コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】子育ては、あわてず、あせらず、マイペース『子どもへのまなざし』

 

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

 

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 1歳半〜2歳までは人格の基礎形成時期と割り切って、「ほしいものを、ほしいだけ」あげる育児をしようと心に決めた。
  • 泣いたりぐずったりしていたら原因をさぐることを徹底した。少なくともあやす。絶対に放置はしない。

 

有名な子育て書。著者は30年以上小精神科医をしてきており、本書はおそらく著者が出会ってきたであろうお父さん、お母さんや、世間一般の父親、母親に語りかけるように書かれている。不思議とやすらげるような文章は、著者自らか書いているように「子どもを幸せにするには、まず親を幸せにしなければならない」という考えから、押しつけがましくなく、控えめすぎず、けれども経験に裏打ちされた自信をもって、語りかけているからかもしれない。

語られることはたくさんあるけれど、核心となるメッセージはそれほど多くない。手を変え、品を変え、繰り返し語りかけることで、いつのまにかメッセージが頭に残るようになっている。

「乳幼児期は人格の土台をつくりあげる時期で、この時期に子どもの望むことを望むだけかなえてあげることができれば、子どもは他人への信頼と自分への信頼を育むことができ、安心して次のステージに行くことができます」

「発達には段階があって、ひとつできなければ次へはいけません。厳しくしつけたり、急かしたりして、一見早く進んだように見えてもそれは見かけだけで、いずれやり直しをしないと次の成長段階へはいけないようになっています」

「しつけは焦っても急かしてもいけません。繰り返し教えながら、子どもができるようになるまでのんびり待つのが一番です。あまり急かすと、子どもに『これができないとお母さんは自分をほめてくれない、好きになってくれない』というメッセージを伝えることになり、そうなったら最悪です。条件つき愛情になっては、子どもは大人の顔色をうかがうばかりになり、自主性が育ちません」

おそらくこれは、普段著者が子どもたちの親に語りかけている方法をそのまま使っているのだろう。子どもが問題行動を起こして手がつけられないと、子どもを精神科医に引っ張ってくるような親は、いきなり「あなたの子育てではこの発達段階をうまく子どもにクリアさせることができなかったんです」と、問題が自分自身にあることをつきつけられても受け入れられるはずがない。特に母親は、子どもが荒れていることですでに十分責められていることがほとんどで、精神科医に来てまで責められるのかと思った時点で、ひどく警戒してしまうだろうことは想像に難くない。

だから著者はなんども同じことを語りかける。語り口がとても上手だから、同じ話を聞かされていると感じて退屈になることなく、いつのまにか言いたいことがちゃんとわかるように、文章も順番も考え抜かれている。

本書を読むと心地よく感じるのは、そういうところかもしれない。

 

あえていえば、この一節が、本書の言いたいことをほとんどすべて含んでいるだろう。

要求のある子どもには、その要求を満たしてあげなければ、つぎのステップにはいけないのです。一時的にはみせかけの前進というのをしますが、残念ながら本当の発達ではないのです。そういう意味では、子どもが健全に育っていくためには十分に依存体験をする、自分の望みを十分かなえてもらうことによって、人を信じ自分を信じ、自立をしていくという、最初のステップがあるということです。

 

私は、本書でいう「人を信じることができないから、自分を信じることができず、豊かな人間関係を築くことができない子ども」だったと思う。

私は両親のことを信用していないと自覚している。なぜなら私のほしいものではなく、自分たちが「これがほしいはずだ、ためになる、役立つ」と思うものを押しつけられた記憶しかないから。

おかしいなと感じ始めたのはおそらく思春期ごろで、そのときはすでに親に対する反抗心を持つことをほとんどあきらめ、言われたとおりにただ流されている日々だった。親の過干渉は勉強や進学先に集中していたが、時には衣食住に及んだ。私に許されたのは、押しつけられたものを好きじゃないと思えばその辺に放置して二度と目を向けないことくらいだったように思う。

その頃から今まで、なにかあっても母親に相談などしたくないし、結婚したいなどという重大事であっても、ぎりぎりまでひっぱってから報告するにとどめた。私にとって、大人になるということは、「もう母親を喜ばせるためにやりたくもないことをしなくてよくなる」ことだった。

