コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】パフォーマンス評価をうまく使いこなせば改善につながるが、使い方を間違えると機能不全になる〜Jerry Z. Muller 『The Tyranny of Metrics』

 

The Tyranny of Metrics

The Tyranny of Metrics

  • 作者:Muller, Jerry Z.
  • 発売日: 2018/02/06
  • メディア: ハードカバー
 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 「測定値」を目標化するとデメリットの方が大きくなることがある。「測定値」をよくすることが目的ではないことを心がけた。
  • 「測る対象」と「本当に知りたいこと」の間にどれくらいの相関関係があるのか、「測定値」はどのようにして得られるのか、はっきり言葉にするようになった。言葉にできなければよく理解していないということなので、さらに調べる。

 

尊敬するブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」でとりあげられているのを見て、知りたかったテーマであることもあり、即買い。

ミスが全くない仕事を目標にすると、ミスが報告されなくなる『測りすぎ』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

本書のキモはこの一文にこめられている。

“Not everything that can be counted counts, and not everything that counts can be counted.”

ーー測定できるもののすべてが重要なわけではなく、重要なもののすべてが測定できるわけではない。

本書は『測りすぎーーなぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』というタイトルで日本語訳が出ているけれど、著者は「測ること」すべてがダメだと言っているわけではない。パフォーマンス評価が改善につながることも山ほどある。

ただ、測れることと知りたいことの間には差違があり、測ったものを使った管理はときとして意図とは逆の効果をもたらすことをさまざまな研究結果から示し、「だから慎重になりましょう」と言いたいのである。

 

「測ること」について、現在最も熱心に議論されているのは、今年初めに中国・武漢で暴発した新型コロナウイルスの検査であろう。「各国で新型コロナウイルスの確定症例が何例出たか」が、その国家が安全であるかどうかの指標として扱われ、日本の厚生労働省には「なぜ検査対象を限定するのか。確定症例を増やしたくないという政治的判断で国民の生命を危険にさらすのか」という批判が寄せられている。

しかし感染症の専門家たちは、SNSやネットニュースなどで「やみくもに新型コロナウイルス検査をするのは疫学研究以上の意味はなく、むしろ医療現場に悪影響しかない」と主張する。たとえば以下のリンクではおおよそつぎの理由をあげている。

https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-sakamoto

  • 新型コロナウイルス専用の治療法はないので、確定診断してもしなくても医師がすすめる治療法は変わらない。すなわち確定診断しなくても患者に不利益はない。
  • 新型コロナウイルスの検査手法であるPCR法そのものの精度が高くなく、陽性や陰性の結果が出てきてもあてにならない。
  • 新型コロナウイルス感染者の8割は無症状か普通の風邪症状しかなく、自宅療養すれば治るのに、検査で確定診断されれば無症状でも入院させなければならず、本当に入院が必要な患者を押し出してしまう。

これなどはまさに「測りすぎ」が意思決定や行動にデメリットをもたらす例だといえる。

そもそも確定症例をその国家の安全性評価に使うのは妥当なのか? その国家での検査方法や疫病対策まで考えなければならないのではないか? という話も出てくるはずだが、検査方法や疫病対策は残念ながら「測れ」ない。

だから判断対象にしなくていいかといわれれば、もちろんそんなことはない。本書では端的に言い切っている。

There are things that can be measured. There are things that are worth measuring. But what can be measured is not always what is worth measuring; what gets measured may have no relationship to what we really want to know. 
ーー測量できるものがある。測量に値するものがある。だが測量できるものが、必ずしも測量に値するものとは限らない。測量されたものは、ほんとうに知りたいこととはなんの関係もないかもしれない。

 

もともと、さまざまなことを数値化して管理するのは、19世紀後半に教育分野と工業分野で広がった方法らしい。工業分野での数値化管理により、工業に詳しくない「管理職」なるものを生み出した、という指摘は、私には目からウロコだった。

19世紀まで、工場を経営管理していたのは製品を熟知している技術者たちであった。しかし20世紀に入ると徐々に「管理指標」なるものが幅をきかせ、管理指標の専門家が経営陣に加わり、さらには社長をつとめるようになった、という。

ーー今日では「技術畑生え抜きの社長」などという言葉があるくらい、技術担当と経営担当は別々なのがあたり前になったが、それは数値管理により技術知識をもたない経営担当でも現場の状況を把握できる(つもりになる)ようになったから。なるほど納得。

