コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

GoogleとFacebookは私たちを変えているか?〜デイヴィッド・サンプター『アルゴリズムはどれほど人を支配しているのか?』

だれもが一度は聞いたことがあると思う。Googleの検索結果が偏っているとか、Facebookフェイクニュースが拡散して世論に影響しているとかいう話だ。それをまじめに考えてみたのが応用数学教授であるこの本の著者だ。

本書は18の章立てになっており、まとめである最終章を除いて、それぞれの章でひとつの話題について話しているので、どの章から読み出してもわかりやすい。また、むずかしい数学は一切登場しない。統計学の基本用語が二、三登場するくらいだからありがたい。身近な現象を数学的見方からわかりやすくわくわくするようなやり方で紹介してくれている。

 

本書のターゲットであるアルゴリズムとは、方法や手順のこと。Googleで上位にくる検索結果を選ぶ、Facebookでニュースフィードを更新する、Amazonでおすすめ商品を選ぶ、いずれもアルゴリズムあればこそだ。

同時に、アルゴリズムによって選ばれた結果が「公正な」ものであるかどうかはいつも論争の的だ。Googleでサイトが検索上位にくるように仕向ける方法は広く知られているし(本書にも登場する)、TwitterのフォロワーやFacebookの「いいね!」をお金を払って買うことができるという番組をNHKが放送したこともある。こうしたことが重なると、「わたしたちはアルゴリズムが示す結果に行動を支配されつつある」というささやきが、まことしやかに広がり始める。著者はこう書いている。

たびたび、アルゴリズムは私たちの人間性を理解したり、将来の行動を予測したりできる魔法のツールとして売り出されている。事実、アルゴリズムは人材採用、融資、収監の可否を判断するために使われている。こうしたアルゴリズムの内部では何が起きているのか? そして、どういう種類の誤りが起こりうるのか? 私はそれをもっと詳しく理解しなければと思った。

 

アルゴリズムが「公正」かどうかは、AI医師やらAI裁判官を設計しようとする人々、アルゴリズムによって採用活動を効率的に行いたい人々にとって大問題だ。リクナビが就活生の登録情報を分析することで「内定辞退の可能性」なるものをはじき出して販売しようとして、大問題になったことがあるが、アルゴリズム自体の「公正性」が保証できなければ、アルゴリズムによって内定獲得を左右される学生にとってはたまったものではない。

内定辞退の可能性よりさらに問題になるのは、再犯率だ。アメリカではアルゴリズムによって犯罪者の再犯可能性を評価する試みが進められているが、問題になったのは、白人と黒人が「公平に」評価されているかどうかであった。著者によると、数学的観点からすると「真の平等」は達成不可能だという。それに近づける努力をするにとどまるのだろう。

彼らは、アルゴリズムがふたつの集団に対して同程度に信頼でき、なおかつ一方の集団のほうがもう一方よりも再犯率が高い場合に、偽陽性の割合が両集団で等しくなることはありえないことを証明した。黒人の被告人の再犯率のほうが高いとすれば、黒人が誤って高リスクと分類される確率は必然的に高くなってしまう。そうでなければ、そのアルゴリズムはふたつの人種に対して公平に較正されていないことになる。白人と黒人の被告人で異なる評価を行わなければならなくなるからだ。

 

また、Amazonの「こちらもおすすめ」が売れ行きに影響し、さらにはベストセラーに影響する可能性も充分あるという。

クリスティーナいわく、「こちらもおすすめ」システムは「異世界」をつくり出すのだという。つまり、自分自身の選択についてあまり深く考えず、ほかの人々の誤った判断をいっそう強化してしまうような多数の人々によって人気が決まるオンライン世界だ。

著者はとてもかんたんな数学的手法で「こちらもおすすめ」をシミュレートしてみた。単純に25人のサイエンス分野の人気作家をならべ、それぞれが本を一冊書いたと仮定して、ある読者Aがそのうちの二冊を買うと、売れた本が、次の読者Bに買われる確率がちょっとだけ上がるようにしてみたのだ。たとえば、最初の読者Aがどの本を買うか、確率は等しく1/25だが、次の読者Bが本を買うとき、Aがすでに買った本が選ばれる確率は2/(25+2) = 2/27、その他の本が選ばれる確率は1/27になる。するとどうだろう? シミュレーションをしていくうちに、ベストセラー作家とそうでない作家の違いがくっきりと分かれてきた。「こちらもおすすめ」が、本の売れ行きに大きな影響を及ぼしたことがよくわかる結果になった。この数学的手法が本を買う確率だけを使っており、本の内容にはいっさいふれていないこと、最初の読者Aが買った二冊の本がランダムに選ばれたことに注意してほしい。Amazonの「こちらもおすすめ」に従って、ほかの人が買った本にちょっとだけ余分に注意を払うことで、本の売れ行きにおどろくほどの差が生じるかもしれないを、著者はちょっとした数学的遊びとして示してみたのだ。本好きなら「ベストセラーが必ずしも『良い』本とは限らない」ことをよく口にするが、まさにあれだ。

