コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

要約はできない。全文読むべし《百年の孤独》

長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。

冒頭から引きこまれる、コロンビアを舞台としたノーベル文学賞受賞作品。「要約が無意味になるほど多くの挿話に満ちている」と評されたことがあるというが、深くうなずかざるを得ない。

まず人物関係が複雑すぎる。ある一族の運命を百年間、七代の間にわたって書いているが、息子が父親と同じ名前をつけられるのがしょっちゅうである上、息子が外の女に産ませた男児を母親が実家で引き取り、あたかも年の離れたきょうだいであるかのように育てたりするからますます訳がわからなくなる(しかも出生の秘密を知らない男児は、成長するにつれて実の母親に欲情したりする)。

次に歴史的事件が絡む。一族の息子は左翼ゲリラによるコロンビア内戦勃発時にゲリラ陣営に加わり、処刑された者もあった。内戦終結後にバナナプランテーションができたころ、プランテーションで働くようになった別の息子は、大規模ストライキと企業側の弾圧からからくも逃れた。一族の末裔でヨーロッパ人と結婚した娘は、夫が航空機関係ビジネスを手がけようとするのを見聞きしていた。ラテンアメリカの歴史に詳しくない読者であっても、新大陸での運命の流転を想像することを余儀なくされる。

最後に神秘的体験が物語の重低音となって全編に流れる。一族の始祖が友人関係を結んでいたジプシーの古老は、七代百年にわたる一族の盛衰記を羊皮紙に暗号で残していた。昔馴染みの死者の幽霊が、しばしば家の中に佇んでいた。なにものにも束縛されない美しい娘が、ある日風にさらわれるように姿を消した、など。

これらすべてに重なりながら、タイトルにもなった「孤独」が描かれる。わたしがもっとも震撼したのはアマランタという女性の孤独だ。彼女は若い頃あるイタリア人に猛烈に恋をしたが、一族の養女として迎え入れられた娘レベッカが恋する相手と婚約してしまう。アマランタは絶対二人を結婚させないとあれこれ手をまわすが、身内病死、婚約破棄、求婚拒否の果てに彼女は手に贖罪の黒い包帯を巻き、終生結婚せず、孤独のままで生涯を終えた。アマランタは恋の情熱に身を焦がすという、若い女性なら誰でもあることを経験しただけであったが、代償としての孤独はあまりにも深かった。彼女自身が孤独に逃げこんでしまい、彼女に求愛した男性たちをことごとく拒み続けたところなどは「これだけ強靭な意志で孤独にしがみつきつづけるのなら、なぜ同じように強靭な意志で孤独を拒んでその手を取らないのか」と不思議に思えるほど。一族全員が、外の世界で武器をとることを迷わない血気盛んさがありながら、孤独の殻にこもることを矛盾だと感じない気質があるようだ。

要約すればとたんに魅力が半減する物語。さまざまな孤独を見せてくれる見本市。考えはさまざまあれど、読まないのはもったいない傑作。

あなたはこれを読んでなにを思うだろうか?『日本が世界一「貧しい」国である件について』

日本人ならぜひ一度読んでみてほしい。あなたはなにを思うだろうか。反感を抱くだろうか、それとも考えこむだろうか?

この本でいう貧しさは物質的貧困ではない。精神的貧困である。

日本人は心が貧しい。これが著者の主張だ。では心が豊かとはどういうことだろう?

楽しみがある。小さなことで怒ったり落ちこんだりしない。他人のちょっとした失敗を責めずに「そんなこともあるさ」と気にかけない。人同士の違いに寛容である。「わたしはわたし。こういう人で、こういうことが好き」と自然体で認められる。こういうことが心の豊かさやゆとりだろう。

同調圧力。自尊心低い。わたしがこれまで外国籍の知人友人から言われた「日本人のここが理解できない」「人生を不幸にする」こととは真逆である。

 

本書はこの辺りを徹底的に掘り下げている。日本は経済的にはまだまだ豊かかもしれないけれど、心のあり方は余裕や遊びがなく、貧しく、自分で自分を不幸にしていると、日本社会に巣食う宿痾を指摘する。

