コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】読まずに死ねない〜ドストエフスキー《カラマーゾフの兄弟》

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は③…と言いたいところだが、①②についても期待している。東大教師が新入生に薦める100冊では堂々一位だし、小説のラスボスなどと言われるし、尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人もすすめているしで、読まなければ人生損した気分にさせられるから。

シミルボン

だから、わたしはこの本を読む。

 

うん、やばいねこの本。いろんな意味で。

20代前半に読みたかった。当時のわたしはこれまで無条件に善だと信じてきたものーー祖国、親、親族ーーが、ほんとうはそうではないのではないかという考えに数年間苦しめられていたけれど、この本をその当時読んでいたら、もうすこし早く、わたしなりの解決策にたどりついたかもしれない。

オンライン読書感想はこれがすばらしかった。

950夜『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー|松岡正剛の千夜千冊

 

最初は言葉の荒波に圧倒された。登場人物、登場人物、誰もかれもとにかくよくしゃべる。ひとつのセリフが数ページにわたるなんてざら。しかも全員とことん自分勝手に語りまくったあげく、自己陶酔して、酔っぱらいのからみ酒のように、語り口にも熱が入るからますます始末に負えない。

話は「カラマーゾフの兄弟」たちの父親である色ボケじじいフョードルが、散々女遊びをしつつ、二人の妻に三人の息子を産ませたところから始まる。情熱家で向こうみずの長男ドミートリーが、良家の令嬢カテリーナと婚約中でありながら、小悪魔的魅力をもつグルーシェニカにのぼせあがって婚約破棄を考えていること。ドミートリーの父親であるフョードルまでもが(!)グルーシェニカにお熱で、恋のライバルである息子を監獄にぶちこんでやると息巻いていること。ドミートリーの母親の遺産をめぐって金銭問題がもち上がっていること。怒涛の会話でそれぞれの事情が語られる。それを次男のイワンが冷ややかに傍観する(ふりをする)。修道院で修行中の身である三男アリョーシャが父と兄と兄の婚約者(これがまた気位が高くて思いこみが激しいというめんどくさいタイプ)の間を右往左往する。

これだけ読めば喜劇だが、その間に交差されるように、キリスト教に対するそれぞれの考え方が、日常的な話題として、ときには冗談めかして、ときには真剣にさまざまな人物の口から語られ、しだいに読者は宗教論争にひきこまれる。気づかぬうちにさらに話は深まり、キリスト教をとっかかりにしているものの、【人間の信仰】というより普遍的なものにうつっていく。この辺りは凄まじいの一言。

キリスト教についてもっとも懐疑的視点をもっているのは二人。次男のイワンと、フョードルの召使であり、フョードルが信仰心厚い女性を気まぐれに犯したためにできた子であるスメルジャコフ。スメルジャコフは悲惨な生い立ちから神と信仰そのものに冷笑的であり、イワンは高等教育を受けている身らしく、神の存在の矛盾点を理路整然と突く。
イワンにはどうしても納得できないことがあった。なぜ純真無垢な子どもが虐待され、苦しめられ、殺されてゆくこの現実が存在するのか。それが神のおぼしめしであるのならば、理屈を越えたところで感情が納得できない、どうしても。子どもの流す涙は、たとえ神のもたらす救済やら調和やら許しやらの代償であっても重すぎるーーこれが、イワンがアリョーシャに語ったテーゼである。

もし子どもたちまでがこの地上で恐ろしく苦しんでいるなら、それはむろん自分の父親のせいだし、リンゴを食べた自分の父親の代わりに罰せられているんだ。といってもこんなことは別次元の考え方なんで、この地上の人間の心なんかにはとうてい理解できない。罪のない人間が、他人の代わりに苦しみを受ける理屈がどこにある。しかも、あんなふうにまだ罪のない子どもがだ!

イワンとアリョーシャは料理屋でこれらのことを話し、イワンが創作した物語詩〈大審問官〉に話が向かっていく。これこそイワンがーーそしてドストエフスキーがーー生涯かけて提起した、キリスト教への問いかけだ。

是非全文読んでほしい。凄まじいから。

聖書では、キリストが荒野を彷徨うとき、悪魔に誘惑されたという。キリストがいう「自由なる信仰」ではなく、パン、奇跡、権威をもって人々を従えよと。しかしキリストはこれをしりぞけ、あくまで自由に信仰してほしいとこだわる。

だが大審問官は言う。おまえ(=キリスト)がそれをしりぞけて自由を与えたからこそ人間は苦しんだ、おまえがパン、奇跡、権威という信仰理由を人間に与えなかったために、かよわき人間たちは【自由意志で】おまえの信仰を守らねばならないこと、それ自体に苦しみつづけていると。

(というより、人間が難しく考えすぎるのかもしれない。人間以外の生物は子孫を残すかどうかで悩むなんて贅沢は許されないし、ごく一部の例外を除いて、健康体で生殖可能なのに自死するなんてこともしない。大審問官の問いは、結局のところ人間もまた喰わなければ死ぬ生命体である以上、その人間に「天上のパン」とやらを約束するからいま喰うなということはできない、また、人間が単独ではなく集団で食糧を得る生物である以上、だれを群れのリーダーとするかこそが最重要課題であり、しかも自分自身の判断能力だけでは不安だから『誰もが』認めるリーダーを立てることが肝要である、と言っているにすぎないのかもしれない。今のわたしにはまだ理解出来ないことが多すぎる。)

おまえはほんとうに考えなかったのか。選択の自由という恐ろしい重荷に圧しひしがれた人間が、ついにはおまえの姿もしりぞけ、おまえの真実にも異議を唱えるようになるということを。彼らはしまいには、真実はおまえのなかにはない、とまで叫ぶようになるのだ。なぜなら、あれほど多くの心配や解きがたい課題を彼らに残したおまえ以上に、彼らを混乱と苦しみのなかに放置するものなど、とうてい考えもつかないからだ。