 

一方で、フェイクニュースの影響力は皆が恐れるほどではないだろうというのが著者の見方だ。だれもがネットだけから情報を得ているわけではなく、リアル友達や、政治的意見はちがうけれど趣味が同じのネット友達とコミュニティをつくることで、フェイクニュースの影響力を低めることができるという。

フェイクニュースの拡散が政治の動向を変えるとか、ボットの増加が政治的な議論の形態に悪い影響を与えるという具体的な証拠はない。私たちは、ポスト・トゥルース世界に住んではいない。ボブ・ハックフェルトの政治的な議論をめぐる研究によれば、他人の意見が自分のバブルへ浸透してくる原因は、私たちの趣味や関心にあるという。

一方で、トランプ大統領がツイートでフェイクニュース批判を乱発したり、国家機関がフェイクニュースを流して選挙結果を左右しようとしているという陰謀論がささやかれたりするたび、やはり私は不安になる。私たちはネット上のニュースに判断を曇らされているのではないか、さらにそれは意図的に仕組まれているのではないかーー漠然とした不安が消えない。著者自身も、最終章で、数学的観点からフェイクニュースの影響力が思ったほどではないなどと話すと「場がしらける」と言っている。

結局のところ、フェイクニュースに踊らされているのではないかとうたがうのは、政府に騙されているのではないかという猜疑心によるものだ。応用数学による分析はとても面白かったけれど、それでもFacebookTwitterを楽しんでいるときにふと不安が忍び寄り、なかなか消えないのは、事実や真実とは別のところにある、私自身の問題でしかない。

ビジネスパーソンなら一家に一冊〜のびきよ『現場のプロが教える!ネットワーク運用管理の教科書』

May_Roma(めいろま)さんがTwitterでおすすめしていたIT関連本。お恥ずかしい話、会社のIT担当ってそもそも何をしているんや? という疑問を解決するために役立つかと思ってパラパラめくってみたが、これ、感動的に分かりやすい。

タイトルの通り、ネットワーク運用管理のお仕事紹介と基本業務の説明なのだが、ITの専門家ではない私のような読者でも、日々の業務のあれこれ(と電話一本ですっとんできてくれたIT担当のデキるイケメンM氏)を思い起こして、なるほどあのときはああいう対応をしてくれたのかと深く納得。

少し前に、#本当にあったIT怖い話 というハッシュタグが流行った。Togetterにもまとめられているが、いやはや、現代のインフラたるITをここまで理解できていないのは、ブレーカーもアースもないまま電気回線を日常業務に使うようなもの、恐怖以外のなにものでもないことがよくわかる。

サーバ担当者が辞めるため、新卒で引き継ぎを任された→前任者「毎週月曜の朝イチにこのコマンドを入力してた」と教えられた内容が怖すぎる #本当にあったIT怖い話 - Togetter

 

本書ではネットワーク管理運用業務を「オペレーション」「構成管理」「障害監視」「性能管理」「技術調査」「切り分け」「原因調査」「対処」などに分けており、さらに実際に仕事をする観点から、定常業務や非定常業務、Q&A対応業務やトラブル対応業務それぞれに分けて説明しており、なんと仕事で気をつけるべきホウレンソウのコツや、ワークフローまでつけてくれている親切ぶり。

IT専門用語は登場するけれど、素人にも直感的にわかるようにイラスト入りで説明してくれている。ネットワーク構成によってどこで設定するのかが違うことを私は知らなかった。ツイストペアケーブルにはストレートケーブルクロスケーブルがあり、機器を接続できる制限長がせいぜい100mかそこらだとは知らなかった。スイッチ間でループが発生して永遠にまわりつづけたら、スイッチの許容量を越えてフレームを処理しきれなくなり、ほとんど通信できなくなる状態をブロードキャストストームということも知らなかった。新人社員や掃除のおばちゃんが滅茶苦茶に接続したIT機器を前に、担当者が青ざめる顔が目に浮かぶ。

例えば、通信できないためスイッチを見てみると近くに接続されていないケーブルがある、通信できるようになるかもしれないと思ってとりあえずスイッチに挿してみる、これだけでループが発生し、最悪のケースではループを発生させた近辺だけではなく、全ネットワークが停止します。これは少しネットワークが分かっている人は行いませんが、たくさんの人が使うネットワークでは非常に多くあるトラブルです。

日々業務で入出力するデータだけではなく、ネットワーク自体の問題検出のためにさまざまな情報がやりとりされる仕組み、構造、プロトコル。データ送受信の自動最適化。機器間接続設定がちがっていたり、デフォルト設定や暗黙の処理設定がちがっていたりするとネットワークがうまく働かないこと。どれも今言われてみればあのトラブルの原因はこれだったかも!と納得するものばかり。

現場のプロだけあり、「こういうことがよく起こりますよ」という事例が豊富。私自身がネットワーク運用管理者として働く機会はないかもしれないけれど、今度会社でパソコントラブルが起きたときに、IT担当者の説明と対応を理解するために、一読するには最適。