著者はめいろま(めいろま@May_Roma)の名前でツイッターでは有名人であり、バックパッカー、国連職員、国際結婚などの豊富な海外体験をもとに「ここが変わらなければならないよ日本人」について発信し続けている。

彼女の本をこのところたて続けに読んでいるが(ブログにも記録しているがこれで4冊目)、読めば読むほど気分が晴れやかになってくるのは、自分自身を束縛していた見えない日本社会のしきたりや習慣に光をあて、正体を明かしてくれているためだろう。

たとえば主体性のなさ。これは明らかに学校教育で唯一の正答を教えてもらうこと、正答以外の答えや考えを否定されることを繰り返し訓練されてきたからだ。受け身があたりまえになり、教えてもらうことがあたりまえになり、間違っていたら教えた側の責任になる。恐ろしいほどの「わたしの考え」のなさは、根深いところで自尊心の低さにつながる。

コメントを飛ばしてくる方や、直接知り合いになり相談してくる方の多くは…(中略)...私に相談をしてきて、まるで「私には責任はない。どうしたら良いかわからない。答えを教えてください」と言っているような調子なのです。自分の人生なのに、まるで塾でテストの答えを教えてくださいという生徒のようです。

たとえば同調圧力はみんなと同じような「まともな」服を着て、ものを食べ、家を買い、生活をすることを暗黙のうちに求めるが、それは「みんなやっていることだから」で思考停止する結果を招いてしまう。だがこれは考える力、知識を使いこなす能力を奪う。

調べるには「情報を検索して取り出す力」が必要です。さらに、「調べたこと」「覚えたこと」を「解釈」し、さまざまなことを「組み合わせて」「考え」、実生活で直面する問題や課題に対して「自分なりの答えを見つけていく」ことが必要なのです。…普段から物を考えているからこそ、他人が気がつかないような「組み合わせ方」に気がつくのです。このように、知識や情報を「探してきて」「答えを自分で考える」ということが、「使いこなす」ということなのだと思います。

 

読めば読むほど落ちこむが、テキが何者かが分かれば、覚悟ができる。社会を変えることはできずとも、自分自身を変えることはできるーー日本社会を離れなくても。著者は日本を離れ、海外で自力で仕事することをすすめるけれど、実際にこれができる人は多くはないだろう。だが実際には、そこまでしなくても、日本にいながらにして自分自身を変えることはできる。

ただし、これまで依存してきて、こうすることが善だと信じきっていた社会的規範を短期間で自分の心身から切り離すのは、ときに屋上から飛び降りたくなるほどの精神的不安定を招くことがある。わたしはそうだった。飛び降りることを考える時間的余裕もないほどの環境に自分自身を追いこむか、そうでなければリラックスできる環境で、ゆっくり、時間をかけてやることをおすすめしたい。

成功者の本を読んでも成功者にはなれない『キャリアポルノは人生の無駄』

ビジネス書を何冊か読むと、大体の特徴が見えてくる。

センセーショナルな題名のものはたいてい字数のわりに内容がたいしたことなく、読んだら忘れる。時にはあからさまに著者のセミナーを紹介していたりして、ますます読む気が失せる。成功者の自伝はかなり良いものがあるが、もちろんスティーブ・ジョブズの自伝を読んだからといってアップルのようなIT時代の寵児となる国際的企業を立ち上げられるわけではない。科学的根拠に基づいて企業のあるべき姿や経済発展の行く先を推察しているような、読み応えのあるビジネス書は数少なく、当たるのは運任せだ。これまで手にとってきた中では、読み応えがあったものは10冊に1冊あればいい方。

わたしは自分の読書経験からなんとなくこんなことを思っていたが、本書『キャリアポルノは人生の無駄』を読んだとき、もやもやしていた思いを言葉にしてまとめてくれていると感じた。

わたしは子どものころから本を読む方だったと思う。図書室や図書館に通うのが大好きだったし、まだ読んでいない本が手元に常にあった。おもしろそうだと思えば、分厚い本でも抵抗なく読んだ。その頃読んでいたのは児童文学や世界名作集といったものだが、知らず知らずのうちに、内容が薄い本を子どもなりに「つまらない」「物足りない」と感じる感覚が身についたのだと思う。