ただし、管理指標の専門家は技術の専門家ではない。だから、数字の良し悪しばかり見て、数字が意味するところを深く考えない。そのため意思決定をまちがえることがある。

著者は医療分野での「再入院者数」を例としてあげている。患者が退院後、再入院することは、「最初に入院したときのケアが足りていなかった」可能性があるとされ、再入院者数を低くすることがよいとされた。

だが、実際に再入院する理由はさまざまだ。たとえば大学病院ではむずかしい病気の患者を数多くひきうけているため、再入院する患者も多くなってしまう。たとえば貧困地域に近い病院では、衛生状態が悪く、患者の多くがそもそも自己管理できないため、退院後すぐに悪化して再入院が必要になる。これらの原因は病院のパフォーマンスとは関係ない。だが「再入院者数」でくくってしまえば、大学病院や貧困地域付近の病院はパフォーマンスが低いと勘違いされてしまう。

著者が言いたいのはこういうことだ。

常に問わなければならない。

目の前にある「測定値」はほんとうに知りたいことを反映しているのか?「測定値」で意思決定するのは正しいか?「測る」ことには時間とお金がかかる。「測る」ことでなにを得て、なにを失うことになるのか?

悩み相談で一番大切なのは、相手の答えをさぐること〜幡野広志『なんで僕に聞くんだろう。』

 

なんで僕に聞くんだろう。

なんで僕に聞くんだろう。

  • 作者:幡野 広志
  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 単行本
 

もし私がだれかに悩み相談をされたら、幡野さんと同じように、相手の話を聞き、相手の答えを探ることをまずは真剣に行いたいと思った。背中を押すかどうかはその後決める。なぜなら相手の答えを探ることは、相手と同じ視線に立ち、相手のおかれた状況を想像する作業であり、相手に対等に接するために必要なことだから。

 

初めてCakesの連載「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」を知ったのは、Twitterのタイムラインに誰かのリツイートが流れてきたからだった。その時の相談内容は忘れてしまったけれど、「ガンで余命宣告を受けた写真家が人生相談に乗っている」というコンセプトを見て、写真家の人生相談なんて珍しいなぁ、こんなタイトルをつけるのだから本人も戸惑っているんだろうなぁ、と思ったことは覚えている。

相談内容と回答が印象に残ったのは、しばらくあと、タイムラインにCakes掲載情報がリツイートされてきたときだ。

そのときの相談内容に対する幡野さんの回答が素晴らしくて忘れられず、何度も読み返した。ちなみにこの相談内容と本書のラストを飾っており、人気だったことがうかがえる。ラストから二番目の相談内容と回答も、何度も読み返した。

 

なぜこれほど素晴らしいと感じるのだろう。

考えたあげく、写真家とかガン患者とか関係なく、幡野さんというひとりの人間が「同じ目線で」「相手のことを思いやる想像力をもって」答えるからかもしれないな、と思った。

私はなかなか他人に人生相談などできない性格だけれど、思い余って相談したときに、

「なんか上から目線のアドバイスだな。押しつけがましいな」

「それ、自分はそうだったかもしれないけど、私の状況考えてないじゃん。状況全然違うのに」

「真剣に考えてくれてないな。やっぱり他人事なんだな」

このうちどれか一つでも感じてしまったら、もうその人の回答を聞きたくなくなってしまうし、相談したくなくなる。

幡野さんの回答にはどれもあてはまらなかった。同じ目線で、軽々しく「分かるよ〜その気持ち」などの薄っぺらい言葉を言うことなく、真剣に考えて答えてくれている。そう感じた。だから素直に読める。

そう思っていると、後書きで幡野さんが悩み相談についての考え方を書いていた。

悩む人というのは悩んでいるのではない、不安なだけだ。

ほとんどの場合が悩みに対して答えを見つけている、ただその答えに自信がない。

だから悩み相談でいちばん大切なことは、相手の答えを探ることだ。

幡野さんはその答えを真剣に探りあててから、背中を押すかどうかを決めている。

相手の答えを探るという作業そのものが、相手と同じ視線に立ち、相手のおかれた状況を想像する作業だ。だから幡野さんの答えはとても素直に読めて、押しつけがましさをまったく感じない。当事者がどう感じるかはわからないけれど。