だが、姉妹は私とは違う感情を親に抱いているらしい。自己評価が低いことはおなじだけれど、姉妹は母親にいろいろ相談するし、かなり繊細な悩みも打ち明けるようだ。

なぜ姉妹でこんな違いが生じたのか、私にはわからないが、いつだったか母親が「あんたは厳しくしつけたけど、あの子のときはあんまりかまわなかったわね」と言っていたから、姉妹には、「ほしいものをもらえず、ほしくもないものを押しつけられた」経験が少ないのかもしれない。

私が両親、とくに母親からなにをほしがっていたのか、高校生のころにははっきりわかっていた。

私を信頼してくれること。

私に自分で判断させてくれること。

私に意見を押しつけないこと。

おかしなことだけれど、私は成人してからの一時期、間違いをおこすことをわざとやっていた。実家にいたころは母親があらゆることに先回りし、私がしようとすることを否定して「こうするのが正しいのよ」と押しつけてきた。だが私は、自分で判断を下すことや、そのために生まれるであろう間違いまでを経験することを望んでいた。それが「あとから考えるとわざと間違えたとしか思えないようなミスをする」行動に結びついたのかもしれない。

こうして見ていくと、私は本書でいう「ほしいものをほしいだけかそれ以上に与えられる過保護」ではなく、「過干渉」によって育てられた子どもだと思う。成人した今でも、自分がしたかったことを母親の強権でさせてもらえなかったことが強い恐怖体験として記憶の奥底にこびりついている。還暦をすぎて気力体力ともに私に及ばなくなった母親が、もはや私になにかを強いることは難しいことを十分分かりつつも、実家にそうたびたび戻る気にはならないし、戻ったとしてもほとんど日帰りだ。母親は、いまだに私がなぜ辛かったのかを理解できずにいる(「あんたは子どもなんだからどうせ間違いをする、そうなる前にどうすればいいのか教えてあげることのなにが悪いの?」)から、私もいまだに母親とあまり話したくない。

一方で、かつてやりたかったこと、ほしかったことを追いかけて「やり直し」をせずにはいられない。私は幸運にも良い出逢いにめぐまれたが、振り返れば、大人になってからの乳幼児期の「やり直し」は、想像を絶するほど難しかった。私の「やり直し」はまだ終わっていない。自己判断だからどこまで正確かはわからないが、今は幼稚園児〜小学児童時期の「やり直し」をしているというのが一番しっくりくる。

 

自分のようにはなってほしくないから、子育てには気をつけようと思う一方、自分が子どもをもったら、母親と同じことを無意識のうちにしてしまうかもしれないという恐怖はつねに心の中にある。不安でたまらなくなったとき、私は「自分が子どものころに感じていたけれどもうまく言えなかった」ことを書いてくれている本を読む。本書『子どもへのまなざし』は、私のような育ち方をした人々が、自分の子育てをするにあたって、何度も読み返したくなる本の一冊だと思う。

親になったら起こる良いとは限らないこと『子育てのパラドックス』

 

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

 

私はこういう「子育ては最上の喜びである」「親と子は本能的な愛情で結ばれる」などといったジジババの石器時代からのお説教を、科学的手法に基づいた研究結果で反論する本が大好きだ。

「子育てはときに辛いものだし、そう感じることは少しも恥ではない。母性本能なんてのが全人類に備わっているのなら、乳幼児虐待死がこれほどたびたびニュースになることはありえない。子育てにはもちろん楽しみがあるだろうけれど、苦しいと感じることも決して間違いではない」

こういえばジジババ世代から猛烈な反撃を食らいそうだが、常識で考えて、連続して3時間以上眠れない生活が続き、やりたいことを我慢してすべてを子供優先でスケジュールを組まざるをえなくなることを、慣れないうちに、辛いと感じない人間などいるはずがないんである。