イワンが宗教(ロシア正教)への疑問を提起している一方で、アリョーシャが心酔する修道苦行司祭ゾシマ長老も、宗教者として俗世に対する疑問を提起している。俗世は宗教をしりぞけて科学や自由をありがたがっているけれど、【自由】に果たしてなにを見ているのかと。これもまたぐさりと心臓に突き刺さる。まさにこの通りのことが世界中で起こっている。

彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか! なぜなら俗世が説いているのは、こういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい、君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。
では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか? 富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。

宗教は人間を堕落から救うための良心的抑止力であるーーこのことはベストセラーになったダン・ブラウンの《天使と悪魔》でもとりあげられていた。キリスト教だけではない、イスラム教も、ユダヤ教も、仏教も儒教神道も、伝統も習慣も……あらゆる宗教は「ほうっておいたらなにをしでかすかわからない」人間にかけられた行動規範の鎖であり、考え方の奥深くに刻みこまれている。

これを引き抜くのは並大抵ではない。自分の信じるものを見つめなおす作業は、自分のよりどころがぐらつき、なにを信じればよいのかわからなくなり、支えなしで深淵に立つような底知れない不安感をもたらす。物語の後半で、〈大審問官〉であれほどみごとにキリスト教への問いかけをしてみせたイワンが、ほとんど狂気じみていたように。

人間が、自分の信じてよりどころとしてきたものを、どこまで(精神的苦痛に耐えながら)解剖できるかーーイワンの、そして作者ドストエフスキーひとつの到達点だと思う。善なんて信じていないのに、なぜか善をなすために自分自身を破滅させようとしていて、その理由を自分でもわからずにいる。魂の奥深くに刻みこまれた行動規範と、精神とのせめぎあい。この場面こそが本書最大のハイライトだとわたしは思う。

『きみは、偉大な善をなしとげるために行こうとしてるわけだが、そのじつ、善なんて信じちゃいませんよ。それできみはいらだち、苦しんでいるわけで、だからこそきみはそれほど復讐心にかられてるんです』

ドストエフスキーはこの小説の続編を構想していたというが、第一部完成後すぐに死去した。わたしは想像する。続編はきっと、本作でこれだけ凄まじいものを見聞きしてきたアレクセイ・カラマーゾフが、共産主義がだんだん勢いを増すロシアでみずから行動し、思索し、ついには神と、神の創造たもうた世界について、ある結論にたどりつく物語だろう。

読まずに死ねない。是非全文読んでほしい。

財政破綻が起きたとき、わたしたちの暮らしはどうなるか〜小林慶一郎『財政破綻後』

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

このうち、この本は①②の中間にあたる。人口減少時代に人口増加を前提とした社会制度をひきずり、その結果として財政破綻を起こした日本、という、ディストピアのような環境を想定(これが①)し、そこから逆に、最小ダメージにおさえるために現社会制度をどう変えるべきか提言する(これが②)書物だからだ。

財政破綻後の日本がどういう環境になるかを知り(おそらく許容できないほどの生活の質低下が起こるだろう、とくに医療制度・介護制度)、日本が旧社会制度をひきずったあげく財政破綻を起こすのであれば、その兆候となりそうなできごとを読みとり(たとえば、本書冒頭で兆候としてあげられている「国内外の投資家が日本国債を買いたがらない」については、すでに数年前、三菱東京UFJ銀行国債入札資格を返上したことがニュースになった)、自分自身と家族を守るためにどうすればよいかを考えたい。また、財政破綻のリスクを下げるために日本政府がなんらかの手を打つのならば、その意味を理解したい。

だから、わたしはこの本を読む。

三菱東京UFJが国債入札資格を返上 財務省陰謀論の声も――財務省 | | 経済界ウェブ

 

財政破綻後 危機のシナリオ分析

財政破綻後 危機のシナリオ分析

  • 発売日: 2018/04/19
  • メディア: 単行本
 

本書はまさに『ファスト&スロー』『巨大システム失敗の本質』でとりあげられていた【死亡前死因分析】の手法。この先日本が財政破綻を起こしたとして、その原因となりそうなものはなにか、それを踏まえていまどんな手を打つことができるか、という本だ。

長期的に見れば、この先日本の人口は減少しつづけるだろう。人口予測は最も楽観的なシナリオでも人口減少のトレンドを示すし、日頃見聞きしているニュースでも「少子化」「子育てしにくい」などの言葉が増えている。一部の都市圏にファミリー層が押しよせて保育園激戦地域となり、地方では高齢化がどんどん進む、というイメージがすっかり定着した。

ゆえに本書では「縮減する人口に応じた社会のあり方を探求していくべき、現社会制度は持続不可能であり、財政破綻の可能性は無視すべきではない」と提言している。人口減少は2010年頃から始まっているが、われわれの社会制度は未だに人口増加と右肩上がりの経済成長を前提にしている(2010年よりずっと前に制度設計されたのだからあたり前である)。前提が全然違うのだからこれまでの社会制度がうまくいかなくなるのは目に見えている、大胆な方針転換と制度改正がいずれ必要になる、というわけだ。

 

財政破綻の定義はこう。

本書における財政破綻とは、さしあたり「緩やかな(2%程度以下の)インフレ率のもとで、正常な(4%程度以下の)名目金利を維持できない状態」を指すとしておきたい。つまり、「財政破綻とはインフレ率または名目金利が高騰する状態」を指すのである。

インフレ率も名目金利も、関連づけられるのは日本国債金利である。ここで日本国債金利は低空飛行がつづいているという、一見、好状況が紹介される……が。

  • 経済理論によれば、国家財政が持続性を欠くとき、本来、日本国債はリスク高として金利上昇させなければならないはず。実際、海外格付会社は日本国債に厳しいランクをつけている。
  • その日本国債を買い支えているのは、貯蓄超過により潤沢にある国内金融資産である。
  • しかし高齢化がすすめば家庭貯蓄は取り崩されるし、民間企業もいずれは設備投資に資金を回すことになるだろう。そうなれば今のように日本国債を買い支えることはできなくなり、日本国債金利上昇を余儀なくされるかもしれない。そうすれば財政破綻に近づく。

