コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

食べるラー油ならぬ食べる文章『小林カツ代のお料理入門』

小林カツ代さんの本に出会ったのはかなり昔だ。最初に読んだ本のタイトルももう思い出せない。けれど「小林カツ代さんは美味しい文章を書くひと」ということはずっと記憶にあった。

なんというのか、お料理について書いたエッセイを読んでいると、まるで本当に食べているような気分になってくる。しかもどれもこれも美味しい。炊きたてご飯を茶碗によそって、塩をふって食べることを書いたエッセイでは、電気釜の蓋の重み、立ちのぼる湯気、炊きたてご飯の香りがわっと広がる光景が、匂いつきで目の前に浮かぶ。お料理の味加減じゃないけれど、匂い、感覚、味の描写が絶妙。

小林カツ代さんがこの本で書いたお料理は、どれもこれも手間いらず、なんだったらちょっと手を抜いたりして、一人暮らしにぴったりな分量ながらとても美味しい。まるで初めて一人暮らしをする子どもにお母さんがレシピを伝授しているよう。一緒に作りながら「こうすれば美味しいんです」とニコニコしている昭和のお母さんがしっくりくる。

もともとのタイトルは「実践 料理のへそ!」。へそは胎内にいる赤ん坊と母親を結ぶ大切な命綱だから、料理のへそは、そんな命にかかわる大事な意味もあってつけたそう。味のカギを握るところにポイントを置いていて(とはいっても「砂糖はパパパッと肉の上全体にふりかけてから」というように全然難しくないこと)、こうすれば美味しい!

料理研究家である前に、「美味しいものを食べたい/食べてもらいたい」がエッセイに凝縮された小林カツ代さんの本。お腹が空いているときに読めば、お腹がぐうぐう鳴って、すぐに台所に立って料理したくなること請けあいだ。

国家に潰されるということ『A3』

 

A3 上 (集英社文庫)

A3 上 (集英社文庫)

 
A3 下 (集英社文庫)

A3 下 (集英社文庫)

 

たまたま全文無料公開されていることを知り、オウム真理教のことを知るために読んでみることにした。

https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac

読み続けるのが苦しくなる本だった。テーマはオウム真理教でも教祖麻原彰晃でもない。

「国家権力を総動員してでも、違法行為や超法規的措置や例外をことごとく容認してでも、必ず潰さなければならない」

そう認識されたとき「潰される側」がどういう仕打ちにあうか、記録し、問うことだった。

 

地下鉄サリン事件が起こった1995年3月、わたしは兵庫県在住だった。阪神淡路大震災の報道をもう見たくなくてほとんどテレビをつけていない時期だった。

インターネットも今日ほど発達していなかったから、全国を震撼させた凶悪事件だったにもかかわらず、リアルタイムで報道を見聞きした記憶はほとんどない。また、関西在住のわたしにとって、一度も行ったことがない東京というところは、どこか遠い地に感じられた。麻原彰晃という名前は知っていたが、彼がなにをしたのかは、ぼんやりとしか印象がなかった。

オウム真理教について初めて読んだ本は、『悪魔のお前たちに人権はない』というタイトルだったと思う。

麻原彰晃が残した就学年齢の子どもたちが、住民票受理を拒否され(ちなみに元信者の転入届不受理問題は最高裁で違法判決が出ている)、義務教育すら受けさせてもらえずにいるのを、なんとか小学校に入学させようと支援者の女性たちが孤軍奮闘することを書いたノンフィクションだった。人権とはなにか、父親の罪故に子どもたちを村八分にするのは正しいのか、ずいぶん考えたように思うが、どういう結論が出たかはもはや思い出せない。

2018年7月6日、麻原彰晃始めオウム幹部の死刑が執行されたとのニュースを皮切りに、ふたたびオウム真理教の報道にふれる機会が多くなった。聖路加病院の故日野原重明院長の英断により多くの地下鉄サリン事件被害者が適切な治療を受けられたこと、元信者の林郁夫の全面自供をきっかけに事件が一気に解決に向かったことなどを知った。

その時はエリートと呼ばれる人々がこぞってオウム真理教に入信したことに多少興味をもった。冷静な判断力をもつはずの人々がなぜ狂信的教団に加担したのか、知りたいと思ったが、あえて調べるほど興味が高まったわけでもなく、すぐに忘れた。