 

幡野さんの本業は写真家だから、この本にも何枚かのカラー写真が掲載されている。絶景のパノラマではなく、なにげない日常の一コマを撮影したものが多い。あえて選んでいるのかもしれない。点滴台を押した幡野さん自身を窓ガラスに映している写真、息子とおぼしき子どもと手を繋いでいる写真もある(顔が映らないようにうまく角度調整されている)。

親子二代にわたって写真を趣味にしている親戚がいるから、写真撮影、編集作業を見る機会はそれなりにあったが、私自身はあまり興味がない。正直言えば、写真の良し悪しもわからない。でも、一番最初のページにある、コーヒーにミルクを注ぐ写真は「なんか素敵だな」と思った。多分、きれいに写っているグラスの模様が気に入ったのだと思う。

 

それぞれの悩み相談の内容は、何度も読み返したくなるものの、当事者ではないからこのブログであまりしつこく紹介しない。でも、幡野さんの回答はとても素直に「なるほど」と思えるし、似たような悩みを抱えている人々にもきっと参考になるから、読んでみてきっと損はない。

 

女性読者は心臓を日本刀で刺されたような衝撃を受けるだろう〜チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

韓国社会で一大ベストセラーになったこの小説を遅ればせながら読んでみた感想。

「これ、女性読者には心臓を日本刀でぶっ刺されたような衝撃を与えそうだけど、男性読者には響くんだろうか」

ストーリーは至極単純だ。主人公キム・ジヨンは夫と1歳になる娘とともに暮らす専業主婦。彼女がしばしば生き霊にでも取り憑かれたように、自分ではない身近な誰かになりきったような言動をすることに気づいた夫が、ジヨンを精神科に通わせる。精神科医はカウンセリングによってジヨンのこれまでの人生についてじっくり話を聞く。ジヨンの半生はごく平凡なものだったが、その中にはごくありふれた日常経験として、韓国社会にはびこる男尊女卑の病巣が紛れこんでいる。小説はさりげない筆致でこれらの病巣を抉りだす。ジヨンを担当した精神科医は彼女の半生をカルテにまとめ、最後に独白して終わる。

男尊女卑の病巣は一見小さなことの集合体として提示されている。家庭から、学校から、職場、結婚生活まで、小さなことの集合体はしつこい汚れのようにこびりついている。家庭では姉妹よりも先に弟にごはんがよそわれ、弟だけに一人部屋が与えられようとする。学校では男子が女子よりも先に給食を食べ、男子の服装規定はゆるいのに女子は厳しい。就職活動では女性だからという理由で書類選考すら通過できず、面接ではセクハラめいた質問が投げかけられる。職場では男性社員に将来性のある仕事が割り振られ、女性社員はいずれ結婚・出産して長く働家ないかもしれないからと、男性社員に割り振られなかった仕事をさせられる。あげく女子トイレで盗撮騒ぎが起きたが、男性社員たちは女性社員をかばおうともせず、むしろ迷惑そうにしている。

ーー日本では医科大学の入学試験であからさまに男子受験生の点数に下駄がはかされたが、キム・ジヨンの人生でも一事が万事こんな調子だった。

ひとつひとつの出来事はさりげなく、女性にとってはあるある話ばかりである。男尊女卑をまったく経験しなかった女性はほとんどいない。韓国に限らず日本でも。だからこそこの本は韓国にとどまらず、日本、さらには中国でも大人気になった。キム・ジヨンの物語を、女性読者たちは自分たちの物語として読んだからだ。

小説は精神科医が患者から聞いた話をまとめたカルテという体裁をとっているから、あくまで客観的だ。肩入れしすぎず突き放しすぎず、キム・ジヨンの人生で起こったささいなことを語ることによって、彼女を追い詰めたものを淡々と炙り出している。しかし精神科医は結局のところキム・ジヨンの苦しみを理解できるわけではなく、「私が考えも及ばなかった世界が存在する」と、他人事なコメントを残す。40代の男性であるらしい精神科医には無理なからぬ話だ。

本書は韓国で女性読者から熱狂的に支持される一方、男性読者の中にはフェミニスト本として毛嫌いする人が少なくないと聞く。自分たちが優遇されている側だと指差されるのはおかしい、兵役がなくいざとなれば夫の収入で食べていける女性こそが恵まれているのだと主張する男性もいる。