ジジババ世代が「子育ては辛いこともあるもの」ということを頑固に否定するのは、嫌な記憶を忘れて良い記憶を残しやすい人間の心理的傾向が働いているか(本書にもその記述がある)、自分が辛い思いをしたのだからこれから親になる人々も同じ思いをするべきだと無意識に思っているか(そうでなければ、自分はしなくてもいい苦労を無駄にしたことになる、そんなことは断じて認められない)、どちらかだろう。

それでも子供がほしいと決めたのなら、本書の副題にあるように、「親になることは人生をどう変えるか」ということを、親になる前に多少たりとも知っておいて損はない。良きにつけ悪しきにつけ、親になると人生は思ってもいなかった方向に変わる。本書は「実際には体験してみないとわからない」とことわってはいるものの、親になるということについて、あらかじめ多少の知識をつけるのにうってつけだ。

 

【小さい子供がいる家庭】と言われて最初に思い浮かぶのはなんだろうか。乳幼児期の夜泣き、少し大きくなってからのイヤイヤ期、一秒も目を離せない子供の気まぐれさ、どうしてそうしたいのかさっぱりわからないさまざまなふるまい(たとえば水溜まりでわざと泥だらけになってみる)などだろうか。

子供が聞き分けが悪いと、親のイライラゲージはたまる一方になるが、著者によれば、残念ながらこれが子供にとってあたりまえの状態らしい。

大人が幼児の行動に苛立つ理由には、生物学的な根拠がある。額のすぐ内側にある脳の一部、前頭前皮質が、大人の場合は完全に発達しているのに対し、幼児ではほとんど発達していない。前頭前皮質には実行機能、つまり考えを整理し、行動を管理する機能がある。これが働かないと、人間は意識を集中することができない。小さな子供と接するときにストレスのたまる原因はここにあるーー子供の注意力は散漫なものなのだ。

子供はお着替えをしてもすぐに脱いでしまったり、服をおもちゃに遊び始めたりして、まったく集中できない。朝、出かけるときに子供がちっとも言うことを聞かないため、焦った親がついつい声をはりあげるのはよくあることだ。

また、子供ができると、夫婦関係もそれまでと変わる。生活が子供中心になり、大人が我慢を強いられることが増えるだけではなく、しつけをめぐって夫婦喧嘩することも増えてくるからだ。

著者によると、これはたんなる夫婦間の意見対立よりも根が深いという。子は親の背中を見て育つ。そのことを知っている親は、無意識のうちに「どういう姿を子供に見せるべきか?」ということを判断基準としてしまうことがある。たとえば夫が帰宅後、靴下を脱ぎ散らしたまま片付けようとしなかったりすると、妻は「やめてよ、子供が真似しちゃうでしょ」と文句を言いたくなる。逆もしかり。

(子供が生まれてからけんかが増えるのは)単に仕事上の習慣やしつけの方法について争っているだけではないのだ。未来をめぐるーー自分たちがどういうロール・モデルであるべきか、どういう人間になりたいか、子供にどう育ってほしいかについてのーーけんかなのである。

このようなことは、実は子供が思春期になってからの方が強烈だ。小さい子供はただ親の真似をするだけだが、反抗期のティーンエイジャーは、親のすることが好ましいかそうでないかを情け容赦なくジャッジし始める。 子供に向き合うのは、体力的にも精神的にもタフなことになる。子供は一番身近な親に似るものだが、ときに親の方が自分自身そっくりのふるまいを見せつけられていたたまれなくなる。

子供は、わたしたちの最も恥ずべきおこないやひどいまちがいの目撃者になる。たいていの親はそうした悪癖やエピソードをーーそしてそれが引き起こした苦痛をーー厳密に語ることができる。思春期の子供が親の欠点やまちがいに対してしばしば辛辣で過酷な観察眼を持っているのもつらいところだ。この観察眼は子供が親を遠ざけるため、自分と切り離すために使う道具となる。

 

このように本書では、親の変化、悩み苦しみ、葛藤はあってあたりまえだということを、さまざまな研究結果や、実際に著者が知り合った親子たちへのインタビューでつづっている。それぞれの悩みは親であればよく経験することにも思えるけれど、当の本人にとっては自分一人の深刻な悩みのようにも思えるときがある。