怒らないような人格に達するまでの遠い道程を迷わないために〜アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』

怒りについての読書、第二弾。

これも尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」から。著者はスリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり、日本において仏教伝導を行なってきている。

「怒らないこと」はスゴ本: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

この『怒らないこと』の内容は、たしかに、以前読んだセネカの『怒りについて』とよく似ている。セネカが理性的推論を使っているのに対して、スマナサーラは仏教の教えから、結論にたどりついているためか、セネカは怒りを感じても行動に移さない方法(頭が冷えるまで時間を置くこと)に重点を置いているのに対して、スマナサーラは怒らないような人格を育てることを目的としている。「怒り」を口にする人はものの道理がわかっていない、修行が足りない、というところ。

「怒り」などという言葉は、本来、気軽に口にできる代物ではありません。「私は怒りました」などと言うのは、「私はバカです」と触れ回るようなものですからね。「怒り」の本当の意味を知っていたら、おいそれとは口にできません。

 

スマナサーラが語る「怒り」は「喜びを感じさせなくするもの」といういたってシンプルなもので、だから、自分が今怒っているかどうかわからない場合は、「今、私は楽しい?」「今、私は喜びを感じている?」と自問自答してみればいい、「べつに楽しくはない」「何かつまらない」と感じるならば、そのときは心のどこかに怒りの感情がある、という。

この定義でいえば、セネカに比べて「怒り」の範囲ははとんでもなく広くなる。仏教の目的がひとに喜びと解脱を感じさせるところにあるならば、それを邪魔するものはすべて「怒り」に分類されてしまうらしい。スマナサーラの定義だと広すぎるため、私はセネカの定義の方が好み。

ただ、「怒り」が破壊衝動を伴うのはどちらもいっしょ。また、「怒り」が個人的判断に基づくものであることもいっしょである。

この世の中にある、ものをつくり上げる創造の源泉は愛情であって、創造したものを破壊していくのは怒りの感情です。それは普遍的な、世の中にある二種類のエネルギーの流れです。

「怒るのも、愛情をつくるのも、その個人の勝手である」ということを、まず理解してください。怒るのは誰のせいでもありません。「怒るのは私のせい」なのです。

セネカは「怒りとは、害を加えたか、害を加えようと欲した者を害することへの心の激動」と述べていて、楽しくない、つまらない、などの心の動きを「怒り」と呼んではいない。スマナサーラも『怒らないこと』の中で、他にも様々なタイプの「怒り」があるとことわったうえで、このタイプの「怒り」をメインにとりあげている。

人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。

自分は完全でも完璧でもない。他人にも完全な結果を求めない。そう思うことが秘訣だとスマナサーラは説く。

……それができるなら苦労はしませんて。

「できません」「わかりません」と言うと負けだと思っている人に数多く出会ってきたし、私もそうだった(いまでもそうかもしれない)。人間誰しも自分はデキル人だと思いたくて、本当に、心から、自分は完全でも完璧でもないと納得するには、その傲慢な天狗鼻を思い切りたたき折られる経験をするしかない。自分はデキないと突きつけられるのは辛いものだから、そういう経験をしてなお、自分はデキルと思いたい。……思いたかった、私は。怒ると自分自身も傷つけてしまう、怒る人ほど頭が悪い、そう言われても、自分の万能感を守ろうとするあまりに怒る。

自分は完全でも完璧でもない。だから怒る必要はない。……そう思えたら苦労はしませんて。

私が怒らないのは、悟りよりもむしろ恐怖によるものだ。怒れば大切な人に呆れられてしまう、社会的に罰せられてしまう、いま持っているものをとりあげられてしまう、という恐怖が軛となっている。

逆にいえば、罰される恐怖を感じない相手には怒ってしまう。たとえば子どもはどれほど怒っても親が自分を見捨てないと確信しているときに、遠慮なく親に怒りをぶつけるものだ。児童養育施設に入っているような子どもたちは、試し行動として怒りを使う。自分を世話してくれる大人が、どれほどの怒りを許容してくれるのか、ちょっとずつ試す。

怒らない人格をつくりあげるのは最終目的であり、その点でこの本はとてもよい手引書になってくれる。だがその境地に達するにはとてつもなくかかりそうだ。それまでは、「怒ることはデメリットをもたらす」という考えこそが、私を怒りから遠ざけてくれるだろう。

生物種保護の試み自体が生物種を変える〜M.R.オコナー『絶滅できない動物たち』

 

人間の活動によってもたらされる環境破壊は無視できないものであり、なかでも生物種の絶滅は深刻な問題である。パンダもサイも虎も象も、ほうっておけばこの地球上から永遠に消え去ってしまう。だから人類はこれ以上生物が絶滅しないよう、保護しなければならないーー