このような論法で、本書は警鐘を鳴らしている。

こうなれば、時事問題として、就任したばかりの菅首相が消費税増税に言及したり、竹中平蔵氏がベーシックインカムに言及したりすることが、どういう意味をもつのかがわかってくる。財政破綻を避けるための苦肉の策なのだ。選挙有権者の大部分を高齢者が占める現在、彼らの怒りを買わないためにも、年金・医療などの敏感な分野にはまだ手をつけられない(わたしとしては、財政破綻後でなければこれらの制度の抜本的改革は無理だろうと思う)。だからまず税収を増やし、福祉分野の支出を減らそうとしているのだろう。

では財政破綻が起こればどうなるか。企業や家計に置き換えてみればわかるけれど、大幅な歳出削減と構造改革によって金融市場の信頼を取り戻さなければならない。歳出削減では年金・医療・介護・福祉がターゲットとなるだろう。年金は個々人の貯蓄で当面はまかなうとしても、生活の質を直撃するのは医療・介護。本書では医療制度で起こることについて、かなり悲観的なシナリオを示している。

診療報酬が大幅に引き下げられれば、ほぼすべての病院が赤字になる。その中で国公立病院の場合、赤字になっても誰かが財務上の責任をとる仕組みにはなっていないので、赤字を垂れ流しながらでもしばらくの期間、存続すると予想される。しかし、民間病院は大打撃を受ける。民間病院経営者は資金調達するときに銀行から連帯保証を強いられている。病院が赤字経営になり借入金返済が困難になったとみなせば、銀行は民間病院経営者に連帯保証の責任履行を求めてくること必至である。保有国債の価格暴落で自己資本を毀損した銀行には構造赤字に陥った病院を支援する余裕などないからである。

 

では財政破綻後にやるべき抜本的な制度改革には、どういうものがあるか。本書では以下のとおりとしている。

歳出の効率化に向けた改革を取り上げる。具体的にはEBPM(EvidenceBasedPolicyMaking、証拠に基づく政策形成)、PFIなど民間資金・経営ノウハウの導入、公的不動産の収益化である。合わせて公共サービスのコストを「見える化」して国民のコスト意識を喚起する。これにより財政赤字を作らない体質(構造)への転換を図る。

この見出しを見たとき、わたしの中に違和感が芽生えた。

民間資金・経営ノウハウの導入は、国家予算に馴染むのか?

日本政府にかぎらず、かなりの数の政府がしていることは、収益が目的ではない、という一点で、じつは民間企業経営とは真逆なのではないかと思う。民間企業経営であればもうからないことはやらない。ひるがえって政府は、もうからないことをやらねばならないこともある。収益を生むかどうかは、判断基準のひとつにすぎない。

本書のテーマは、財源もないのに身の丈以上のことをやろうとすれば遠からず財政破綻を起こすということなのだが、それでも民間企業経営のノウハウを導入することには、ひどく違和感がある。

役立つか立たないかにこだわりすぎたのが、民主党政権下での仕分けではなかったか? そのくせどう役立つのかきちんと評価出来ていなかったから、やみくもに科学技術分野の助成を削減しようとしたのではなかったか?

違和感は絶えない。

違和感の根源はきっと、「コスト以外の取捨選択の判断基準がみえていないのに、やみくもに民間資金・経営ノウハウを導入してもうまくいかないのでは」という気がしているためだ。

コスト以外の判断基準を決めるためには、日本としてここだけは優先させたいという「あるべき姿」がはっきりしている必要があるが、ここで迷走しているから、結局行くべき方向がわからないのではないか。そんな気がする。

たとえば中国は「アメリカにIT分野で追いつけ追いこせ」とばかりに、多少経済状況が苦しくなっても、IT分野への投資を惜しまない。アメリカは(トランプ大統領のもとで多少変わってきたが)軍事設備のためには出費を惜しまない。

だが日本にはなにがあるだろう?「多少苦しくても今後のためにここにだけはお金をかける」というものは?(ある意味年金がそうだが「今後のため」ではないから置いておく)

ここでコンセンサスがとれていないと、結局、どんなに構造改革を叫んだところで、元の木阿弥なのではないか。本書のテーマを越えているとわかりつつ、違和感を拭い去ることはできなかった。

【おすすめ】ひとはいつでも合理的、ではない〜ダニエル・カーネマン《ファスト&スロー》

そろそろ人生も中盤戦にさしかかってきたところで、本を読むということを考えなおしてみた。読みたい本がたくさんある。優先順位をつけなければ、読むべき本を後回しにしてしまうかもしれない。それでは余りにもったいない。

だから、

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

を優先して読むことにする。すでに知っていることを繰り返すだけの本を読んだり、退屈しのぎにありふれた本を読んだりすることに時間をかけたくない。読みたい本を読むのなら、読書が人生の一部となっているのなら、退屈している時間などないのだから。

本書『ファスト&スロー』は文句なしの①。

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

「なぜあの人は他人の言うことを聞かないのか」

「なぜ直感的に思いついたことはまちがっていることが多々あるのかーーとくに統計情報がからむときに」

本書を読むことで、これらのよくある疑問に関するすばらしい情報が与えられる。自分が考えていることは思いこみにすぎないのではないか、思考回路がエラーを起こしていないか、自己チェックする習慣がつく。

ちょうどオンライン記事で素晴らしい言葉を読んだので、一緒に置いておく。

どこまでも基本から考えること。自分の思い込みからくる無自覚の前提を置かないこと。これが重要です。

大事なのは知識じゃないんです。それは聞けばいい。調べればいい。大事なのは考え方です。サイエンスを扱うならば、因果関係のショートカットはいけません。

 