だが、読書習慣がなく、就職前後に初めて著者言うところのキャリアポルノを読み始めるような読者層であれば、おそらくこういった感覚が育っていないのだろう。「成功法則が書かれた本を読んだだけで自分も成功したつもりになる」罠に落ちるのだろう。

【おすすめ】景気サイクルを理解するための名著『Big Debt Crisis』

 

Big Debt Crises (English Edition)

Big Debt Crises (English Edition)

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

経済ニュースを読むとき、投資について学ぶときなどに、景気サイクル循環という視点から理解を試みるようになった。

 

本書はいわゆる景気サイクルの解説書。好景気と不景気は循環するといわれるけれど、なぜ循環するのか、不景気が来たらどんなことが起こるのか、不景気の影響を抑えるための政府介入にはどんな効果が期待できるのか、そういったことを解説し、ケーススタディとしてここ100年の経済史上の大事件を分析した専門書。

著者のRay Dalioはみずからも16兆円という世界最大規模のヘッジファンドを率いる投資家であり、彼のヘッジファンドは2008年の金融危機でも底堅さをみせ、プラスの運用利益を出している。

著者の基本的考え方は「不景気や金融危機は政府が介入することにより影響を抑えられる。それはつねに一部国民の痛みと犠牲を伴うが、政府介入の方法とタイミングによって痛みは大きくも小さくもなる。だから政府は国民の痛みと犠牲を小さくするため、適切なタイミングで適切な手を打たなければならない」。

まあ経済の動きをどうにかコントロールしようと人類は数百年試行錯誤しながらハイパーインフレだの世界恐慌だのの失敗を繰り返してきて、「経済政策によるコントロールは無理」と悲観的になる人も出てきたわけだけれど、著者はそれでも「コントロールできる」と信じているわけやね。それで、適切な手とはなにか、手を打たなければならないことを知らせる兆しとはなにかを、歴史的出来事をからめながら分析するために、分厚い本を書き上げた。

経済専門家たちが絶賛するこの大作をkindle unlimitedで手軽に読めるという事実が、これまでとまったく違う情報化時代が訪れていることを雄弁に語る。一方で、国家経済政策はここ100年のやり方から、実はそんなに変わらない。国家経済政策を取り上げた本書は、歴史的出来事を扱いながら、未来予想図を目の前に広げてくれる。

知らないというのは恐ろしいもの。たとえば銀行が投資商品の損失補填をすることで、あたかも投資商品によい利回りが保障されているかのように見せかけるやり方。これは実際の収益評価がやりにくくなる上、不景気時には銀行本体の収益をも悪化させ、最悪の場合金融システムそのものにダメージを食らう。先進国ではバブル崩壊や金融恐慌の経験からこうしたことを学び、銀行が直接投資商品の利回りを保証することを禁じ手とした。しかし、発展途上国ではこうした仕組みを平気で使っているうえに、先進国にそうした仕組みがないことだけを見て「我が国独特だ」と胸を張る人もいるのである。なぜ先進国がそういう仕組みを取り入れないのかを知らず、嬉々として損失補填付商品を買いあさっているうちに、不良債権をつかまされた銀行の体力はじわじわと削られてゆく。

こうしたことを招かないためにも、これまでどんな経済政策がとられてきたか、うまく行ったものはなぜうまくいったのか、失敗したものはなぜそうなったか、考察することが大事になり、本書はまさに格好の教材になる。

わたしとしては英語表現はなんとなく読みにくいが、基本原則から入ってくれるから、初心者でもそこそこ理解しやすい。

 

まずは基本から。

Credit is the giving of buying power. This buying power is granted in exchange for a promise to pay it back, which is debt.