本を読みながら、私自身の子供時代や、子育てをしている友人たちを思い浮かべてみた。

幼稚園の頃のやんちゃ、親に口答えはしょっちゅう、なんとかして親の目を盗んでつまみ食いをしようとする、アイスクリームをほしがって泣きわめく、ごはんを残しては叱られる、夜遅くまでなかなか寝ない、などのエピソードがすぐさま思い浮かぶ。私自身そうだったし、友達やその子供たちもそういうエピソードが必ず一つ二つでてくる。当時はそれがあたりまえだと思っていた。我慢する意味がわからなかった。

少し大きくなり、親に勉強や習い事を強制されると「やりたくないけど親のためにやってやっている」気分になった。思春期になると服装や趣味に口を出してくる親との衝突が増えた。親子喧嘩で母親が泣き出したことも一度ではない。自分が母親を泣かせることができることを私は承知していた。非行に走ることこそなかったが、反発心は常にあった。

本の中で母親側が語る子育てエピソード。かつては母親たちがそれらのエピソードの主人公だった。私もまた、子供をもてば、かつての自分自身を遠くの棚の上に放り投げて、子供がいうことを聞かないとこぼすかもしれない。

本書の題名「子育てのパラドックス」は、そういう意味がこもっているのだと思う。かつて自分自身がやっていたことを、子供にやり返される。自分の恥ずべきふるまいを子供にそっくり真似される。腹立たしくなる一方、自分自身が通ってきた道だと思うとおかしくもなる。ときには自分自身がうまくできなかったことをうまくこなしてみせた子供に腹を立てたり、子供が若さゆえに間違いをおかしてもやりなおせる時間があることを羨ましく思うこともあるかもしれない。けれど、子供は親とは違う存在なのだし、結局のところ、完璧に親の望んだとおりに子供が育つわけでもない。

子育ては苦しいこともある一方、本書では「子育ての楽しみは科学的に測ることがとても難しい(したがって楽しみが多いか苦しみが多いかわからない」という表現で、子育ての喜怒哀楽をまとめている。良きにつけ悪しきにつけ、子供は親の人生の一部となるのだから。

日々の暮らしの中からさっと書き留めた『無名仮名人名簿』

向田邦子さんのエッセイ集、第二弾。

『父の詫び状』は家庭事情が多かったが、このエッセイ集は、向田邦子さんが仕事をするようになってからのちょっとしたできごとを書いているものが多い。「昔はこうだったけれど、今はこうなった」系の話もちょくちょく出てくる。

書かれていることは、本当にささいなことだ。婦人用洗面所でたっぷりとしだ黒髪を手入れしている女性を見たとか、家を出ようとしたら鍵が見つからずに困ったとか、女友達とのたあいないおしゃべりの中でさらさら流れて、記憶にも残りそうにないことばかり。それを面白いと思わせているのは、書いている著者のものの見方だ。「なるほど、だからこの瞬間が記憶に残ったのね」と思わせる。

たとえば冒頭のエッセイ「お弁当」。一億総中流、91%が自分を中流であると思っているというアンケート結果があった時代、著者はこれを「学校給食の影響ではないか」と見る。そのこころは、著者にとって「小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家族の愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であった」から。

現代社会では手間ひまかけたキャラ弁が人気だけれど、著者が生きた第二次世界大戦前後は、お弁当のおかずを美しく飾る以前に、おかずが漬物くらいしかない子、お弁当を持参できない子がいた。堂々とお弁当を広げることができる子と、こそこそ隠れるようにお弁当を食べる子とでは、嫌でも違いを意識させられただろう。「なるほど、だから中流階級の話が出てきたら、お弁当を連想したのね」と納得する。

エッセイを読んでいくと、まるで著者の連想ゲームにつきあっているかのような気持ちになってくる。ひとつのワードから次のワードへ、すっと繋がることもあれば、ちょっと唐突に飛ぶこともある。すいすいっと記憶の場面をたどっていくうちに、著者のものの考え方、見方、その基になった体験談などがなんとなく見えてくる。それが楽しいから、とりたてて特別なわけではないことを書いたエッセイにもかかわらず、最後まで楽しく読める。