作中でキム・ジヨンの夫は、義実家の追求をかわすためだけに深く考えることなく「子どもをもとう」と提案し、ジヨンが出産後も仕事を続けられるか不安がると、「失うもののことばかり考えないで、得るものについて考えてごらんよ」と悪気なく言い放ち、ジヨンの怒りを買う。

「それで、あなたが失うものは何なの?」

「え?」

「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友だちっていう社会的ネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。だから失うもののことばっかり考えちゃうんだよ。だけど、あなたは何を失うの?」

「僕は、僕も……僕だって今と同じじゃいられないよ。何ていったって家に早く帰らなくちゃいけないから、友だちともあんまり会えなくなるし。接待や残業も気軽にはできないし。働いて帰ってきてから家事を手伝ったら疲れるだろうし、それに、君と、赤ちゃんを……つまり家長として……そうだ、扶養! 扶養責任がすごく大きくなるし」

ジヨンの夫のしどもどとした言いわけは、新型コロナウイルスの感染拡大対策に「小中高を臨時休校させる」としれっと言い放ち、家にいる子どもたちの面倒を見るために母親たちが仕事を休まなければならなくなることには考えが至っていないように見える政府と、同じメンタリティを感じさせる。

『82年生まれ、キム・ジヨン』に書かれていることはフェミニンなどではなく、女性が見ている世界そのものだ。作中で精神科医が「考えも及ばなかった世界」と呼んでいるものを、この本は目に見える形にしてくれている。

食わず嫌いをせず、この本をぜひ読んでほしい。男性女性限らず、どの国に住んでいるかに限らず。

アメリカ発、子どもを成功者にするために必要なこと〜Paul Tough “How Children Succeed”

 

How Children Succeed: Grit Curiosity and the Hidden Power of Character

How Children Succeed: Grit Curiosity and the Hidden Power of Character

  • 作者:Paul Tough
  • 発売日: 2012
  • メディア: ハードカバー
 

 

どうすれば子どもに良い人生を歩ませることができるかは、すべての親の永遠の課題だろう。

「良い人生」についての考え方は人それぞれだけれど、アメリカでは、高学歴を身につけ、高給の仕事につくのを目指すことが多いようだ。

これまでアメリカは知識面、たとえば読解能力や計算能力を子どもたちに身につけさせることを優先させてきたけれど、しだいに、学力だけでは足りないと考える人々が登場した。本書もこのスタンス。

What matters, instead, is whether we are able to help her develop a very different set of qualities, a list that includes persistence, self-control, curiosity, conscientiousness, grit, and self-confidence. 

(学力の)代わりに考慮すべきことは、子どもたちにまったく違う複数の能力を身につけさせる手助けができるかどうかである。必要となる能力として、忍耐力、自制心、好奇心、誠実さ、度胸、自信が挙げられる。

この考え方そのものは新しいものではない。日本では古くからさまざまな身につけるべき美徳が提案されているし、同じ英語圏であるイギリスでも、紳士淑女たるものこうでなければならないという心構えの長いリストがある。だが、アメリカ社会で、この考え方を実験で確かめているのが、本書の面白いところだ。

 

1960年代、アメリカはある社会実験をした。低収入、低IQの黒人家庭出身の3〜4歳の子どもを選んで二つのグループに分け、片方には2年間幼児教育を受けさせ、もう片方は何もしなかった。その後20年以上追跡調査し、幼児教育が子どもたちの人生に与えた影響を解析している。

今日では人道的観点から猛反発されそうな社会実験だけれど、1960年代当時のアメリカではこういうことができ、どうあれ貴重なデータを得ることができた。短期的にはがっかりするような結果だったーー幼児教育を受けたグループは、数年後にはそうでないグループとほぼ同じIQになっていた。ところが長期的にはめざましい結果が見られたーー知的能力がほぼ同じにもかかわらず、幼児教育を受けたグループは、明らかに学歴や収入が上になっていた。彼らは知的能力以外の【なにか】を幼児教育を通して身につけ、それが彼らの人生によい影響を与えた可能性があった。