本書『ファスト&スロー』は全人類必読書。とくに自分の意見は絶対正しいと思いこんで他人のいうことを全然聞かない一部の知人、ほんと読んでくれ。

端的にいえば「人間の思考は系統的エラーが起こるものであり、自分が思うほどいつでも合理的行動をとれているわけではない」ということをさまざまな心理学的実験から説明する本。著者は行動経済学ノーベル賞を受賞しているダニエル・カーネマン行動経済学はまさに「人間は合理的行動を取るとはかぎらない」ことを出発点とする学問だ。

エラーがおこるのは、生育環境、教育、本人の思想などとは関係ない。エラーが起こるのは人間の認知装置(大脳)そのものが、エラーが起こりやすい仕組みになっているから。著者はこれを「エラーは感情の影響ではなく認知装置の設計に起因する」と表現する。

 

本書では思考システムが2種類共存しているとして、「システム1」「システム2」という表現で、エラーが起こる仕組みを説明している。

「システム1」はいわば直観的・本能的反応を返す。「システム2」は論理的思考を要する仕事をする。ふだん人間は24時間「システム1」を起動しているが、「システム1」で手に負えない課題(たとえば数学の宿題)がでてきたら「システム2」が呼び起こされる。「システム2」が使用する判断材料は「システム1」が供給する。ただし「システム2」は怠けものでエネルギー消費を抑えようとするから、「システム1」の解釈を鵜呑みにして受け入れるだけのこともあるし、たとえ思考が必要なときでもできるだけサボろうとする。このため「システム2」がストップをかけることなく、「システム1」の判断がそのまま言動にあらわれることが多々ある。

ならば「システム1」はいつも正しい判断をするかというと、これが曲者。たいていの場合「システム1」は良い仕事をするが、苦手分野、間違えやすい分野ではとたんにエラーを起こす。わけても統計的事実は苦手分野。ちなみに「システム1」が起こしがちなエラーと統計的事実とを比較検討したのが、ベストセラー『ファクトフルネス』である。

 

『ファクトフルネス』は社会学の統計的事実と人間の思い込みとを比較したものだが、一般的に、どういう状況でエラーが起きやすいか、それを探るのは著者の仕事だ。

「システム1」についての記述を引用する。

システム1の主な機能は、あなた自身にとっての世界を表すモデルを自動更新することにある。このモデルは、一言で言えば「あなたの世界では何が正常か」を表す。周囲の状況、さまざまな事象、行動、その結果(同時または短時間内にほぼ規則性をもって起きる結果)を連想によって関連づける作業を通じて、モデルは構築される。関連づけが強化されるにつれ、あなたの生活に起きるさまざまな事象の構造が連想観念パターンで代表されるようになる。そしてあなたが現在のことをどう解釈するか、将来のことをどう予想するかは、このパターンによって決まる。

意識的に「システム2」を働かせない限り、われわれのものの見方のパターンは「システム1」が支配する。ようするに私たちは「システム1」を通して世界を見ているのだ。

私が好きな荒川弘さんの漫画エッセイ『百姓貴族』で、肉牛農家が「その辺で動いている茶色いもの=牛」と認識しているために、クマに気づくのが遅れたという笑い話が出てくるが、「システム1」の働きはまさにこれ。

百姓貴族(1) (ウィングス・コミックス)

百姓貴族(1) (ウィングス・コミックス)

 

肉牛農家がクマを牛と間違えたエピソードは、「システム1」のもうひとつの重要な特徴にもかかわる。限られた手元情報をもとに結論にとびつき、手元情報の質と量はほとんど気にしないのだ。ふつうに考えれば「その辺で動いている茶色いもの」にはあらゆる動物があてはまりそうなものだが、システム1は「牛」と決めつけた。もちろんこれまでの経験上、牛である可能性が一番高いのは確かだが、クマである可能性もたまにはある。「システム1」が、自分の見たもの、自分の経験したことがすべてだと勘違いしていたことが、そこで明らかになる。

「自分の見たものがすべてだ」となれば、つじつまは合わせやすく、認知も容易になる。そうなれば、私たちはそのストーリーを真実と受け止めやすい。速い思考ができるのも、複雑な世界の中で部分的な情報に意味づけできるのも、このためである。たいていは、私たちがこしらえる整合的なストーリーは現実にかなり近く、これに頼ってもまずまず妥当な行動をとることができる。だがその一方で、判断と選択に影響をおよぼすバイアスはきわめて多種多様であり、「見たものがすべて」という習性がその要因となっていることは、言っておかなければならない。

 

非常に大切だが、非常にわかりづらい概念として、平均回帰も本書で扱われている。

あることがとてつもなくうまくいけば、つぎに同じことをしたときにはそれほどうまくいかない。反対に、ひどい失敗をすれば、次は多少マシにこなせる。これは、何回も同じことをやれば、個々ではうまくいったりしくじったりするかもしれないけれど、全体的には出来の良し悪しはある程度平均的になる、という事実に基づくがーーこれがとんでもなく直感的に理解しがたい。もう因果関係を探したくてうずうずする。本書でもとりあげられている、教官と関連性の話はまさにこれ。

教官が訓練生を誉めるのは、当然ながら、訓練生が平均をかなり上回る腕前を見せたときだけである。だが訓練生は、たぶんそのときたまたまうまく操縦できただけだから、教官に誉められようがどうしようが、次にはそうはうまくいかない可能性が高い。同様に、教官が訓練生をどなりつけるのは、平均を大幅に下回るほど不出来だったときだけである。したがって教官が何もしなくても、次は多かれ少なかれましになる可能性が高い。つまりベテラン教官は、ランダム事象につきものの変動に因果関係を当てはめたわけである。

本書で繰り返されているのは、人間の思考はときには非合理的なものだということ。直観的な結論はときにとんでもなく間違うから、客観的事実や統計数字に頼ったほうがよいこと。