いま、若い人達は、オウム真理教の名前を知らないことが多くなってきたという。事件が時間とともに風化していく中で、久々に読んだのが本書だった。

 

本書は当時の連載記事を一冊の本にまとめたもの。オウム真理教をめぐる当時の状況、それに著者が覚えた違和感を、なるべく客観的に記述しようと試みている。

読み始めてすぐに、なぜネットでの無料全文公開に踏み切ったのか、なんとはなしに想像がついた。それだけ読んでほしかったのだろう、できるだけ大勢の人々に。

 

本書で繰り返し述べられているのは、「オウム真理教をめぐる警察・裁判・ジャーナリズムの異様さ」。

オウム真理教相手にはなにをしても許されるとばかりに、別件逮捕の濫用、裁判での精神鑑定不適用、違法な転入届不受理などがあったと、そういったことを感情をできるだけ交えず客観的に、オウム真理教の善と悪の倫理判断に踏みこみすぎることなく、淡々と記述している。

たとえば、傍聴席から見た麻原彰晃はまともな精神状態になく、話があちこちにとんで混乱を極めていたように見えた。そのため裁判を進めるにあたっての判断能力、すなわち訴訟能力(責任能力ではない)に問題ありと著者は見立てた。だが、なぜか一審では精神鑑定は問われなかった。著者からは、麻原彰晃は逮捕時はまともだったのに公判時には「無残に崩壊していた」ように見えた。反抗的な麻原に過剰な向精神薬が投与されたためではないかとの噂がたった。

熊本では、ふつうなら行政指導をすることでも、オウム真理教がからめばいきなり警察が家宅捜査に入った。こういったさまざまな動きが、著者に「まともだろうか」と思わせるきっかけとなったらしい。

戦後最も狂暴で凶悪な男として語られるこの悪の特異点は、裁判においても一審判決確定で審理が打ち切られるという特異点になった。あらゆることが異例だった。でも異例であるはずのあらゆることが、麻原であるという理由でことごとく整合化された。

こうして異例は前例になる。オウム以前とオウム以降とで、日本社会は明らかに変質した。ならば特異点の特異性を見きわめねばならない。何がどのように特異なのかを知らなくてはならない。

さまざまな前例が残り、通信傍受法などの法規が、オウム真理教事件をきっかけに成立した。

著者が恐れているのはこのことだ。

オウムが消滅したとしても法律は効力を保ち、前例は残り続ける。地下鉄サリン事件のことなど知らないという若者が確実に増えてきているにもかかわらず、彼らは法律や前例の影響を受ける。そしてオウムがいなくなれば、法律や前例は存在意義を失うかといえば、そんなことはない。それらは新しい適用先を見つけて生き残ることがある。新しい適用先がなにかは、誰にもわからない。

歴史上、日本は同じことをやったことがある。悪名高い治安維持法だ。

もともと治安維持法は皇室反対論者や共産主義者を取り締まるためにつくられた法律だったが、取り締まるべき対象がほぼいなくなると、そのためにつくられた特別高等警察組織は存亡の危機に立たされた。だが、いったん成立した組織は、それ自体が存続し続けようとするもの。特高がとったのは、治安維持法の検挙対象を拡大するという方法で、それがしだいに過剰なまでの団体活動の弾圧につながった。

治安維持法について、Wikipediaにはこうある。

検挙対象の拡大

1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。

1937年6月の思想実務者会同で、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特別高等警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。

そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。

 

オウムは特別だ、オウムにしか適用しない、という言い訳で果たして安心できるだろうか、というのが、一貫して著者が問いかけていることだ。

オウムと同じレベルのことをやらかす団体がもし現れたら、「この団体はオウムと同じ、いやそれ以上の巨悪だ」という共通認識が生まれ、同じことがその団体にも適用される。こうして第二、第三の適用対象が現れ、例外はいつのまにかそうでなくなってしまう。これこそが著者の恐れることだ。

オウムがやらかしたのは東京での毒ガスを用いた大量無差別殺人行動だ。こういうことはめったに起こらないーーといっても、9.11の同時多発テロ以後、ヨーロッパ諸国の首都では、イスラム過激派による小規模テロはもはや珍しくなくなってしまった。日本がアメリカの同盟国である以上、他人事ではいられまい。

オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。

 

著者の問いかけについて、わたしは答えをもたない。そして答えをもたないことについて、わたしはそれほど関心をもたない。

この問いかけを意識してのことではないだろうけれど、ひとつの思考実験として参照できそうなのが、小野不由美先生著『落照の獄』。著者がそれを読んだかどうか、わたしが知ることはないだろう。

この本は次の言葉で締められている。麻原彰晃らオウム幹部の死刑が執行されたいま、それは現実になった。

そのときに自分が何を思うのかはわからない。でもこの社会がどのような反応をするかはわかる。
それはきっと、圧倒的なまでの無関心だ。

想像の中のアメリカ留学『英語の授業では教えてくれない自分を変える英語』

本書は15歳の中学生・峰岸陸がアメリカ留学してからハーバード・ビジネス・スクールに入るまでの物語形式で、物語を通して、日本とアメリカの文化的違いを説明しようとしている。ところどころで会話文として英語が登場しており、章末に役に立つ表現をまとめているくらいで、単語や文法についてはほとんど触れない。

あることを説明するためにストーリー仕立てにすることはとても良い方法だけれど、本一冊書けるほど長いストーリーにすると、目的がはっきりしすぎているために物語構成としては無理がでてくる。本書はまさにその罠におちたていた、というのがわたしの感想だ。陸のアメリカ留学経験は、紹介したいシチュエーションにもっていくために、かなり強引な物語展開が多く、途中からつまらなく感じてきてしまった。物語展開が強引であるゆえに「アメリカのことを知らない著者が書いた、想像の中のアメリカ留学もの」に思えてしまう。

説明のための物語形式でありながら、物語としても充分面白い読み物としては、『ソフィーの世界』が筆頭だろう。分厚い本だ。本当に異文化理解のことを書くならば、たかが200ページ程度ではとても足りない。本書では、せいぜい上澄みを掬うにとどまってしまった。

イギリス人だって空気を読みまくる『イギリス英語は落とし穴だらけ』

めちゃくちゃ面白い。イギリス英語がものすごく空気や行間を読む、ある意味日本語に似た言語だとわかる。

たとえばこれ。

(英)I hear what you say.

(訳)君の言うことは耳に入れておくよ。

(真の意味)一応礼儀として聞いておくけど、僕の意見は君とは違う。もうこの話はやめにしよう。

どうだろう。会社勤めなら誰でも心当たりがあるのではないだろうか。もうひとつ。

(英)It’s interesting.

(訳)それは面白いね。

(真の意味)へえそうなんだ。でもなんかおかしいなあ(It’s ...butを連想させて)。まあどうでもいいけど。

ちなみにThat’s interesting. であれば、素直に「それは面白いね」の意味になる。なんとも微妙なさじ加減。

こういったニュアンス満載のイギリス英語を、本書はわかりやすく紹介している。

もともとイギリスは伝統的文化として、自嘲、謙虚、控えめの表現が美徳とされてきたが、島国であるためか、こういったことは日本、特に京都辺りにもよく見られるように思う。言葉以外のニュアンスを巧みに響かせて、本当に言いたいことを口に出すことなく伝える技術だ。

クスリと笑える表現満載でありながら、イギリス英語のよく使う表現を勉強するためにもってこい。今度イギリスの友人を驚かせてみたい人はぜひ読んでみては。

フジテレビ買収を決めた信念『生涯投資家』

ライブドアによるフジテレビ買収がニュースになった頃、わたしはまだ経済にも投資にもあまり興味がなく、フジテレビ買収のなにが問題なのか良くわからなかった。それに絡んで村上ファンドの名前が出てきたときも、インサイダー取引があったらしいくらいの認識だった。

この本は十年の時を経て、村上ファンドを率いていた著者が書いたものだが、いわゆる真相告白本ではない。投資家としての信念、生涯投資家として実現しようとしたことを訴えかけた本だ。

わたしは基本的に告白本の類は読まないのだけれど、この本は純粋に投資理念について学ぶための本として読むことができた。投資とはなにか、投資家とはなにか、企業のあるべき姿はどういうものか。そういったことについて、50年の投資経験がある著者が、生涯かけて学んだことを読むのは、これから投資を考えるにあたってとても役立つ。