ではその【なにか】、たとえば忍耐力、自制心、好奇心、誠実さ、度胸、自信といった能力はどのように育つのか。

本書ではまず「幼児期のストレスはこれらの能力発達に無視できないマイナス影響を及ぼす」ことを示す一連の実験結果を紹介する。貧困そのものではなく、貧困家庭にありがちな家庭内暴力、アルコール依存、ネグレクトといった状況が子どもに与えるストレスこそが、子どもの能力発達をさまたげるのであり、この効果は青少年期にはっきりと現れる。ようするに日本で言うところの「キレやすい」子どもになってしまう。

少し前に『ケーキの切れない非行少年たち』という新書が話題になったように、認知能力に問題が生じる子どももいる。アメリカはさらに段違いだ。本文中に登場するシカゴの某高校は、校長に「生徒に殺しあいをさせるな」という指令が下るほど荒れている。地域環境は推して知るべしで、生徒は常に多大なストレスにさらされている。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

  • 作者:宮口 幸治
  • 発売日: 2019/07/12
  • メディア: 新書
 

 

次に、「お菓子などで釣ってやる気を起こすことができれば一時的には効果があるかもしれないが、長期的影響は少ない」ことを示す実験結果。

ある子どもたちにまず普通にIQテストをさせたあと、正解するごとにチョコレートをご褒美にあげることにしてもう一度IQテストをさせてみたら、平均スコアが30近く上がったという実験結果がある。だが、その後の追跡調査で、子どもたちが成長したあとの成功度合い(学歴、収入など)は、チョコレートを与える【前の】IQに沿うものであったという。つまり、チョコレートで釣られて一時的にIQテストに真剣に取り組み、その結果スコアが上がったとしても、続かないのだ。チョコレートがなければ良いスコアを出せない子どもは、チョコレートなしで同じスコアを出せる子どもほどには成功しなかった。

 

では、子どもたちに【ずっと】やる気を起こさせ、必要な能力を身につけさせるためにはどうすれば良いのだろう?

これについてのさまざまな取り組みが本書のハイライトだ。生徒たちの行動を逐一確認して、理想的なふるまいに近づいているかどうかチェックする方法。声かけを工夫して生徒にみずから考えさせる方法。民間団体及び教会を中心とする地域団体による見守りやカウンセリング。どの方法も完璧ではなく、教育者たちは試行錯誤している。そもそも【必要な能力】とはなにかについても、各学校で答えが異なったりする。究極のところ、正解はない。

【成功するための能力】がどういうものなのか、本書ではいくつか例を挙げている。また、それぞれの教育機関が子どもたちにこれらの能力を身につけさせるために行なっていることも参考になる。必要能力が身についているかどうかの判断方法が「大学を卒業できること」であるところはいかにもアメリカらしい。

この点は、日本の大学にそのままあてはめることはできないだろう。日本では経済的理由以外で大学中退するのは珍しいが、アメリカでは学業についていけなくなったために大学中退する学生がとても多い。学力が足りないわけではなく、本書にあるような能力、たとえば遊びたいのを後回しにして、締切日までにレポートを仕上げるだけの忍耐力がないために、学生生活がうまくいかなくなるのだ。

他にもさまざまな点で、本書の内容はアメリカ社会以外にそのままあてはめることはできない。

たとえば日本社会で同じようなテーマで本を書こうとすれば、間違いなく「親はこうすべき、ああすべき」という内容が沢山登場することになるだろうけれど、本書では親の協力というものにあまり触れていない。

理由は、本文中に登場するある公立高校の校長が端的に述べているーーそもそも貧困地域では、生物学上の両親と同居している子どものほうが稀だ。たいていは片親で、祖父母や親戚が同居していることもある。親は生活のために働くのが精一杯で、とても子どものしつけに時間を割く余裕はない。そもそも親自身が崩壊家庭育ちであることが珍しくなく、しつけの仕方がわからない。家庭内での暴力沙汰は日常茶飯事で、ひどいときには人死にが出る。こんな環境では親の協力など期待できない。

 

アメリカの(少なくとも高学歴の人々の)基本姿勢として、「努力で変えられるもので人を判断するのは許される」というものがある。ゆえに子どもたちの【成功】【失敗】とその原因を探るにあたり、「この原因は教育やソーシャルワークなどの努力によって変えることができるか? 変えられるならばどうすれば良いか?」までをきっちり調査報告している。この点で本書はかなり役立つ。