本書でとりあげられている非合理さの具体例を見ると、脳裏にあの人とかこの人とかの顔がちらつく。自信満々でほかの人の意見を突っぱねる人、まわりの間違いはとてもよく見えるけれど自分の非は棚にほうり上げる人、リスクについて楽観的過ぎる人。もちろん自分自身も例外ではない。

そういう人たちや自分自身について語るときのために、著者はさまざまな言葉をこの本にこめた。なんとなくそうかなあと思っていたことを、言葉で表現するための方法を教えてくれた。では著者が教えてくれた新しい言葉たちを、わたしはより自分自身を深く知るために使いたいし、まわりにも本書を大推薦する。

SF小説、謎解きミステリー、哲学的思考実験としてもすばらしい〜劉慈欣『三体』

 

三体

三体

 
三体Ⅱ 黒暗森林(上)

三体Ⅱ 黒暗森林(上)

 
三体Ⅱ 黒暗森林(下)

三体Ⅱ 黒暗森林(下)

 

わたしはめったにSFを読まないが、この話題作はなかなか良かった。ネットでは人物描写が弱いという感想もあるようだけれど、天才的なひらめきとしか思えない一言が突然出てくることも。第三部(未邦訳)のとあるシーンでの「食べるものは!?」、凄すぎる。

『三体』というタイトルは古典力学の三体問題からとられているが、小説自体も、数学モデルを思わせる緻密さ。作中で重要な役割を果たす三体問題、ナノマテリアル量子コンピュータ、多次元空間などの最先端技術が、小学生にもわかるほどの簡潔なたとえでみごとに説明されているのがうれしい。

 

面白いところをあげればきりがないが、まず徹底的に『三』という数字にこだわっているのが、物語を理解するために重要だ。

『三体』というタイトルや『三部作』であることはもちろん、地球外知的生命体として登場するのは『三重星系』の惑星に住む『三体星人』。第三部で最大の謎解きとなるのは『三つの童話』。おとぎ話、伝説、昔話に深遠な意味をもたせることはよくあるけれど、『三つの童話』は作中登場人物の創作で、道徳観ではなく最先端技術情報を伝えるための比喩隠喩をちりばめた暗号童話である。さらに人類にとって最も重要な『三』ーー『三次元』が、物語後半のキーになる。

三部構成のあらすじを簡単に。

 

【第一部】

とある三重星系。そこには三体星人が生息しており、科学技術は地球より数倍進んでいる。三重星系では空に太陽が三つあり、しかも離れたり近づいたりするから、地表気温は安定することがなく、極寒と極暑のあいまにときたま温暖気候があるのみ。三体星人は母星の過酷な生息環境から脱出するため、移住先を探すべく、宇宙空間を探索しつづけていた。

ひるがえって地球、1960年代の中国。文化大革命時に「紅岸基地」という極秘基地が建設され、異星人をさがしていた。理論物理学者である父親を目の前で紅衛兵になぶり殺された過去を持つ葉文潔(イエ・ウェンジエ)は、みずからも天文物理学の道を志していたゆえに、偶然が重なってこの極秘基地に入った。

ある日、彼女は三体星人からのメッセージを受けとった。壮絶な過去から人類文明とその自浄作用に絶望しきっていた彼女は、みずからの返信が三体星人の地球侵略を招きかねないのを承知で返信を打つ。同じく人類に絶望感を抱く同志たちを募りながら、ひっそりと時を待ったーー

 

【第二部:黒暗森林】

主人公は変わり、天文学者から社会学者に転向した変わり種であり、葉文潔の娘の同級生でもあった羅輯(ルオ・ジー、中国語読みは「ロジック」を意味する単語と同音)になる。三体星人の地球侵略はすでに世界中に知られていて、懐疑派あり、強硬派ありと混迷状態。ある日、葉文潔の娘の墓参りに行き、そこで葉文潔と短い会話を交わした羅輯は、その直後、理由もわからないまま地球三体協会(ETO)の執拗な暗殺対象になる。

その頃国際連合は、三体星人が放ったスパイコンピュータ「智子」が、地球上のあらゆる情報にアクセス可能であるものの、人間の思考だけは把握できないことを逆手に取り、「面壁計画/ウォールフェイサー・プロジェクト」を提唱した。〈面壁者〉として選ばれるのは四人。彼らの任務は、三体星人の地球侵略に勝利するための戦略を頭の中だけで組み立て、その真意を悟られぬまま実行すること。あらゆる国際協力、資金、設備が望むままに供給されるが、機密保持のため、説明義務を負わない。羅輯は三体星人の暗殺対象となったために、理由はわからぬながらも重要人物だとみなされ、〈面壁者〉のひとりに任命された。

一方、いちはやく面壁計画を察知した地球三体協会は、彼らの真意をさぐるための〈破壁人〉を任命する。〈面壁者〉〈破壁人〉の間で、世界最高峰のチェスゲームのごとく、熾烈な読みあい騙しあい、腹のさぐりあいの火蓋が切って落とされたーー

第二部はSF小説ではあるけれども、謎解きミステリー仕立てにもなっている。副題「黒暗森林」(フェルミパラドックスにヒントを得ているらしい)が象徴的。作中で日本人が『銀河英雄伝説』の一節を口にするのが嬉しい。

 

【第三部: 死神永生(未邦訳)】

第二部から数十年後。三体星人と人類は緊張関係の中でにらみあいを続け、人類が三体星人に対する威嚇システムを手にしたことでかろうじて共存していた。

威嚇システムのスイッチを起動する権限を持つ者は、ダモクレスの剣にちなんで〈執剣者〉と呼ばれる。ひとたびスイッチを起動すれば、三体文明のみならず、地球文明までもが危機にさらされかねないため、〈執剣者〉には、いざとなれば二つの文明もろとも道連れにして滅ぶほどの覚悟が求められた。

一方人類はというと、初代〈執剣者〉がもたらした数十年間の平和を享受し、まるで赤ちゃん返りしたように覇気を失い、中には三体星人の脅威と威嚇システムの存在意義そのものを疑問視する者まで現れていた。