そもそも投資とは何かという根本に立ち返ると、「将来的にリターンを生むであろうという期待をもとに、資金(資金に限らず、人的資源などもありうる)をある対象に入れること」であり、投資には必ず何らかのリスクが伴う。しかしながら投資案件の中には、リスクとリターンの関係が見合っていないものがある。それを探し、リタ ーン>リスクとなる投資をするのが投資家だ。

 

著者が目指してきたのは、ひとことで言うと、コーポレートガバナンス徹底による死蔵資金活用。

コーポレートガバナンスは、企業内のセクハラ・パワハラ防止やら、企業の社会貢献活動やら、さまざまな場面で異なる意味で使われている言葉だ。投資家として見ると、コーポレートガバナンスは、投資先企業・団体との健全な対話や議論、株主が企業の健全な経営を監視・監督するためのルール。目指すところは企業価値向上、ひいては株価上昇による投資リターンの最大化だ。だからその反面、内部留保しすぎて投資も株主還元もしていないような企業は、投資家からすると、不必要な死蔵資金を抱えこんで活用出来ていないとしか映らない。

コーポレート・ガバナンスの徹底は投資家にとって目的ではない。目指すリターンを得るまでの目標を投資先と共有し、確認し合うコミュニケーションのルールだ。ゴールはあくまでも、企業が株主に対して、自社の成長や株主還元という形でより高いリターンを提供することである。

著者から見ると、株価向上に努めていない、本来あるべき企業価値に対して株価が低すぎる企業が多すぎるという。

たとえば内部留保金額が時価総額より高い(著者曰く「一万円入りの財布を七千円で販売しているようなもの」)と、資金活用が十分ではないし、そのような企業は買収対象になりやすい。ライブドアが買収をしかけたニッポン放送も、歴史的経緯でフジテレビの筆頭株主でありながら、自身の株価はつりあわないほど低かった。

 

内部留保するくらいなら事業投資なり株主還元なりすべき、という著者の考えはもっともだ。一方で、貯金大好き安定大好きな日本人気質から見ると違和感はないのだから、難しいところ。この気質をどうにかしないと、コーポレートガバナンスの実現は遅々として進まないままだろうという気がする。

企業経営者に限ったことではないけれど、貯金大好き安定大好きな日本人気質は、不安定な状態(手元に資金があまりなくて、事業が成功してお金が入ってくるかわからない状態)への過剰なまでの恐怖心があることの裏返しにも思える。あるいは、高度経済成長期やバブル期に資産を持っているだけでどんどん価値が上がっていった成功体験があるから、経済状況がまったく変わってしまった現在でも同じやり方にしがみついているのかもしれない。もしくは、そもそもリスク判断についての教育(いわゆる金融リテラシー)が行き届いておらず、リスクとリターンを比較した上でリターンを期待して飛びこむという思いきった決断ができないのかもしれない。

どれが実態に近しいのかはわからないし、すぐに変わるものでもないだろう。今わたしは、自分自身から少額でも投資を始めようかと考えている。こういったことを、投資を実行しながら考えていきたい。

ここがおかしいよ日本社会『発達障害の僕が「食える人」に変わったすごい仕事術』

 

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術

 

わたしがインターネット上で借金玉という名前を知ったのは、ニューアキンドセンターへの投稿を読んだのが最初だった。読み始めてからすぐ、わたしはこういうことが知りたかったのだと思った。同時に、こういうことを書くのに、生傷を引き裂いて鮮血を迸らせ、血反吐を吐き散らす覚悟と胆力が必要だっただろうとも分かった。自分自身を含めた現実と徹底的に向きあった人間の文章だった。

借金玉氏がニューアキンドセンターで書いた記事のまとめはこちら。

借金玉 | ニュー アキンド センター

そのうちでもわたしが何度も何度も読み返した、読んで絶対損はない記事をいくつか。

起業失敗の話。起業を志す皆さんに敗残者からお伝えしたいこと | アキンド探訪

連載最初の記事。起業の失敗理由を「人」の観点からえぐり下げている。借金玉氏は事業に失敗してからあまり時間がたっておらず(具体的には書いていないが、文章から察するに、創業期メンバーとの対立&反乱&背信行為があったと思われる)、「人間は必ず裏切る」という残酷すぎる現実がメインテーマ。だがここに「裏切った方が得な環境を作ってしまった代表取締役が悪い」と加え、自分自身が悪かったところも血まみれ解体しているのが借金玉氏のすごいところ。これで一気に連載ファンになった。