ただ、物足りない点がないわけではない。

本書の著者はジャーナリストであり、研究者ではないため、さまざまな調査報告を広く浅く紹介するにとどまり、研究内容に深入りしているわけではない。より詳しく知りたければ、文中に登場する心理学者、脳科学者、教育者たちの著書に当たってほしい、というスタンスだ。

こうしてみると、本書にあげられた【成功するための能力】こそはかなり参考になるものの、実際にどうすればよいかは万国共通ではなく、その国にふさわしいやり方を考える必要がある。子どもを成功者にするためにはどうすればいいか、さまざまな研究について紹介している本として読み、考えるとっかかりにするのが良さそうだ。

どこまでがフィクションですか?と聞いてみたい、是非〜有川ひろ『イマジン?』

どこまでがフィクションですか? ーーと、真っ先に原作者の有川ひろさんに聞きたい。是非聞きたい。

内容としては、大ヒットした映画『カメラを止めるな!』に似ている。映像制作会社に勤める主人公とまわりのスタッフが経験するさまざまな撮影現場を通して、映画やドラマ撮影の裏側、あるある話、こぼれ話、ハプニング、制作会社の苦労話、ついでにちょっとしたロマンスを良い塩梅に小説にちりばめたストーリーだ。多分初めてLGBTに正面切って挑んだ小説でもある。

面白いのは、作中に登場する5つの撮影現場のうち、2つは明らかに有川ひろさん自身の別の作品のオマージュであること。「天翔ける広報室」はそのまんま日曜ドラマ化された『空飛ぶ広報室』だし、「みちくさ日記」は確実に映画化された『植物図鑑』だろう。しかも別の撮影現場の話として、明らかに映画『図書館戦争』を意図したこぼれ話まであり、ファンとしてはニヤリとしたり嬉しくなったりと忙しい。

それだけに、「天翔ける広報室」での打ち上げパーティーでの自衛隊側スピーチは実際にあったのだろうか、とか、「みちくさ日記」の撮影現場を原作者が見学してその後SNS発信したのは実話なのか、とか、色々気になってしまう。とくに「みちくさ日記」にからむSNS発信の内容は、作者の渾身のメッセージであることがわかるから余計に気になる。さすがに「天翔ける広報室」のヒロイン役の女優のロマンスは100%創作だろうけれど。ちなみに実在する『空飛ぶ広報室』の主演は、新垣結衣である。

 

私は有川ひろさん(以前は有川浩)のかねてからのファンだけれど、本書は途中まで「普通に面白いけど、なんか物足りない」と思いながら読んだ。

私が好きになる有川浩作品には「毒」がある。変な例えだけれど、紅葉豊かな秋山でのピクニックを楽しんでいたら、足元にいきなり深淵が口を開けて、火山ガスのごとく鬼気迫る空気が噴出しているような。小説として楽しんでいたら、いきなりあまりにもリアルな現実描写がでてきて、冷水を浴びせられるような。

私が最初に読んだ小説『海の底』は、巨大人食いザリガニの群れが前触れなく横須賀の自衛隊基地と米軍基地に襲いかかるお話だ。作中、米軍がザリガニ退治のために横須賀爆撃を検討しているらしいとの情報がもたらされる。自衛隊側に日本民間人が取り残されているのに爆撃を強行するでしょうか? という疑問に、参事官は「取り残されているのはアメリカの民間人か?」と逆に問う。

こういう「毒」が、私が好きになった有川作品の持ち味だ。いざとなればアメリカは日本に犠牲を強いることをためらわないーー作中で一切の容赦無く突きつけられる言葉は、現実社会の「毒」をえぐり出し、目をそらしていた不安を射抜く。

 

本作『イマジン?』は、途中までその「毒」が比較的薄められていたように思う。

主人公の良井良介が上京後、内定が出ていた東京の小さな映像制作会社の計画倒産に巻きこまれ、どこにも就職できずにバイトで食いつなぐというなかなかハードな出だしではある。けれどその後良介が制作会社のアルバイトを始めると、そこそこスムーズに滑りはじめ、物語は制作会社の仕事内容や撮影現場のハプニングなど、私からすると「毒気の薄い」内容に傾いていく。

物足りないと思いながら読みすすめていたら、最終章「TOKYOの一番長い日」で欲求不満がある程度解消された。第一章「空翔ける広報室」からの完璧なつながり、原作者が作品にかける熱意、意表をつくハプニング、最近テレビでも特集が組まれるようになった「働かないおじさん」。一話完結のドラマとしては盛り上がりとギャグがほどよくブレンドされて面白い。

