもらい、喜ばれることでそれらの場所を「リンク」する、という意味らしい。この立ち位置は、多くの人々がインターネットでやっていることであり、私がやりたいことでもある。

 

小難しいけれどためになる『バブル 日本迷走の原点』

この本は日本経済新聞を読み慣れていなければ難しい。

著者は40年間、経済記者として市場経済を見続けてきた人物。それゆえか著書も新聞記事風だ。書き方は簡潔明瞭、事実および事実に基づく推測に終始するけれども、たとえ話などの「同じことを別の言い方で繰り返す」ことや、登場人物達の「直接話の本筋(経済活動やバブル)にからまないながら性格や人間臭さを浮き彫りにするようなエピソード」がぎりぎりまで削ぎ落とされている。新聞記者というのは、限られた字数で最大限情報を伝えるよう訓練されているのだろう。

そういった文章に慣れていなければ、無味乾燥で面白くないと感じてしまう。だが、とっつきにくさを乗り越えれば、内容は深い。これからバブルは主に発展途上国で起こることになるだろうが、それを理解するための情報が、たっぷりと詰めこまれている。

 

本書で取り上げているのはバブル。1980年代後半に空前の株高を招き、ツケとして、その後の失われた20年をもたらした現象。著者の言葉を借りれば「特定の資産価格(株式や不動産)が実体から掛け離れて上昇することで、持続的な市場経済の運営が不可能になってしまう現象」だ。

もとより株式や不動産といったものの資産価格を予測できるかどうかは金融業界の永遠のテーマである。予測できればウォーレン・バフェットを超える大金持ちになれるからだ。バブル時代には誰もが、株式価格や不動産価格は上がり続けると予測した。その予測は数年間外れることはなく、その後唐突に大外れとなった。

著者はバブルをこう総括する。

80年代のバブルとは、戦後の復興と高度成長を支えたこの日本独自の経済システムが、耐用年数を過ぎて、機能しなくなったことを意味していた。日本経済の強さを支えてきた政・官・民の鉄のトライアングルが腐敗する過程でもあった。

 

読み進めると、バブルとはなんだったのか、おぼろげながら輪郭が浮かぶ。

日本は規制経済、為替固定、円安ドル高というシステムの中で経済成長を享受したが、1985年のプラザ合意で、アメリカの要請でドル高是正に切りかえた。最初はまだ経済成長の勢いのままに莫大な利益を得られたが(これがバブル)、日本市場がグローバル市場から正当な値付けをされるようになると、株価や不動産価格は暴落し(本来あるべき価格に戻り)、含み益を会計計上していた企業が次々破綻した。

ーー私にはこういう物語に読めた。

つまり、規制された市場では価格は不当に高くつけられることがあり、規制緩和によってグローバル市場にさらされれば本来あるべき価格に戻る。その過程でバブルが生じたのだ、と。

バブルと不況が数十年単位で繰り返されるという経済。日本経済は不況からだんだん脱けだそうとしているが、今後またバブルが生じるかもしれない。その時、1980年代の教訓を生かしたい。

珠玉のエッセイ集『倒れるときは前のめり』

有川浩はとても好きな作家のひとりだ。どう紹介したら有川浩ファンじゃない方がこのエッセイ集を読みたくなってくれるのか、頭をひねらせるのもまた楽しい。

このブログは私の読書記録をつけるために立ち上げたが、面白い本にどんどん出会うにつれて、またほかのブロガー様が絶賛していた本を読んでみたらめちゃ好みだったという経験が重なるにつれて、私がこのブログで紹介した本を、誰かが読んでくれればいいなと思うようになった。本屋で見かけたらふと手に取りたくなるような紹介を書きたいと思った。

そんな試み第一弾に、好きな作家のエッセイ集をもってくるのは悪くない。

 

この本単体で「面白いから読んで!」とすすめるのはちょっと難しい。なぜならこのエッセイ集は、新作発売時に雑誌に書いた作品紹介だったり、好きな本や映画を紹介しようという企画だったり、東日本大震災時の呼びかけだったり、はたまた郷土愛満載だったり、文字通り「その時々になんらかの目的で書いた短文のよせ集め」なのだ。最初からテーマを決めてまとめて書き下ろすエッセイ集とは違い、この本は作者がこれまですごして来た作家人生の折々の一瞬を気ままに切り取ったもの。ファンであれば「ああ、あの作品のあの登場人物ね」と膝を打つけれど、読んだことのない方はこの楽しみ方ができない。

だけど、読んだことのない方は、エッセイ集でふれている有川浩の作品のうち、気になるものを読むという楽しみがある。たとえば「有川浩的植物図鑑」でいきなり野草、それも食べられるものをやたら紹介するエッセイがあるけれど、なんだこれ?  と思ったら『植物図鑑』を読んでみるとか。タイトルはこれだけれど中身はベタ甘恋愛小説兼一風変わったグルメ紹介な、エンターテイメントが味わえる。

私のおすすめは、故児玉清さんも一読者として楽しんでいた『図書館戦争』シリーズ。児玉清さんとの思い出はエッセイ集冒頭に、思い入れの深い文章で書かれている。

もし有川浩さんの小説に興味を覚えた方がいれば、なにも探しにいかなくてもいい。エッセイ集の最後に短編小説が二編収められている。「ゆず、香る」はバンダイから発売されたゆず入浴剤とセットの「ホット文庫」に書き下ろした短編小説で、現在入手困難。それがエッセイ集で復活したのは嬉しいかぎり。有川浩さんが書く恋愛小説がどういうふうなのか、ちょっとつまんでみるのにぴったりだ。