私がこのことについて知ったのは、確か小学四年。自由研究かなにかで環境保護について書かれた本を読んだときだったと思う。

書かれていることに、当時はあまり疑問をもたなかった。人間が自分勝手な経済活動で自然を壊し、それについていくばくかでも反省しているのなら、取り返しがつかなくなる前に少しでも自然を救うべきだ。そう考えていた。

いまでも地球温暖化をはじめとした環境問題は深刻だとテレビでは報道している。生物種の絶滅についても、アフリカのなんとかいうサイが数個体しか残っておらず絶滅は確実視されているとか、逆に絶滅種とされたクニマスが再発見されたとか、時折ニュースで見聞きする。その度に、絶滅から生物種を救わなければならないという気持ちをもう一度思い起こす。問題といえば自然保護には金がかかりすぎることくらいだ。そう思っていた。

だが本書『絶滅できない動物たちー自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ』は、環境問題と経済開発との複雑な関係に加えて、まさに、保護され、飼育下におかれたことで、生物がかつての姿でなくなるということを読者に見せつける。そして問いをつきつける。

 

生命体は捕獲後の環境に順応する。これまでの生息環境を失って人工的に保護された生物種は、やがてはかつての姿を失い、新しい人工的環境に応じて変化するだろう。それは守ろうとしていた『自然な姿』が失われることではないか?  『自然』とはそもそもなんだ?  保全生物学者たちはなにを守ろうとしているのだ?

 

守ろうとする行動そのものが、過剰干渉になる。人間の子育てではよくとりあげられるテーマだけれど、まさか自然保護でこの話題が出てくるとは思わなかった。

だが、すでに有名例がある。シルクの原料となる繭をつくる蚕だ。数千年にわたって人間に飼育されてきた蚕は、Wikipediaの言葉を借りれば「野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても自ら探したり逃げ出したりすることがなく、人間による管理なしでは生きることができない」。これほど極端でなくても、私はサファリパークで大口開けて観光客が投げる餌(ニンジン)を待つだけのカバを見た。飼育員におとなしく従い、観光客と写真におさまる虎を見た。絶滅危惧種が生きる環境をまるごと囲って国立自然公園として保護する場合でさえ、生息地域がせまくなることで種は影響を受ける。なんらかの事情で人工的に生息環境を変えざるをえなかった種は、多かれ少なかれ「環境に適応するために進化を促される」ことは避けられない。

著者はこれをみごとな実例で説明している。キハンシヒキガエルタンザニア水力発電ダム建設予定地で発見され、タンザニア政府、世界銀行環境保護団体、民間企業の駆け引きの果てに野生種が絶滅し、アメリカで人工的繁殖が試みられたが、生息環境を保証するためにはダムの水量を減らすしかないうえ、キハンシヒキガエル自体が研究室の環境に適応し始めたこともあって、野生回帰が進んでいない。フロリダパンサーは生息地域がごく限られているせいで近親交配が進みすぎ、テキサスからピューマを連れてきて交配させることが試みられたが、大型肉食獣であるため地元住民の反応は芳しくなく、生まれた「雑種」は保護に値するかどうか論争になった。ホワイトサンズ・パプフィッシュは隔離された生息環境にとり残された結果、わずか数十年で見ためでわかるほど進化をして、人間活動が絶滅だけでなく進化も促していることが明るみに出た……

すべてのエピソードが、自然保護とはなにかという、基本的な問いを投げかけてくる。人間の "保護" 下で、生物種が選択的に進化させられ、ときには野生回復の能力を失うのならーーそれは意味あることなのか? そもそも人類がすべての絶滅危惧種を保護できるはずもなく、保護すべき種を選ばなければならないのならどう選ぶか。経済的に役立つものか。貴重な薬品の原材料になるかもしれないものか。

問いかければ問いかけるほど、人間が地球上にあるものにおよぼす影響が大きすぎ、しかもそのことで自らが地球上の事物に与える影響をコントロールすることで支配できるのだという傲慢な思いにかられていることが透けて見える。生物多様性、自然保護、さんざん耳にしたこれらのキーワードがほんとうはなにを意味しているのか、わからなくなる。

おまけに、本書ではふれられていないが、生物種とはいわゆる動植物だけではない。菌類、微生物、細菌類、ウイルスーー中にはどんな戦争よりも多くの人類を死に至らしめたものもあるーーこれらは生物多様性の対象なのか。ちなみに撲滅宣言が出された天然痘の病原体は冷凍保存されているが、これは将来、この病気が万が一復活したときに研究手段を失わないためである。

読めば読むほど、生物種保護がどこを目指そうとしているのかわからなくなる。パンダもサイも虎も象も、二度と見られなくなるのは直感的に嫌だと思うーーだが、それらを人類の保護下におくことが、結局、それらの生物種としての変化を促してしまうという問題については、どう考えればいいのか、私にはわからなかった。著者も本書の末尾で「じっくり考えるに値する問いだ」と述べるにとどめている。