欲求不満はある程度解消されたけれど、やはりどこか物足りなく感じてしまう。『海の底』の「取り残されているのはアメリカの民間人か?」のような意表をつく毒気のあるセリフが見当たらなかったのだ。良くも悪くもほかの映像化された有川作品のオマージュを含むから、なんとなく無難な仕上がりになっているように感じられてしまう。内容自体も、どうしても『カメラを止めるな!』と引き比べてしまう。

小説としては充分面白いし、映像化の裏側、制作会社の裏側がわかって知的好奇心が充分に満たされる。けれども個人的には、もっとトガッたものが読みたい、というわがままな感想を抱いた。次回作に期待。

ロシア語通訳として見聞きした世界〜米原万里『心臓に毛が生えている理由』

嘘つきアーニャの真っ赤な真実』の著者のエッセイ集。ロシア語通訳として政府高官やメディア取材に同行することがよくある著者ならではの視点から、日本との文化的違いが浮き彫りになるワンシーンを切り取った文章が多い。とくに著者の本業である通訳にからめて、言葉の文化的背景についてのエッセイは読み応えがある。

たとえば日本語では「素晴らしい」のひとことで済ませられるが、ロシア語ではこうである。(著者はわかりやすさのためにわざと英単語を使っている)

「だって、米原さんは、僕がadmirableと言っても、amazingと言っても、braveと言っても、brilliantと言っても、exellentと言っても、fineと言っても、fantasticと言っても、gloriousと言っても、magnificentと言っても、marvelousと言っても、niceと言っても、remarkableと言っても、splendidと言っても、wonderfulと言っても、必ずスッバラシイーと転換しているんだもの。いやでも覚えてしまうよ」

著者はこれを「感動が噓偽りないものだと、自分と他人を納得させようと必死な感じさえする。極めて緊張した人間関係がかいま見える」と評している。

これが正しいのかどうか、私にはわからないけれど、言葉というのは、文化そのものであり、ある言葉を選ぶことで、世界に対する見方まで変わってしまうのは、よく知られている。

たとえば、日本では雪は白色とされるが、北極圏に近いところに暮らす先住民の言葉では、雪の色を表現する言葉が何十種類もある。日本では虹は七色であるとされるが、アメリカでは6色だ。

言葉のスペシャリストである著者が、言葉、習慣などから、その背後にある文化をさぐろうとする姿勢が、すべてのエッセイに貫かれている。チェコで教育を受けた著者にとって、知識は断片的なものではなく、それぞれが論理的必然性や物語の文脈といった意味のある結びつきをしていなければ、使えないものだ。著者にとって、異なる言葉、異なる習慣を理解するための手段が「文化的背景に結びつける」ことだったのだろう。

この本には、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を書いたきっかけも登場する。学生時代のアーニャはルーマニア共産政権幹部の娘として贅沢な暮らしをし、ルーマニア人としての愛国精神が強い少女だった。だが、ルーマニアチャウシェスク共産政権が崩壊したあと、あれほど愛国心豊かだったはずのアーニャはイギリス人と結婚してロンドンに移住し、再会した著者に「国境なんて二一世紀には無くなるのよ」「民族とか言葉なんて下らない」と言い放つ。そこに著者のみならず、かつての級友たちも反発した。一方、NHKで放送されたこの言葉は、グローバル化時代にふさわしいとして日本で肯定的に評価された。

どうして二人の優秀なテレビウーマンが納得し、多くの日本人視聴者が感動したアーニャの発言に、わたしや他の級友たちが欺瞞と偽善の臭いをかぎ取ったのか。そこに、日本人の考えるグローバル化と本来の国際化のあいだの大きな溝があるような気もした。

著者は自分の感じ方とNHK視聴者の感じ方がなぜこれほどちがうのかをさぐるために、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を書いた。アーニャのこの発言の背景と、級友たちの人生物語とを添えて。

このエッセイでは、著者は「溝」をはっきり書いているわけではない。けれど、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』を読んだ私には、なんとなく察することができた。