起業という甘い罠の話。なまはげに嵌められない起業とは | アキンド探訪

こちらは少々方向性を変えて「起業させてから食おうともくろんでいる出資者もいますよ」というお話。出資者に株式9割握られていたらもはやお察しだけれど、起業当初の、熱にうかれている状態では案外ころっといってしまう。

英雄頼りの「会社経営」から抜け出す理由。兎を獲ったら犬を煮る話。 | アキンド探訪

創業期を抜け、規模拡大期に入る頃。これまでひとりの超優秀メンバーにまかせていた仕事を、ほかのメンバーにもできるようにマニュアルなどに落としこんでゆかなければならないが、たいていここで衝突発生するというお話。借金玉氏が起業過程でつまずいた場所。

 

さて本書だが、タイトルから分かるように起業失敗についてのものではない。著者はADHD注意欠陥多動性障害)とASD自閉症スペクトラム自閉症、アスペルガ ー症候群、広汎性発達障害などを包括する概念)を抱えている。発達障害は一人一人の症状や困りごとが違う。著者にも双極性障害などいろいろある。

そんな著者が書く発達障害向けのライフハックであるが、読んでみると感想がひとつ。

「もしかして『ここがおかしいよ日本社会』が裏テーマになってないか?」

たとえばこの文章は読みながら、わたしは「あるあるあるある!!!!」と高熱時のうわ言みたいなことを言いながらうなずきまくっていた。

職場というのは、言うなればひとつの部族です。このことをまずしっかりと理解してください。

そこは外部と隔絶された独自のカルチャーが育まれる場所です。そして、そこで働く人の多くはそのカルチャーにもはや疑いを持っていません。あるいは、疑いを持つこと自体がタブーとされていることすらあります。それはもう正しいとか間違っているみたいな概念を超えて、ひとつの「トライブ(部族)」のあり方そのものなんです。言うまでもありませんが、それは排他的な力を持ちます。部族の掟に従わない者は仲間ではない、そのような力が働きます。

「空気を読む」とは、そのような部族の中に流れるカルチャーをいち早く読み取り、順応する能力です。僕にはこの能力が完全に欠けていました。欠けているだけならまだしも、そもそも順応する気がなかった。僕の失敗の一番致命的なところはそこだと思います。

 

なんとなれば、定型発達者であれば誰もが意識せずある程度できる(できるようにさせられる)ゆえに、ほとんど文字化されないことを、発達障害者である著者は文字化してみせた。

これ、社会文化学研究に一番大切な能力なんである。

「肝心なことはみんなできるから、わざわざ言葉に残そうとする人は少なく、文献の行間から読みとるしかない」というのは社会文化学研究あるある(とわたしは思っている)。それを本気で観察して考え抜いて文章化されるほどありがたいことはない。

発達障害者が書いた」ということにも価値があると思う。本気でわからないから本気で観察したことが文章からビシバシ伝わるし、明文化されることへの嫌悪感も低い。

人間、普段何気なくやってることを「これっておかしいよね?」と指摘されると、居心地悪くなったり、おちょくられたりバカにされたと感じたりするもので、「そう言うあんたがおかしい」と反論したくなる。ネットなどはこの手の論争に事欠かない。

けれど、発達障害者相手ではこの心理的ハードルが下がるのである。「発達障害者ならまあしょうがないか。自分をおちょくっているわけではなく、本気で分かっていないんだろう。よく読めば内容も結構納得できるし」てなもの。昔の中国なんかでもあったが、あいつおかしい、とささやかれる知識人が、最も鋭く社会批判していたりする。体制批判は時代によっては一族郎党全員死刑だが、"正常な"状態にないとみなされた人間は見逃されるのである。

話がそれたが、この本は「日本社会ワケワカラン」とお悩みの外国人移民勢には良い日本社会入門書になると思う。誰か英訳して売り出してみてくれないものか。

 