保全の未来では、自然をさらに管理することが求められるのか、または種を堂々と操作するのか、脱絶滅させることになるのか。わたしは、これは人類が野生の地や事物を地球上から消滅させてしまう前にじっくり考えるに値する問いだと思う。人類が支配する風景と気候工学の未来で、わたしたちが実際に失うであろうものは「謙虚さ」だ。わたしたちはいずれ死ぬ、という大事なことを思いださせてくれる能力だ。

 

もしもあなたが怒りたくないと感じるならば読んでみよう〜セネカ《怒りについて》

 

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

私は自分自身の問題を解決するためにさまざまな本を読んできたけれど、なかでも大きな問題は【親との関係】【自分自身の怒り】であった。【親との関係】については、自分自身に子どもができたこともあり、よろめきながらもなんとか解決策が見えてきたように思うが、【自分自身の怒り】についてはまったくこれから。

世間ではアンガーマネジメントの本が数多出版されているけれど、尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人がすすめるセネカ《怒りについて》を読んでみた。ブログの中の人も怒りっぽいという問題を抱えていたけれど、この本がかなり参考になったらしいから。

脱怒ハック「怒りについて」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

ルキウス・アンナエウス・セネカは紀元前後を生きたローマ帝国の政治家、哲学者、詩人であり、《怒りについて》は、彼が長兄ノウァートゥスに献呈した著作である。怒りについて当時考えられていたさまざまな考え方を検証し、怒りとはなにか、怒りは役に立つのか、怒りをどのように扱うべきかについて述べている。著作中に登場するエピソードは、今日の基準からみるとありえないようなことも山盛りだが(奇形の嬰児を水に沈めて殺すとか、父親の目の前で息子を矢で射殺すとか)、怒りについて述べた哲学的部分は、今日読んでもまったく古めかしく感じない。

怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である。または……自分が不正に害されたとみなす相手を罰することへの欲望である。ある人々は、次のように定義した。すなわち、怒りとは、害を加えたか、害を加えようと欲した者を害することへの心の激動である。

こんな扱いをされるいわれはない。そう思ったときに人は怒る。まさに私にも身に覚えがありすぎる……つい昨日にも感じたことだ。仕事で電話会議をしていたとき、ある同僚に厳しい言葉を投げつけられた。そのとき私は自分が怒っていることをはっきり感じ、喉が震えることを自覚したから、電話会議のマイクをミュートにした。これはかなり理性的な判断だったと思う(と、自分で自分をちょっとほめてみる)。

 

「考える葦」ではないが、セネカは理性、規律、徳こそがもっとも至高なものだと考えており、その理性を上回る衝動をもたらす怒りを悪徳扱いしている。このひとことには唸らされた。

理性は実際に公正な判定を下すことを欲する。怒りは下した判定が公正に見えることを欲する。

だが怒りは、まさにその理性があるがゆえに生まれる。不当な扱いをされたという「判断」を下す必要があるためだ。この意味でものいわぬ動物たちのふるまいは怒りではない、というのがセネカの意見。

われわれの見解では、怒りは決してそれ自身で発するものではない。心が賛同してからである。なぜなら、不正をこうむったという表象を受け取ること、それに対する復讐を熱望すること、さらに二つのこと、自分は害されてはならなかったということと報復が果たされなければならないということとを結びつけるのは、われわれの意志なしに惹起される類いの衝動に属してはいないからである。

セネカは、心が「不正をこうむった」と判断する段階と、そのあと、怒りが理性を打ち倒して抑制が効かなくなった段階とを区別している。ゆえに、怒りに対する最良の対処法は、遅延だという。怒りが理性を打ち倒してしまうまえに、あるいは打ち倒してもなんらかの衝動的で愚かしい過ちをしでかしてしまうまえに、時間をおく。セネカは一日置くことをすすめている。一晩眠ってから、怒りを引き起こしたきっかけについて、冷静になった頭で振り返る。ただこれは唯一の方法ではなく、叱責、承認、羞恥などが、怒りを爆発させようとする者を思いとどまらせることもあると、後の部分で述べている。

怒りの原因は不正をうけたという思い込みであるが、容易にこれを信じてはならない。……いつでも時間を与えるべきである。一日が真理を明らかにしてくれる。

……

自分自身に対抗して、欠席者の弁護を行い、怒りは未決状態にとどめておくべきである。罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない。

昨日怒りを感じたとき、私は自分が不当な扱いをされていると感じた。一週間の努力が台無しにされたと思った。だが、私が(私を怒らせた)同僚の立場にいればどうしただろうとおもうことでおもうことで、怒りをぐっと呑み込んだ。同僚にとってら私が一週間かけた作業は事態を悪化させただけであり、白紙に戻した方がまだよかった。それだけのことだったとしたら、不正ではないかもしれない。私は良かれと思ってしたことだったが、同僚にとってはそうではなかった。それだけだ。時間を置いて、そう思うことができた(それでも胸糞悪くなるのを避けることはできなかったが)。

 