昭和のご家庭におじゃまします『父の詫び状』

初めて読んだ向田邦子さんの文章は「字のないはがき」というエッセイで、国語の教科書に載っていた。戦時中、集団疎開で東京を離れることになった、字が書けない妹に、父が自宅住所記入済みの葉書の束を渡して「元気なら、この葉書の裏に丸を書いて、一日一枚出しなさい」と言う、というお話だった。

エッセイの内容も印象的だったけれど、このエッセイの出典元だという本のタイトル『眠る盃』が気になった。盃が眠るなんて聞いたことがない、どんな意味なんだろう、と、頭の片隅にひっかかっていた。のちにそれが著者の聞き違いからきていると知り、なあんだと拍子抜けしたものだ。

こういう出会い方だったためか、向田邦子さんは放送作家が本業だが、私は彼女のエッセイしか読んだことがない。『眠る盃』はずいぶん前に読んだが、それっきりしばらく忘れていて、やっと今回、最初のエッセイ集である『父の詫び状』を手に取った。

 

『父の詫び状』に収められているエッセイ集は24篇。向田邦子さんの子供時代の家庭生活や、大人になってからのちょっとしたできごとを、テレビドラマの一場面のように切り取ったものだ。

読み進めていくと、威張りんぼうの昭和頑固親父ながら子供たちに不器用な愛情を示す父、そんな父を立てながら時には父以上の瞬発力を見せる母、当時にしてはめずらしく未婚で子どもを産んだ父方の祖母、弟妹含めての四人きょうだい、戦時中をふくめた昭和時代の暮らしが、生き生きと目の前に浮かんでくる。

向田邦子さんが切り取る思い出の場面はみごとにバランスが取れていて、父が子供たちに怒鳴り散らす場面があったかと思えば、宴会で出てきたごちそうを折詰にしてもらって帰り、眠い目をこする子供たちに食べさせて喜ぶ姿が描かれる。私が向田邦子さんの名前を知るきっかけになった『字のない葉書』からして、女学校に通うために一時的に別居していた娘に、父が「向田邦子殿」などとかしこまった宛名でまめに手紙をよこして、普段怒鳴られたりゲンコツ制裁されたりすることに慣れた娘をおかしがらせる話から始まるのだ。乱暴だけれども子供たちには愛情があって、でもそれを表現するのがこそばゆい昭和親父の姿が、みごとに浮き彫りにされている。

 

保険会社の支店長をしていた父親が転勤族だったため、家族は数年ごとに引越しを繰り返していたが、その先々での日々のことも、エッセイにつづられている。

不思議なことに、鹿児島の薩摩揚、高松の海軍人事部での兵士たちの稽古、目黒でお正月に遊びに行った同級生の家など、ひとつひとつの場面はあるできごとに焦点が絞られているにもかかわらず、エッセイを読んでいるうちに、それ以外のものが自然に頭の中に浮かんできて、一幅の絵になる。鹿児島の薩摩揚についていえば、「小学校帰りによく薩摩揚屋に寄り道した」といった文章を読んでいると、昭和風の木造家屋がならぶ通り、その一角にある薩摩揚屋、香ばしい匂いをかぎながら歩いていた子供が、自宅にたどりつくまでの場面がしぜんと浮かんでくる。もちろん背景は夕焼けだ。昔懐かしい昭和時代について、文章だけで想像力を最大限かきたててくるあたり、放送作家の筆力かもしれない。『父の詫び状』が生活人の昭和史としても評価されているのがうなずける。

もう二度ともどらない昭和時代の、こまやかな欠片を一冊の本にまとめたエッセイ集。一篇一篇は短くてすぐに読み終えることができる。予定のない休日の午後に、好みの濃さの緑茶と茶菓子を楽しみながら、お茶請けに読んでみるのがおすすめだ。

 