初代〈執剣者〉は高齢化しており、世代交代を余儀なくされた。二代目〈執剣者〉として、若き女性宇宙物理学者の程心(チェン・シン)が選ばれた。彼女は面壁計画の背後で進行していたもうひとつのプロジェクト「階梯計画」にも深く関わっていた。(この「階梯計画」、作中屈指の悪魔のアイデアだと思う)

程心がスイッチを手にしたわずか5分後、事態は急展開する。三体星人は待っていたのだ。彼らですら畏れずにはいられなかった初代〈執剣者〉が、その役割を終えるのをーー。

 

数学的緻密さで物語が練られている一方、『三体』は人間の倫理観に真向勝負をしかけている。

作中では、地球侵略を試みる三体星人に対して、倫理を度外視した冷徹な対抗策がとられることがしばしばある。「面壁計画」「階梯計画」しかり、〈面壁者〉たちが考え出した迎撃戦略しかり、いずれも中国の慣用表現でいう「殺敵一万、自損八千」(もとは孫子兵法の「殺敵一万、自損三千」をもじった表現。一万人の敵を殺す代償として味方も八千人斃れる、つまり戦には勝利するものの自分も割りにあわないほどの大損害を被るという意味)そのもの。

三体星人の科学技術が人類より数倍進んでいる以上、犠牲無くして勝利はない。

登場人物たちは(一部を除いて)このことをよくわきまえている。作中で〈面壁者〉のひとりが、日本の神風特攻隊について展示している博物館を訪れるのが象徴的。「今度はホタルになって戻ってくるよ…」という特攻隊員のお別れの言葉がリフレインされるのが、もの悲しいことこのうえない。

第三部の主人公である程心(わざとやっているのか、中国語で『程心』と『誠心』は同音語)だけは、このことをわきまえていない言動がめだつ。彼女は「ロマンチックなラブストーリーの主人公」「愛にあふれた聖母のような女性」ともてはやされているけれど、作中で、二度、愚かきわまりない選択をした。物語終盤で彼女がした選択の結果は、作中では明かされていないけれど、おそらく彼女の「三度目の」愚かきわまりない選択となり、その選択の結果は災い以外のなにものでもないだろう。実際、中国のネットユーザーのあいだでは、程心を嫌う感想が目立つ。

わたしは、程心の言動は【愛は地球を救う】系のスローガンへの痛烈な皮肉だと思う。愛とか感傷とかいうものの名のもとで彼女がした選択を見よ、その結果を見よと。

さらに救いのないことに、程心を聖母とかつぎあげる愚民たちのために、程心は心ならずして、選択しなければならない位置に追いやられた。程心は愚かかもしれない、ならば彼女を選んだ人々は? そう考えるとこの結末はすべての【他人に選択と行動責任を押しつける】【行動とその結果を引き受ける責任主体たることを放棄した】人々への強烈きわまりない皮肉とも読める。

きさまらが当然のものとして享受している【平和】は、敵を威嚇する強力な武器と、困難極まりない選択をする覚悟がある人々によって守られている、それを忘れるな、と。

 

SF小説としても、謎解きミステリーとしても、哲学的思考実験としても、『三体』は期待を裏切らないすばらしいエンターテインメントを提供してくれる。手持ちぶさたな秋の長夜に、ぜひどうぞ。

[昔読んだ本たち]コバルト文庫40年カタログ

 

コバルト文庫。懐かしい。

中学校の図書館、地元の公立図書館、なぜかどちらもそこそこシリーズがそろっていた。氷室冴子前田珠子榎木洋子……新井素子赤川次郎までコバルト文庫で書いている。わたしがコバルト文化を読んでいたのは、看板作家全盛期だったと思う。以前ブログにもとりあげた。

[昔読んだ本たち]少女小説(女性向けラノベ)編 - コーヒータイム

40年カタログが出版されると聞き、あまりの懐かしさについKindle版をポチってしまった。そして当時は電子書籍どころか、スマホやオンラインショップ自体無かったことを思い出し、ますます懐かしくなった。カタログを読んでいて思い出した、思い出深い作品をいくつか。

 

氷室冴子雑居時代

外面完璧、中身根性悪の主人公・倉橋数子が親戚の留守宅をまかされ、そこに同級生の漫画家志望・家弓と、二浪中の医学部志望生・勉が転がりこみ、同居生活を始めるドタバタコメディ。作者自身も友達付きあいがあるという漫画家の生々しい原稿締切事情がめちゃめちゃ面白かった。

 

前田珠子破妖の剣』シリーズ

魔性と呼ばれる強大な力をもつ存在と、それに対抗する破妖剣士ラエスリールの物語。ラエスリール自身、最強の魔性の血をひく半人半妖で、その出自と生真面目すぎる性格ゆえにさまざまな苦労をしてきたけれど、ある日押しかけてきた魔性・闇主とコンビを組むようになってから、しだいに感情豊かになっていく。ラエスリールと闇主のかけあい(というよりラエスリールが一方的にからかわれるコント)に涙が出るほど笑った。後半はシリアスな恋愛物語…と思いきややっぱりギャグ。

 

カタログにはコバルト目録解説エッセイも収録されているけれど、むしろこれを一番興味深く読んだかもしれない。看板作家たちがコバルト小説に寄せたエッセイはとても短いけれど、少女小説書きとしての自分、小説を書くことへの思い入れ、少女小説作家になったきっかけ。思いがけず顔写真まで載っていたりするから嬉しい驚き。

カタログらしく、読みものとしての分量はそれほどなく、半分以上を、40年間のコバルト文庫一覧や書影が占める。青春の思い出深い一冊を探すには最適。

【おすすめ】アガサ・クリスティ版毒母〜《Absent in the Spring(春にして君を離れ)》

 