同僚よりも、家族への怒りの方がコントロールはずっと難しい。私が問題解決しようとしたのも、家族との衝突が目に見えて増えてきたからだ。

セネカは家族への怒りについても述べている。

人が何かを不当と判断するのは、こうむるに値しなかったという理由からか、予想していなかったからである。思ってもみなかったことを、われわれはそれに値することとはみなさない。だから、予想と期待に反して起きたことが、いちばんひどく心を揺さぶる。家庭においてごく些細なことに目くじらを立てるのも、友人の場合だと見過ごしですら不正と呼ぶのも、まさにこのためである。……われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である。

あなたの中でどこが弱いか、そこを最もしっかり守るために知っておかねばならない。

 

だが、そこはセネカ、容赦なく急所をついてくる。

われわれが怒っている相手の立場に立ってみよう。そうすれば、われわれを怒りっぽくしているのが自分に対する不公平な評価だと分かる。われわれがこうむりたくないことは、できたら自分がやりたいと思っていることなのだ。……だが、遅延こそ、怒りの最良の治療である。

こうむりたくないこと、怒りを感じることは、「できたら自分がやりたいと思っていること」……この言葉を読んだときには、目にしたものが信じられなかった。きっと理解しまちがえたのだろう。こんな扱いをされるいわれはないと怒ったことが、実は、自分がやりたいことだとは。

まあもちろん、遺産の取り分が少ないといって怒る人は、自分が遺産の大部分をもらえるはずだと言って怒るものだ。だが、努力の成果を台無しにされたと怒っている私は、誰かの努力の成果を台無しにしてやりたいわけではない。ただ、一週間の努力の成果が無駄ではなかったとみとめてほしかっただけなのだ。ここの部分はきっと理解違いだろう。

いずれにせよ、怒りに呑まれることのないよう克服することはできる、というのがセネカの結論だ。怒りを感じたら行動に移す前に時間をおく。怒りを爆発させたときにもたらされる結果に恐怖するゆえに沈黙する(たとえば他人を殺したいほどの怒りを感じても、刑事罰が怖いため、実行する者は少数)、仕事や暮らしに余裕がないのであればすこしやることを減らしてみる。どれもいますぐ実行できることばかりで、2000年前の言葉とは思えないほど色褪せていない。この本を読み、自分自身の行動を振り返り、怒りの克服を目指す第一歩になれたと思う。

【おすすめ】最後まで読むには勇気がいる〜トルストイ《イワン・イリイチの死》

尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」でみつけて手に取った本。

人により猛毒「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

前半部分は「うわあああ…」と頭を抱えながら読んだが、後半部分になると目が離せなくなってしまった。まるで自分が瀕死の病人になったように、あるいは親戚友人でいままさに病気になったり老衰を隠しきれなくなっている人がいればその人の心のうちを暴かれたように、慄きながら最後まで読まずにはいられなかった。

 

物語は判事を務める主人公イワン・イリイチの訃報が新聞に載り、裁判所の同僚たちがそれを読む場面から始まる(舞台となる19世紀後半にはこれが普通だったのかもしれない)。その場面で、初っ端から痛烈な皮肉をトルストイはたたきこんできている。

こうして各人は、同僚の死にともなって生じるであろう異動や栄転に関する憶測をたくましくしたのだが、それとは別に、身近な知人の死という事実そのものが、それを知ったすべての人の心に、例の喜びの感情をもたらしたのだった。死んだのが他の者であって自分ではなかったという喜びを。

一見丁寧な言葉でとんでもない毒をさらりと書いているのは、小説全体にみられる。イワン・イリイチの同僚は故人の家を訪ねながら、自分のふるまいが作法にかなっているかどうか、今夜のカードゲームの集まりに参加できるかどうかばかり考えている。未亡人となったプラスコーヴィヤ夫人は、国家からどれくらいの年金や手当をもらえるかということをすでにしっかり調べあげ、それ以上もらえる見込みがあるかを弔問客に相談する。そもそもイワン・イリイチの遺体が横たわるその家自体が、上流階級の猿真似をして中産階級がセレブ風にそれっぽくまとめたものにすぎないことがほのめかされる。まったくここまでしなくてもいいのにと思いたくなるほど、現実的で、死者の追悼よりもこれからの生活に重きがおかれ、嘆きも慰みもお作法の範囲を出ないことがこれでもかと示される。

その扱いをされている主人公、イワン・イリイチの生涯が、おもに彼の視点から語られ始めると、これまた頭を抱えたくなる。

イワン・イリイチは役人勤めの父親の次男として生まれ、法律学校を経て法務省入りした。堅実に仕事をこなし、気楽で、快適で、上品な生活を送り、やがて妻を迎える。だが妻が妊娠すると、これまでのような上品な暮らしが「妻の気まぐれによって打ち壊される」ようになったから、イワン・イリイチは仕事に没頭することでこの不快な状態から逃げようとした(ここ、女性読者ならおそらく怒りにかられる部分で、このあとのイワン・イリイチとプラスコーヴィヤ夫人のよそよそしさもさもありなん)。