現代社会に生きる女性たちの危なっかしさをえぐり出す『依存症の女たち』

ノンフィクションライターの衿野未矢さんの著書は、何冊か読んだことがある。いずれも現代社会に生きる女性たちが抱える問題をとりあげている。文章はしっかりしていながら説教臭さがまるでなく、取材対象の女性たちへのこまやかな観察、いつわりのない関心、彼女たちに寄り添おうとしながら感情的になりすぎない書き方が好きになった。

 

本書『依存症の女たち』は、タイトルのとおり、お酒、食べもの、セックス、買い物、ひいては携帯電話、海外旅行、趣味の会運営、リストカットなどに依存している女性たちにインタビューしたノンフィクションである。

このテーマは、ひとつまちがえれば「依存症になるのは心が弱いからだ」とか、「依存症に追いこんでしまうような現代社会に問題がある」という内容になりがちだけれど、本書にはそれがほとんどない。書かれているのは、女性たちとの出会いやインタビュー内容、著者の眼から見た彼女たちの現状、将来の可能性にとどまる。

たとえば、本書冒頭には「ケータイ依存症」のエミが登場する。まだスマホSNSが一般的でなく、携帯電話といえばガラケーで電話やメールが主流だった時代である。2019年の今でいえばさしあたり「スマホ依存症」「SNS依存症」になるだろう。

エミは編集者かライター志望で、就職活動のことを著者に相談するために電話でアポイントメントをとった。しかしその待ち合わせがすごい。

  • 待ち合わせ地点についての説明をろくに聞かずに「最寄駅についたら電話します」
  • 当日午後に会う約束をしながら電話してきて「携帯電話を家に忘れたから取りに帰ります、だから約束の時間をずらしてもいいですか」
  • 最寄駅についたら電話をしてきて「待ち合わせのホテルにどうやって行ったらいいですか」
  • やっと著者に会えたかと思うと携帯電話をテーブルに置きっぱなしで、メールや着信があればすぐに会話を中断してチェックする
  • 編集者かライターになるための就職活動の相談のはずが、なぜなりたいか動機があいまいで、「新聞、雑誌、本は読まない」「書くのは苦手」「雑貨が好きだから編集者かライターになりたいけど、雑貨屋の店員も悪くない」

こんなぐあいである。失礼なふるまいで著者のアドバイスする意欲を限りなく下げておきながら、本人は「ケータイのおかげで人とのネットワークができました」と言ってはばからないのだから、著者は呆れを通り越してエミに興味をもち、彼女はケータイ依存症になっているのではないかと綴る。

本書に登場するのはこういった女性たちだ。年齢は10代から40代と幅広い。どう考えても行動や判断基準がおかしなことになっているのに本人は「普通だと思いますよ」。現代社会のホラー小説かと思いたくなるが、全員実在しているのだから空恐ろしい。

 

依存的な女性たちに対して、感情的になりすぎず、かといって突き放しすぎない書き方ができるのは、著者自身がかつて買い物依存症に陥ったことがあるのと無関係ではないと思う。

買い物せずにはいられない衝動と、そこから脱出するためには問題の根源に目を向けなければならないことを、著者は身をもって知っている。また、ライターという職業上、買い物依存症に陥っていたときの心の動きや、そこから立ち直るプロセスの中で、自分が感じたことを言葉に置きかえる訓練も積んできたことだろう。

このため、著者が依存症についてつづる文章は、ひとことでいえば「大げさすぎず物足りなすぎず、ちょうどいい」。具体的な対策については、精神科医の著書を読むほうがいいが、依存症になった女性たちがなにを考え、どのように行動するかについて知りたければ、本書はよいとっかかりになると思う。

中流家庭からの転落劇『下流の宴』

林真理子さんの『下流の宴』は、私にとって、時々読み返したくてたまらなくなる小説である。

とてもわかりやすい文章で、読んでいるとまるでドラマのようにワンシーンが思い浮かんでくる(実際にドラマ化もされている)。だけど、一皮まくると、「どろりとした闇」が流れ出てくるような、ひそやかな恐怖を感じさせる。

 

物語は、福原家と宮城家というふたつの家を中心にまわる。

地方の医者の娘として生まれ。東京の中流家庭の主婦となった福原由美子は、二人の子どもにもきちんとした暮らしを望んでいた。娘の可奈は順調にお嬢さま大学に入学して結婚相手探しに精を出す一方。息子の翔は中高一貫校を退学して、実質中卒のフリーターになった。