ちなみに、押さえておきたいポイントを3つに絞って紹介するならば、わたしはこれを選ぶ。

業務習得や遂行の最高の潤滑油は「好意」です。業務上関わる多くの人間に好意を持たれることにさえ成功していれば、ハードルは一気に低くなります。もちろん、逆も然りです。悪意を持たれた時点で、本当に大変なことになります。

この世で最もシンプルで、どの職場でも使える最強の「見えない通貨」。それは、 「褒め上げ」「面子」「挨拶」の3つです。この3つを覚えれば、人間関係における  9割の問題は解決すると言ってもいい。

人間というのは「雑談」を経てその人間がコミュニケーション可能な相手なのか、そうでないのかを測っている節が大変強くあります。共有する話題も用件も全くないところで発生するある種儀礼的なコミュニケーションは、お互いが対話可能かの試し合いです。これが「できない」と認識されると、それ以上の深いコミュニケーションをとるのは往々にして難しくなるでしょう。

【おすすめ】IT時代の軍事技術競争に負けるとなにが起こるか『Army of None』

【読む前と読んだあとで変わったこと】

新しい視点を身につけるために読む本。日本ではあまり取り上げられることがない、軍事技術発展という視点からIT技術を見るようになった。

 

かのビル・ゲイツがブログでAI・機械学習関係の必読書と絶賛していると聞き、即買い。

When ballistic missiles can see | Bill Gates

Army of None: Autonomous Weapons and the Future of War

Army of None: Autonomous Weapons and the Future of War

 

ビル・ゲイツが直接発信している情報に簡単にアクセスできること、欲しい本をAmazon Kindleで即買いできること。いずれもIT時代の恩恵だが、本書ではIT時代の軍事技術について、身の毛のよだつ現実を読者に見せる。

2018年12月頭に、中国のIT最大手であり、事実上中国解放軍のIT関連軍事技術開発を一手に担うファーウェイの副社長兼CFOがカナダで逮捕(のちに保釈)されたニュースは世界を震撼させたが、これは米国と中国がIT軍事技術分野でかねてから繰り広げてきた熾烈な覇権争いの一環である。

習近平のメンツをつぶした華為ショックの余波:日経ビジネス電子版

本書を読めば、なぜIT技術が必要かがわかる。

Work understands the consequences of falling behind during periods of revolutionary change. Militaries can lose battles and even wars. Empires can fall, never to recover.

ーーワーク(アメリ国防省官僚)は、革新的な変化が起こっている時代に乗り遅れることの重大さを承知していた。軍は戦闘や戦争そのものに敗北するだろう。帝国は没落し、二度と立ち上がれないだろう。

 

少し話が逸れるが、最近、欧米のエリートは「哲学教育」を重視しているという話題に触れた。日本で哲学の入門書といえば、おそらく《ソフィーの世界》を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。わたしも昔読んだ。

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

 

なぜ哲学を学ぶのか。強力な軍事技術を手にしたとき、それを濫用しない自制心と分別をつけることが目的の一つだ。シカゴ大学教授ロバート・ハッチンスは「無教養な専門家こそ、われわれの文明にとっての最大の脅威」と述べた。子供に核兵器を持たせることほど危険なことはない。本書に登場する軍事技術を「使う」側にいる人々が、それだけの分別をもつことを願うしかない。

 

前置きが長くなった。読書感想に入ろう。

最初の一文からショッキングだ。

On the night of September 26, 1983, the world almost ended. ーー1983年9月26日の夜、世界は終わりを迎えかけた。

三週間前の1983年9月1日、ソ連はアラスカ発ソウル行きの大韓航空機を撃墜し、アメリカ上院議員を含む乗員乗客269名が死亡した。両陣営の緊張は高まり、ソ連アメリカの報復を警戒して"Oko"と呼ばれるシステムで監視していた。

26日の真夜中過ぎ、システムが警告を発した。「アメリカ合衆国ソビエト連邦に向けてミサイルを五基発射」

当時駐在していたソ連将校ペトロフは、警告を奇妙に感じた。本当にアメリカが攻撃してきたのなら、たかだか五基のミサイルで終わらせるはずがない。ソ連の地上設備を全滅させるために雨あられとミサイルを撃ちこむはずだ。彼は調べた。結局、システムの誤作動が判明し、世界は第三次世界大戦の危機からからくも逃れた。

この事件について、著者はこう述べている。

What would a machine have done in Petrov’s place? The answer is clear: the machine would have done whatever it was programmed to do, without ever understanding the consequences of its actions.