子どもがたくさん産まれ、そのうち何人かは死に、イワン・イリイチは自分が出世できないことに腹を立ててペテルブルク行きを決め、そこで昇進と昇給を得て家をーー彼がそこで死ぬことになる家をーー手に入れる。ここまでは平凡な役人生活にすぎなかった。

しかし、イワン・イリイチがわき腹に痛みをおぼえはじめてから、事態は一変する。医者はイワン・イリイチを診察して薬を処方するけれど、イワン・イリイチは医者を信用できなかったり、自分自身の苦しみに気をとられたり、気を紛らわそうとカードゲームに打ちこんだりして、きちんと薬を飲まない。人間は死すべきものかもしれないけれど自分が死ぬなんてありえない、こんなことは間違っている、と独白する。まわりが彼の苦しみを理解しようとしないばかりか、まるでなにも変わりがないかのように日々を送り、そのうち良くなるだろうと彼に嘘をついていると怒り苦悶し、家族にやつあたりする。

死の恐怖が近づくにつれて、イワン・イリイチはなぜ自分がこんなめにあわなければならないのか、自問自答しはじめる。苦悶の中でさまざまな考えが現れては消え、死ぬ数日前、彼はひとつの考えにたどり着く。

「間違っている。おまえがこれまで生きがいとし、今でもそれによって生きているものーーそれは全部、おまえの目から生と死を隠す嘘であり、まやかしだ」

イワン・イリイチの人生は生と死を隠すためのまやかしだった。これほど救いのない悟りがあるだろうか。そこから3日間彼は苦しみもがきつづけ、わずかな寛解ののちに死んだ。

 

この中編小説は数時間かそこらで読めるけれど、内容を消化するのに数日間はかかりそう。

主人公であるイワン・イリイチは自分の人生を正しく生きてきたと自負しており(彼が都合よく思いこんでいるだけであり、実際にはつねに正しいとは限らなかったことは、彼の妻への扱い方を見れば一目瞭然なのだが)、病気になればまるでまわりが悪いといわんばかりの気難しさのとりことなる。

これはわたしが今後目にすることになるものではないか、という考えが拭えない。

わたしには祖父母がいる。うち数人はすでに鬼籍に入っているが、彼らは死ぬまえに痩せ衰え、気難しくなり、死ぬことへの恐怖を口にするようになった。物語の中のイワン・イリイチがたどる心理的過程となんと似ていることか。

イワン・イリイチは、彼の生き方が間違っていたのかもしれないという可能性を認めることができずにいた。死が近づいているときに人生を振り返り、その無意味さを思い知らされるというのは、あまりにも残酷すぎる。

 

だが、わたしがそうならない保証はどこにある?

 

イワン・イリイチは平凡な一判事にすぎず、妻も、子どもも、同僚も、うわべだけのつきあいを見れば、ごく普通の人たちばかりだ。気難しい病人が死んだことを彼らはことさら悲しんではいない。裁判所の同僚などは、これでポスト移動があるだろうと皮算用を始める。

誰も、悪気なく。

恐ろしいことに、誰も悪気はないのだ。イワン・イリイチの死、告別儀式への参加を生活の中のイレギュラーな出来事としてこなし、その後は日常生活にもどっていく。いつまでも悲しんでいられないとばかりに。確かにそうだ。いつまでも悲しんでいられない。故人の家族や同僚がそう考えることをどうして責められよう。……だがそこに、赤裸々な人生の無意味さがブレンドされれば話は別だ。

この小説、人生の折り返し地点をすぎたあたりの人たちにぐさぐさ刺さる。そろそろ老衰やその先にあるものを意識し始めるころ、この本を読んでみると、どうすればイワン・イリイチのような死を迎えずにすむのか、必死で考えることうけあいだ。

【おすすめ】あなたが思うほど現実は悪くない〜ハンス・ロスリング《ファクトフルネス》

 

『暴力と不平等の人類史』をしばらく前に読んだが、この本のあとで『ファクトフルネス』を読むとホッとする。

『暴力と不平等の人類史』が、現代社会では格差が広がる一方だと書いているのに対して、『ファクトフルネス』は、すくなくとも過去に比べて平均所得は増加し、貧困は改善され、乳児死亡率は低下しており、世界は良い方向に進んでいると示しているからだ。

たとえば『ファクトフルネス』の冒頭に、ここ20年間で、極貧の中で暮らす人々の数が半減したことが書かれている。一方『暴力と不平等の人類史』は最初に、2015年時点で、地球上で最も裕福な62人の総資産は、全人類のうち貧しいほうから半分の人々(35億人)の個人純資産の合計と同額だと書かれている。どちらも一面真実ではあるけれど、『ファクトフルネス』は明るい側面を見せてくれるから、気分的には読んでいて楽だ。

著者もそれを意識していることが、本の最終章に書かれていた。世界はわたしたちが思うほど、問題がはびこる地獄のような場所ではない。この地球上のどこででも、わたしたちとそれほど変わらない暮らしをしている人々がいるし、わたしたちより良い暮らし、悪い暮らしをしている人々がいる。