ーー信用 (credit) とは、購買力を与えることである。購買力は支払い約束と引きかえに与えられるものであり、支払い約束がすなわち債務 (debt) である。

クレジットカードでの買いものがまさにこれ。クレジットカードのショッピング枠(これが “credit”)内であればほしいものを買える。だが、いずれ返済しなければならない(これが “debt” )。

この債務残高が健全に伸びていきながら、債務償還してなお余るほどの利益をもたらしてくれるのが好景気。ただし債務残高が伸びすぎる、すなわち人々が身の丈に合わない消費や投資をしはじめる兆しが現れたら、バブルの足音が聞こえる。債務残高が伸びすぎて焦げついたとき、バブルが弾ける。

バブルの特徴としては「高利子融資に頼った買いものをする」「価格上昇を予想し、防御策として必要以上にたくさんものを買う」「新しい買手が市場に参加する」などを挙げている。どれも庶民感覚ではごく自然に起こりうることばかりに思えるが、それをバブルの前兆と捉えよという著者からの警告だろう。

日本では1980年代のバブル崩壊と、それに続く失われた20年と呼ばれる不況のために、投資にとても慎重になっており、いまのところ好景気がすぐにやってくる気配はない。けれど数十年経てばどんな大事件でもしだいに忘れられるのが世の常で、いずれもう一度バブルがやってくるかもしれない。

 

本書はあまりに重厚で、政府の経済政策決定者に向けられており、経済専門家ではないわたしには、内容全部を吸収するのは難しかった。

だが、以下の文章から未来予想図を見るのは、わたしの取り越し苦労だろうか。ここは著者は「本題ではない」と断ったうえで一章を割いてさらりと述べている内容である。

When 1) within countries there are economic conflicts between the rich/ capitalist/ political right and the poor/ proletariat/ political left that lead to conflicts that result in populist, autocratic, nationalistic, and militaristic leaders coming to power, while at the same time, 2) between countries there are conflicts arising among comparably strong economic and military powers, the relationships between economics and politics become especially intertwined—and the probabilities of disruptive conflicts (e.g., wars) become much higher than normal.

ーー1)国内で富裕層/資産家階級/右派と貧困層/労働者階級/左派との間にあつれきが生じたために、ポピュリスト、独裁主義者、国家主義者、軍事主義者たちが力をもつようになる;  同時に2)同じくらい強い経済力と軍事力をもつ国家間で紛争が生じ、とくに経済と政治関係が絡みあうようになったらーー破壊的紛争(たとえば戦争)の可能性が通常時よりもずっと高くなる。

 

父と娘の介護記録『週末介護』

岸本葉子さんは「やわらかく知的なエッセイを書くひと」といわれるけれど、大賛成である。彼女の本を最初に読んだのは、『はたらくわたし』というエッセイストの仕事日記だったが、肩肘張らない、無駄に力が入っていない、やわらかい雰囲気の文章がとても好きになった。ひだまりという言葉が、しっくりくる。

そんな岸本葉子さんが書いた、五年間にわたる父親の介護経験が本書。母親はすでに亡くなっている。父親の身体能力が衰え始め、認知症がすすみ始めたころ、兄と姉に加えて在宅仕事の自分自身が介護をすることに決めた。自宅付近に三十年ローンでオートロックマンションを購入し、そこに父親を移してから最期を看取るまでを、やわらかい雰囲気を失わない文章で綴る。

わたしにとって親の介護はいつかはやってくることであり、そのためにも今から、何が起こるのかを知っておきたいと思った。そのために選んだ本だったが、内容は期待以上だった。

身体的機能が衰え、トイレに入ってからズボンを下ろすのに手間取るうちに間に合わなくなったり、ベッドから身を起こすためにお腹に力を入れるだけで排泄することがあること。時間的感覚がなくなり、夜中起きることがないよう就寝前にトイレに行っておくなどの発想ができなくなること。その前に夜は就寝するものという考えがなくなること。本人はわけがわからないなりにも役に立ちたい、迷惑をかけたくない、もしかしたらおかしなことを言っているかもしれないという考えや感情があって、手伝いたがること。介護者の感情活動に鏡のように反応すること。洗濯物とゴミがおそろしい量になり、匂いがとれにくくなること。言葉がどんどん短くなり、ついには不明瞭なうめき声や鸚鵡返しばかりになること。