ーーもし機械がペトロフの立場にいたらどうしていただろう?  答えは明らかだ。機械はプログラムされたとおりのことをする。その行動がどれほど重大なことか理解すらせずに。

著者は人工知能に意思決定させることの危険性を述べているが、私はこのエピソードから別のことを読み取った。もし人工知能時代であれば、五基のミサイルでもペトロフは敵攻撃だと判断したかもしれない。なぜなら「ミサイルの雨あられ」は、標的がどこにあるかわからない状況で少しでも命中率を上げるための方法であり、「標的を見つけることができる」人工知能搭載ミサイルであれば、少数精鋭で事足りるから。

 

もう一つの例は著者自身の経験から。軍人時代、アフガニスタン国境に潜伏していたときのこと。五、六歳の女児が山羊を連れて潜伏場所を遠巻きに歩いた。女児は明らかに著者達にーー敵側狙撃兵にーー気づいており、位置特定に来たのだ。事実、女児がいなくなってすぐにタリバン戦闘員が押し寄せた。

女児の行為は「戦争法では」攻撃理由になる。もちろん、わずか五、六歳の女児を撃とうとする者などいるはずもなかった。だが、倫理観をもたない機械なら?

 

著者は元米軍特殊部隊で米国防省軍事専門家。テスト段階にある軍事設備や研究プロジェクトを見聞きするなかで「コンピュータが攻撃目標を提案すること」がすでに実現可能であることを見つけている。「通信妨害されているなかで動きまわる攻撃目標を追尾する」ミサイルを開発しようとすれば、「ある物体が攻撃目標かどうか」をある程度識別できなければならないから。

いまのところミサイルは攻撃目標になる可能性があるものを見つけて画像情報を送り返すだけで、攻撃をするかどうか判断するのはオペレーターである。

攻撃判断を含め、いままだ人間が判断していることを自動化するかどうか?

軍事産業ではこれが大きな論争の的になっている。完全自動化すれば、もちろん、オペレーターがいなくなる(車の自動運転が実現すれば運転手がいなくなるように)。そうなれば、ミサイルがどこにいるのか把握できなくなりかねないーーミサイルは「勝手に」動きまわるし、敵レーダーに捕捉されないために位置情報送信は最小限にしなければならないから。

殺傷能力の高い対潜水艦ミサイルを「野放し」にして、勝手に目標を見つけさせて(時に目標を見つけられないまま迷子のように深海をさまようかもしれない)、勝手に攻撃判断を下させる(もしかしたら民間船や味方艦を敵艦と取り違えるかもしれない)ということは、少し考えるとなかなか怖い。

防衛省は兵器自動化にはかなり慎重な姿勢をみせており、著者は米防衛省上層部へのインタビューでそれを浮き彫りにしている。だが一方で、もし必要となれば兵器自動化を推し進めるだろうとほのめかしている。

The lesson from history, Schuette said, was that “we are going to be violently opposed to autonomous robotic hunter-killer systems until we decide we can’t live without them.” When I asked him what he thought would be the decisive factor, he had a simple response: “Is it December eighth or December sixth?”

ーーシュエット氏に言わせると、歴史の教訓は、「われわれは自動化されたロボットのハンター・キラーシステムに猛反対するだろう。われわれがそいつなしに生きられないと決意するまではね」となる。

私が、どういったことが決定的要因になるだろうかと尋ねたところ、彼の答えは簡潔だった。

「そいつは12月8日(第二次世界大戦中に日本軍が真珠湾攻撃を実行した後)かね、それとも12月6日(実行前)かね?」

 

このような現実がある中で、結局私たちはどうしたいのか?

それこそが考えるべきことだと著者はいう。

人類は核兵器という「人類を絶滅させるに足る能力をもつもの」と共存する仕組みを四苦八苦しながら探り続けている。現在のところ「全員核武装して互いに睨みあう」というやり方でとりあえず平和は保たれている。同じことが人工知能やロボットにも起こるだろう。

著者にできるのは「どうすべきか考え続けよう」と呼びかけることだけだし、そうすべきだろう。己の価値基準に照らしあわせた判断こそが、人間にしかできないことだから。