グローバル化とは民族や言葉を統一することではない。むしろ逆だ。文化背景や生活習慣がまったく異なる人々の中にいれば、自分が何者かをはっきりさせるために、自分の文化背景や生活習慣を強く自覚するようになる。まわりもそう扱う。著者が通ったソビエト学校において、自国に誇りを持たない者は軽蔑された。私の知りあいの留学生は、同国の留学生同士では母語を使うことにこだわり、現地の言葉を使う者は仲間だと認めなかった。

グローバル化とは、まったくタイプが異なる人々の中に投げこまれることだ。グローバル化時代に求められるのは、「自分はこういう人間だ」との立ち位置をはっきりさせ、自分の人生をしっかり生きていけることだ。そして生まれ育った文化背景は、切り離すことができないその人の一部だと、著者も級友たちも考えているし、アーニャが学生時代、ルーマニアへの愛国心に滾っていたのを見てきた。だからこそ「民族とか言葉なんて」というアーニャの言葉に、心底反発し、軽蔑したのだろう。

 

珠玉のエッセイを一篇ずつ読みながら、異国の文化にひたる。知的好奇心をたっぷり刺激したら、いつかその国を訪れたいという好奇心が、むくむくと頭をもたげてくるはずだ。

冷戦下のソビエト学校から〜米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

おそらく、冷戦時代のヨーロッパの共産主義陣営、そこで暮らす共産党員たちの子どもの喜怒哀楽や運命を、同級生の視線からノンフィクションにまとめた本はほかにないのではないだろうか。

著者の米原万里氏は日本共産党の幹部を父親にもち、父親のチェコスロバキア赴任により、1959年から1964年、9歳から14歳まで5年間、プラハにある外国共産党幹部子弟専用のソビエト大使館付属学校に通った。本書は、ソビエト学校で出会った友人達についての著者の思い出と、成人後に彼女たちを探して中東欧を訪れる物語。

80年代は東欧の共産党政権が倒れ、ソビエト連邦が崩壊していく時期。90年代に入るとユーゴスラビア紛争が勃発する。激動の時代にあって、著者と友人達の個人的なつきあいや思い出、彼女たちの足跡をたどるための調査そのものが、意図せずして、複雑なヨーロッパの現代史の縮図となっている。

 

中心となる女友達は3人。リッツァーーギリシャ人で、両親はギリシャからチェコスロバキアに亡命してきた共産主義者。アーニャーールーマニア人だが父親はより複雑な出自を持ち、ルーマニア共産主義政権のもと特権階級として贅沢な暮らしをしていた。ヤスミンカーーユーゴスラビア人で両親はサラエボ出身、父親は外交官。

この3人の学生時代や成人後のことが語られる。亡命者、共産党高級幹部の娘、ユーゴスラビア紛争の当事者。彼女たちは子どもでありながら、すでに国家間紛争と無関係ではいられなかったし、本人たちもそのことを思わずにはいられなかった。

 

3人の女友達のなかでも、著書タイトルにもなったアーニャは、共産党高級幹部の娘で、ルーマニアの平均水準よりはるかに贅沢な暮らしをしていた。だがアーニャの兄はそれが共産主義にそぐわないとして嫌悪感を示し、アーニャの両親は特権を享受する一方で、子どもたちをルーマニアから外に出そうと手をつくしていた。

アーニャは学生時代、ルーマニア人であることを誇りに思っていたけれど、成人して著者と再会したときには、著者にすら本心を語ろうとしなくなっていた。そうして自分を正当化して、自分にもまわりにも嘘をつかずにはいられなかった。タイトル『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、おそらく、ここから来ているのだろう。

年老いた両親に愛され、いつも良い子であり続けなくてはならなかったアーニャは、常にその時々の体制に適応しようと全身全霊を打ち込んできた。そのたびに、古い主義をきれいさっぱりぬぐい去っていく。

 

守ってくれるはずの祖国から逃れなければならなかったリッツァ。祖国を誇りに思いたいのにそれができずにいるアーニャ。祖国が戦火に陥ってしまったヤスミンカ。彼女たちはそれぞれ家庭を築いてささやかな幸せを得ていたけれど、祖国と民族への帰属意識を強く持てずにいることが、言葉の端々から感じとられる。

著者は日本人であり、日本は比較的安定している国家だから、彼女たちのように祖国だとか民族について真剣に考えなければならない状況にあったわけではない。だが、著者がノンフィクションとして書き起こしたかつての同級生達の言動は、祖国だとか民族について考えさせずにはいられない。