Absent in the Spring

Absent in the Spring

  • 作者:Christie, Agatha
  • 発売日: 2017/06/15
  • メディア: ペーパーバック
 

最近読んだ『毒母ですが、なにか』のイギリス版。違いは、『毒母ですが、なにか』の主人公りつ子は、最後まで自分の毒母ぶりに気づかないけれど、本書の主人公ジョーン・スカダモアは、しだいに、もしかしたら自分自身はよい母親ではなかったのかもしれないと気づいていくこと。

アガサ・クリスティの描写力は凄まじい。舞台は砂漠のど真ん中の鉄道宿泊所からほとんど動かないのに、ジョーンがそこで自分自身について、これまで気がつかなかったこと、夫や子供たちをモラハラ同然のやり方で支配してきたほんとうの姿に気づいていくさまは、もはや自身の中からエイリアンが産まれてくるようなホラー映画もかくやの恐ろしさ。

わたしの尊敬するブログでも紹介されている。

読書会で毒を吐く『春にして君を離れ』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

時代は1930年代、主人公のジョーンは50近い主婦。イギリスの中流家庭で優しい夫と3人の子供にめぐまれ、妻として母として、理想的な家庭を維持してきたと自負している。

ジョーンはイラクの首都バグダッドに住む娘夫婦を見舞った帰り、かつて聖アン女学院で学友だったブランチ・ハガードに偶然出会う。くたびれてシワだらけになり、実年齢よりもはるかに年上に見え、服のセンスもよくないブランチを見て、ジョーンはひそかにそばの鏡を眺め、自分が若々しい見た目と上品な身なりを保っていることに優越感を覚える。(この辺りですでに、ジョーンが上品とはいいがたい性格だということは明らか)

ブランチはジョーンの娘夫婦、バーバラとウィリアムを見知っていて、ほんとに思い違いってあるものだ、バーバラはよっぽど問題のある家庭育ちで、家から逃げ出したくてさっさと結婚したんだろうと噂されている、と言い放ち、ジョーンを不快にさせる。(この辺りで、ジョーンの思い描く完璧な家庭、理想的な母親像が、彼女の中にしかないということが暗示される)

ブランチはさらに、自分の人生観をジョーンに語り聞かせる。

‘Oh well, that’s the way of the world. You quit when you ought to stick, and you take on a thing that you’d better leave alone; one minute life’s so lovely you can hardly believe it’s true—and immediately after that you’re going through a hell of misery and suffering! When things are going well you think they’ll last for ever—and they never do—and when you’re down under you think you’ll never come up and breathe again. That’s what life is, isn’t it?’

「人間なんて、まあ、そんなものよね。しがみついてた方がいいのに、投げ出しちまったり、ほっとけばいいのに、引き受けたり。人生が本当とは思えないくらい、美しく感じられて、うっとりしているかと思うとーーたちまち地獄の苦しみと惨めさを経験する。物事がうまくいってるときは、そのままの状態がいつまでも続くような気がするけれど、そんなことは長続きしたためしがないんだし。どん底に沈みこんで、もういっぺん浮かび上がって息をつくなんて、できそうにないと思っていると、そうでもないーー人生ってそんなものじゃないの?」

ジョーンが退屈そうにしているのを見てとったブランチは、さっさと席を立つ。(このやりとりは、ジョーンが人生の浮き沈み、苦しみとよろこび、ジョーンから見てちっとも合理的ではない行動をひき起こす感情的衝動を理解出来ないことをほのめかす)

ジョーンは旅を続けるが、鉄道遅延により、砂漠のど真ん中の鉄道宿泊所でひとり数日間待たなければならない羽目になる。手持ち無沙汰になったジョーンは、ブランチが最後に言っていたことーー「バーバラはもう大丈夫」ーーが気になり始める。

なぜブランチはそんなことを言い捨てていったのだろう? 愛娘バーバラにいったいなにが?

そこから記憶の糸がどんどんほつれていく。バーバラは結婚するには若すぎたのよというブランチの言葉。相手を愛していなくても、家を出るためだけに結婚する女の子もいるのだという夫ロドニーの言葉。バグダッドに旅立つジョーンを見送りにきたのに、汽車が動き出すや、さっさと背を向けて行ってしまったロドニーの後ろ姿。ロドニーが過労で倒れたときに、母親である自分を責めたてた子供たち。

なにかがおかしい。なにかが。

しだいにジョーンは気づいていく。「自分自身について、これまで気がつかなかったこと」に。「自分は、自分自身が思うほど、愛されてはいない」ことに。さらにそれがまぎれもなく「自分自身の行いに原因がある」ことに。

なんという恐怖。

 

ジョーンの記憶はとても鮮明で、細部まではっきりしている。そのため彼女は不都合な部分までしっかり思い出し、向き合わなければならなくなる。この辺りは小説ならでは。

ふつう人間はそこまで細部を覚えていないものだし、都合悪いところは忘れてしまうか、自分に都合良くなるように解釈するもの。毒母となればなおさら、すべて「子供のためを思ってしていること」だから、自分こそが子供を苦しめているなどとは思いもよらないし、まわりから指摘されても全力で否定する。「自分自身について、これまで気がつかなかったこと」に気づく恐怖から逃れるために。

この点、ジョーン・スカダモアはよくも悪くも正直だったのかもしれない。鉄道宿泊所で、思い出したくない記憶が次々湧きあがってくるのに、とにもかくにも身をまかせたのだから。1930年代のこと、いまのようにインターネットに氾濫するいろんな情報の洪水にさらされることもなく、読みものも話し相手もいない、手紙を書こうにも便箋が尽きた鉄道宿泊所で、ほかに考えることがなかったせいではあるが。

残酷なことに、ジョーンの正直さは、彼女を救いはしなかった。毒母によくあることだが、気づいたときにはすでに手遅れ。愛する夫や子供たちは、自分たちがどんなに怒り、泣き、感情をぶつけ、説得しようとしても変わらなかったジョーンがいまさら改心するなどとは信じそうもない。ジョーンもまた急に変わることなどできない。

いっそのことなにも気づかずにいれば、夫や子供たちに愛されていると錯覚したままでいれば、ジョーンは(少なくとも主観的には)幸せだったのに。そう、いまさら気づいて何になる? 子供たちは巣立ち、夫は年老い、住み慣れたイングランドにもどれば、旅先でのことこそが非現実的に思えてくるのに?