介護とはどんなものか、学ぶにはとてもよい経験談だ。エッセイストという仕事柄、よくまとまっていてまるで情景が浮かぶようだし、それでいて、夕暮れのやわらかい陽光のような文章の雰囲気は変わらず、深刻になりすぎない筆運びに救われてもいる。

いつかわたしの両親も要介護になるだろう。そのときわたしは親の変化に戸惑い、なかなか受け入れられないかもしれない。なにが待ち受けているかを知り、覚悟を決めるためにも、よい本だ。

 

まる子の人生こんなものさ『さくら日和』

昨年永眠されたさくらももこさんは、代表作『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』のほかに、自身が「成長したまる子のお話」という位置付けでエッセイを多数発表している。

『さくら日和』は、さくらももこさんの離婚後初めて発表したエッセイ集で、冒頭に離婚報告が載せられている。「所詮、まる子の人生なんて、一回ぐらいこんな失敗もあるさと思ってもらえると有難い」とさらりと書いているけれど、実際には離婚成立まで相当大変だったようだ。

重い話から始まったかと思えば、親友の兄をさくらプロダクションに転職させようとするだの、集英社の担当編集者の新福さんのお疲れさま会での「新福さんをほめたたえよう大作戦」だの、ブラックさが一抹拭えないながらも全力疾走でくだらなく笑える日々を書きつらねる。突然真剣に寝相を研究しだすなど、一体なにをしたいのやらわからない企画を持ちあげる。離婚した一児の母でもまる子はまる子だなと、ため息をつきつつ、しょうがないねェと笑いたくなる。

わたしにとって、エッセイはなんだか漫画のまる子の将来を覗き見ているような、不可思議な気恥ずかしさを生じさせる。まる子がさくらももこさんの子供時代で、さくらももこさんがまる子の未来像ということが、どうもうまく呑みこめない。小生意気な漫画のまる子が成長して落ち着くところを見たくないような、どこか苦い気分にさせられた。

パライバ・トルマリンが欲しくなる『ももこの宝石物語』

さくらももこさんが去年永眠された。

ちびまる子ちゃん』を読んだのは小学生の頃。まる子が給食の塩もみ野菜をきらって「バッタだってもうすこしいいもの食べてるよ」と言いながら残したところがかわいくてほのぼのしていた。

さくらももこさんはエッセイ集も数多く残している。これはそのうちの一冊。ある日偶然見つけた『宝石の常識』を見つけたさくらももこさんは、そこに載っていたパライバ・トルマリンの「海の青とも空の青とも言えないけれどもどこかで見たことあるような、青に少しだけ緑を混ぜた透明にした美しい青色」に一目惚れしてしまう。こうして彼女の宝石物語が始まった。

さまざまな宝石との出会いやあこがれを書いたエッセイを読むうちに、自分自身の宝石物語を思い出していた。

わたしが初めて手に入れた宝石はオパール。父のオーストラリア土産だった。小さいながら輝きが美しく、今でも大切にしまっている。

その次はアメジスト。中国旅行中にとあるお土産屋でペンダントトップに加工された小さなアメジストを見て、上品な美しい紫色がとても気に入り、親に頼みこんで買ってもらった。日本円で5000円位だったと思う。ペンダントトップだからチェーンを合わせなければならないのだが、そんなお小遣いはなく、身につけたのは片手で足りるくらいだった。二十年以上しまいっぱなしだったが、しまいには売り払ってしまった。

わたしが縁のあった宝石はこのくらい。わたしのアクセサリーは、宝石よりも、貴金属を繊細に加工したものが多い。

母は小さなダイヤモンドがついたペンダントを持っていたが、チェーンだけが本物の黄金で、ダイヤモンドは偽物だと聞いた。一万円位のものだからまあ当然ではある。ほかには冠婚葬祭用の真珠のネックレスがあるくらいで、我が家は宝石とはそれほど縁がない。

最近惚れこんだのは『宝石の国』の主人公、フォスフォフィライト。透き通るような緑色が美しい宝石だが、希少性が高いうえ、脆すぎて装身具向きではないためほとんどお目にかかれない。『宝石の国』とTASAKIのコラボで出品した首飾りは324万円ととんでもない値段。ほんとうに一期一会であるが、手にする日は来るのだろうか。