成人したばかりのある日、翔は結婚相手として、同じくフリーターで2歳年上の宮城珠緒をつれてきた。由美子は珠緒の母親が沖縄の離島で居酒屋をやっており、離婚歴があることを知ると「私たちとは住む世界がちがう」と結婚に反対する。ある事件をきっかけに珠緒はついに由美子の態度に我慢ならなくなり、「医者の娘がそんなにえらいのなら、私が医者になります」と啖呵を切るーー。

 

ドラマ仕立てでありながら、それぞれが抱える心理状況がみごとなまでに伝わってくる。

まずは由美子。なんだかんだと理屈を並べているものの、自分自身が思う「きちんとした人生」を子どもたちが送ってくれないことに過剰なまでの恐怖心を抱いており、息子の翔の意向などまるで考えずに、なんとか翔を「まっとうな」道に戻そうと必死である。翔は翔で母親に反発して家を出たものの、最終的に「お母さんの期待にこたえられない自分が辛くて、家を出たんじゃん」と珠緒に見抜かれている。そのコンプレックスがあってか、翔は「頑張る人」にこれまた過剰なまでの反発心を抱き、向上心をもたないアルバイト暮らしをしている。

この二人の屈折した性格に比べれば、可奈と珠緒はまだ素直だ。可奈はその是非はともかく「美しさを武器にエリートでお金のある男をつかまえて、東京で優雅に暮らす専業主婦になる」という目標は清々しいまでに首尾一貫している。珠緒はものごとに対する感じ方がとても素直であり、「翔ちゃんのお母さんにあそこまで言われてなにもしなかったら、自分で自分を嫌いになってしまう。そうなったらお終いじゃん」と、医学部受験をめざす理由をきちんと言葉にしている。

由美子と可奈は、滑稽なまでに徹底的に「人からどう見られるか」を基準に自分自身の行動を決めている。翔は一見なにも気にしていないように見えるけれど、実際のところは母親の期待を自分自身の目標とすりかえながら、それにこたえられない辛さから逃げるために、あえて(本人も意識していないところで)「別にどうだっていい、楽しければそれでいい」という無気力な態度を貫いている。結局三人とも、自分自身の中に評価基準や行動基準をもっていないという点では同じなのだ。その点、珠緒は自身の中によりどころとなる評価基準をきちんともっているけれど、「医学部に合格したらいつかは変わる、少なくとも今と同じままでいることはありえない」と翔に指摘されている。

私がこの小説を時々読み返したくなるのは、「自分自身の中に評価基準をもたない人々がどんな末路をたどるか」を、この小説から読み取り、「こうはなりたくない」と反面教師にするためかもしれない。いわゆる見栄張りの主婦が陥る子育て地獄、お受験地獄などのテーマはドラマでも小説でもよく見かけるようになったが、この小説はその中でもかなりリアルに身に迫ってくるため、おすすめである。

快挙のうしろには地味な作業と確固たる信念がある『文春砲 スクープはいかにして生まれるのか?』

ベッキー不倫騒動をはじめとするスクープをかっとばし、「文春砲」と恐れられた週刊文春の編集長と特集班デスク担当、特派記者らによるノンフィクション。スクープが週刊文春に載るまでの苦労や、週刊文春としてふさわしい記事はなにかという信念、どのように雑誌をつくっているかという仕事紹介まで含まれているから、これからメディア系に就職することを考えている学生にはぴったりの参考資料。

取材情報元や取材詳細は秘密にしなければならないから、内容としてはそこまで詳しいものではない。NHKのドキュメンタリーに登場出来る程度。週刊文春のあるべき姿にかける編集長の信念については丁寧に述べられている。とにかく客観的証拠やファクトを大切にすること、売れるネタだけではなく報道する価値があるかどうかまで考えること。考えてみたらメディアとしてはあたりまえのことばかりではあるけれど、これをわざわざ言わなければならないということは、それができていないメディアもまた確実に存在するのだ、ということを思わせる。