読者としてはそんな感想さえ抱いてしまう。そしてアガサ・クリスティは、そんな読者心理を鋭く突いてくるやり方で物語を終わらせた。

読後、ジョーンを愚かだと笑ったり、鉄道宿泊所に閉じこめられて半生をふりかえるだけの物語のどこがおもしろいのか首をひねったりするひとは、きっとたくさんいる。けれどわたしにとって、この物語は底知れない戦慄を呼び起こす。

あなたが思う自分。まわりが見るあなた。

あなたが良かれと思ってすること。まわりが望むこと。

ほんとうに一致している? それとも天と地ほどの違いがあるのに、当の本人が気づいていないだけ?

この物語はこの点を優しく容赦なく暴く。怖い。

タイトル泣かせ〜阿部智里『楽園の烏』

八咫烏シリーズの新刊が出ると知り、すぐに買おうかどうか迷ったけれど、結局買い、一気に読みきった。

本書は大人気和風ファンタジー八咫烏シリーズ〉の第二部第1巻。八咫烏とは人の姿形と鳥形を取ることができる〈神の御使〉。人間世界と幾つかの門で繋がる〈山内〉という美しく閉じられた異界で暮らしている。第一部は八咫烏社会の頂点に君臨する若宮のお嫁探しのため、貴族の姫君達が入内する王朝恋物語からはじまり、若宮と貴族連中の政治駆け引き、若宮の部下として活躍する雪哉の物語がつづく。一方、八咫烏社会できな臭い事件が相次ぎ、八咫烏とは別の生き物である〈猿〉の影がちらつきはじめる……という物語。

第二部第1巻となる『楽園の烏』は、第一部終了後、20年後から物語が始まる。

最初の舞台は現代の東京。行方不明の養父からある山の所有権を相続した安原はじめ(自称「タバコ屋のおっさん」)は、すぐに何人もの男から「あの山を売ってほしい」と言われて困惑する。ある日彼はとんでもない美女に誘われて自分が所有する山に向かい、あれよあれよといううちに、なんと〈山内〉に送り込まれてしまう。美女は自分自身を『幽霊』だと名乗り、かつて自分は殺された、こうするのは自分と自分の大切な人達を殺した者達への復讐のためだ、と口走る、サスペンス仕立ての物語。最初だけは、だが。

 

わたしが大人気の八咫烏シリーズを読むようになったのは、シリーズ最初の2冊『烏に単は似合わない』『烏は主を選ばない』がそれぞれ別の視点から同じできごとを追うという構成、物語の語り手が見ていたものが最後に鮮やかに塗りかえられるというどんでん返しを気に入ったからだった。平安時代の華やかな王朝文化、姫君たちの恋物語を思わせるような舞台設定も好きになった。

けれど、第一部最終巻『弥栄の烏』で、このシリーズに底知れないなにか、ほとんど恐怖のようななにかを感じた。そのときの読書感想。

 

第四作『空棺の烏』では身分差別を書ききった著者が、今作ではべつの理不尽な現実をとりあげた。

著者が思い描いているのは、おそらく、先住民と侵略者。

このことに気づいたとき、わたしが「先住民」と理解したのはなぜか、差別問題がくすぶるアイヌ民族アメリカンインディアンではなく、大和民族ーー日本人だった。

日本列島に古くから住みついてきた大和民族は、彼らなりの伝統や文化を育んでいたのかもしれない。彼らの言葉、彼らの叡智、彼らの文明があったのかもしれない。だがそれは、大陸からきた唐渡り人達がもたらした文化の激流に呑みこまれてしまった。今ではもう大陸文化の影響が強すぎて、古い古い土着文化を見分けられなくなってしまったーー。

 

著者の阿部智里さんはインタビューで、小説は一冊ごとにテーマを決めていると言っている。

『弥栄の烏』は、ますます栄えるという意味のタイトルがブラックジョークにしか見えないテーマの小説だったけれど、第二部第1巻となる本作『楽園の烏』もなかなかタイトル泣かせだ。

慈悲。地上の楽園。

いや〜〜〜〜なキーワードだと感じる、ひと昔世代のひともいるかもしれない。社会主義政権がよく使うキーワードだ。対照的に「憎悪は娯楽なのだよ」という身も蓋もない言葉がでてくるが、これは著者がこめたメッセージなのだろうか?

わけもわからないまま〈山内〉に放り出された安原はじめの目にも、最初、〈山内〉は桃源郷に見えたのかもしれない。だがしだいにメッキがはがれる。第一部を読んだことがある読者であれば「あいつのやることだから必ず裏がある」と身構え、第二部から入った読者でも、はじめを迎えた博陸侯雪斎にうさんくささを感じさせる仕掛けになっているのはさすが。はじめはわりとすぐにおかしいと気づいていたため、物語はむしろ、はじめの護衛をつとめる八咫烏、自分の暮らす八咫烏社会になんらの疑問ももたず、博陸侯を慈悲溢れるお方と心酔する頼斗の視点で展開される。

盲目的に信じていたものが、実は信ずるに足るものではなかったという価値観の転換は、最近読んだフラナリー・オコナーの短編小説集にも似ているが、頼斗の価値観が変わるにはもう少しかかりそう。

第二部はまだ始まったばかり。しかしすでにきな臭さ満載で、第一部からの世代交代もすすんでいる。というより、著者は世代交代を進めるために意図的に20年後に設定したという。20年前の〈猿〉との大戦、その真実が伝わらないままに〈山内〉は危機に瀕しており、謎の美女もあいまって、これからの物語展開に不吉ながら目が離せない影を落とす。

……本文最後の一行は、ミスリードだと信じたい。