 

『ファクトフルネス』は、世界の現状についてたいていの人は誤認しており、人間が陥りがちな思い込みがそれをもたらしていると解説する。

主観的思い込みなしで客観的データを使えば、まったく異なる「世界の正しい姿」が見えてくる。その「正しい姿」は、わたしたちの多くが思うほど悲惨ではない。数十年前に比べて乳児死亡率は低くなり、平均所得は上昇し、教育を受けられる子どもの数は増加している。世界の現状は確実に改善している。

クイズを出してみよう。ここ20年で、極貧の中に暮らす人々の数はどのように変化しただろう? 倍増、ほぼ同じ、それとも半減? 正解は半減だ。

著者はこのようなクイズを世界各国から来た学生たちに出してみたが、正答率は低かったーーそれも、実際よりも状況が悪いと推測した学生が多かったという。学生だけではない。国連機関で活躍していたり、多国籍企業の重役を務めていたりした人々であっても、同じように間違うことが多かった。

なぜこうなるのか?

著者は「本能からくる思い込みのせい」と説明している。悪いことの方が印象に残るせいで「悪いことはよく起こる」と錯覚したり、ものごとを白か黒かに分けたがったりする心理活動だ。また、平均値を使うことによって実際の状況が見えにくくなるなど、統計解析におけるデータ解釈にも、著者は足を踏み入れている。

こういった本能的な思い込み、錯覚、解釈違いによって、間違った印象を抱く。たとえばーー

 

【誤認】世界は富める者と貧しき者に分かれており、貧しき者の方が圧倒的に多い。

【事実】この本の読者が想像する「現代社会に暮らす富める者」はおおよそ10億人程度、「アフリカで裸足で暮らす貧しき者」もおおよそ10億人程度。残りの50億人はいわゆる中間層であり、この本の読者が想像する「貧しい生活」よりはるかにましな暮らしをしている。

思い込みもデータ解釈も、とくに新しいものではないけれど、これを著者の専門である公衆衛生学分野で掛け合わせて、「公衆衛生学×統計学×心理学:世界はあなたが思いこんでいるよりも良い場所であると示そう」というキャッチコピーがふさわしい内容にまとめたのが本書。

事実確認を難しくしているのは、個人の思い込みだけではない。マスコミが、日々、視聴者の思い込みを強化するような報道を行っている。たとえば「貧しい生活」の例としてアフリカで裸足で暮らす子だくさん家族をとりあげるなど。意図的にそうしているというより、報道関係者が同じような思い込みをしているせいでもあり、「センセーショナルな」(しかし実際には少数派の)できごとをとりあげた方が、視聴率が稼げるからでもある。(ちなみにこう思うこと自体、本書では【犯人探し本能】として戒められている)

 

客観的証拠があり、合理的であると考えられることを信じるという考え方が本書にでてくるが、これはリスク管理で大切な考え方だ。客観的証拠で判断すべきところを、たいていは自分の思い込みにひきずられて誤った認識をもっており、『ファクトフルネス』のような本を読んでハッとする。

なぜ数字などの客観的証拠にこだわるのか?

必要なところに資源を振り分けるためだ。がんは一見悲観的になるべき病気だ。だが、アフリカの貧しい国では、下痢や肺炎で命を落とす可能性のほうがはるかに高いというデータがあるのなら、抗がん剤よりも下痢治療薬のほうが役立つ。激しい下痢を起こして病院に来る子どもたちを治療するためにすべての資源を振り分けるのは一見合理的だ。だが、すべての子どもが病院に来られるわけではなく、はるかに多くの子どもが、病院にたどりつくことさえできずに下痢で命を落としている証拠があるのならーー子どもたちを救うために、別のことに資源を振り分けることを考えるべきかもしれない。たとえば母親たちに料理する前に手洗いをすべきだと教えること、きれいな飲用水を手に入れられるよう井戸を掘ることなど。

Paying too much attention to the individual visible victim rather than to the numbers can lead us to spend all our resources on a fraction of the problem, and therefore save many fewer lives. This principle applies anywhere we are prioritizing scarce resources.

ーー顔が見える患者や被害者に集中しすぎて、数字を無視するようではいけない。問題全体から見れば氷山の一角に過ぎない部分に、時間や労力を使い切ってしまうと、助かるはずの命も助からないだろう。なにもかもが限られた状態では、特にそうだ。

すべてのひとにこの本を読んでほしい。世界はあいかわらず問題まみれで、けれどそれほど悪くないと思えるようになるだろう。遅れていると思い込んでいた東南アジア、アフリカの国々が、魅力的なビジネス対象に思えるだろう。なによりも、いわゆる「発展途上国」の人々を、かわいそうなものを見るような目で見るのをやめようかと検討する気になるだろう。彼らはあなたが思うほど、あなたより悪い暮らしをしているわけではない。あなたの今日は、彼らにとってはたかだか10年後の未来かもしれないのだ。