コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

ナイジェリアとイギリスの価値観が出会うとき〜チアヌ・アチェべ《崩れゆく絆》

 

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

 

ノルウェー・ブック・クラブが選出した「世界最高の文学100冊」(原題:Bokkulubben World Library)の一冊。わたしにとっては初のアフリカ文学。

Library of World Literature » Bokklubben

 

好きです。価値観のぶつかりあいが。

《崩れゆく絆》がテーマに据えたのは、19世紀後半、ナイジェリア南東部に暮らすイボ族をベースに脈々と受け継がれてきた伝統的価値観と、この土地を植民地統治下においたイギリスがもたらした西洋的価値観のぶつかりあい。

 

主人公オコンクウォ(ンクウォの市の日に産まれた子の意味……めちゃ発音しづらい!)はレスリングで九つの集落に名をとどろかせる戦士にして疲れ知らずの働き者だが、怠け者の父親のようになることを心の底では恐れている。男らしく、力強さを見せなければならないことにこだわるあまり怒りっぽく、がむしゃらに働く。3人の妻を娶って子供をもち、2つの納屋をヤム芋でいっぱいにしたオコンクウォは、地元を代表する裕福な、成功した男だとみなされていた。

大地の女神にささげる豊穣祭、精霊や祖霊たちとの交流、婚礼儀式、先祖代々の伝統的行事が、オコンクウォの日常とともにきめこまかく描写される。アフリカに詳しくない読者にも、オコンクウォをとりまくにぎやかな様子がまざまざと目に浮かぶ。

ところがある日、「白い男」が現れたという噂話がもたらされた。まもなく西洋の宣教師たちが通訳を伴って現れ、それまでの土着の神々ーー大地の女神、空の神、雷の神たちーーを捨てて、唯一の造物主を崇めよと説き始めた。

教会が建てられ、学校や診療所が建てられた。学校に通えば数ヶ月で書記官などの職につくことができるとされ、診療所でもらえる薬は速く効くといわれるようになった。貿易商館が建てられ、椰子油などによって大金がもたらされた。

「白い男」たちは政府まで持ちこみ、廷吏をおいて裁判を行うようになった。オコンクウォが親友オビエリカからこの話を聞いた場面は象徴的。

「白人は、土地に関する慣習をわかってるのか」

「そんなわけないだろ。われわれの言葉すら話せないというのに。白人はここの慣習は悪いと言うだけさ。そのうえ、白人の宗教に乗りかえた同胞ですらも、ここの慣習は悪いと真似して言う始末だ。同胞が背を向けているというのに、どうやって戦えるというんだね。白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやってきた。われわれはあのまぬけっぷりを見て面白がり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった」

 

著者のすごいところは、オビエリカがいう「一族はひとつに結束していた」ことが必ずしも正しい認識ではなかったことを、それまでの伝統的土着社会についての描写でしっかり入れていたこと。

産まれた双子を不吉だからと森に捨てられた母親。早死にした子を悪霊としてよみがえらないよう切り刻まれた母親。巫女のお告げにより親友を殺された少年。怠けものとして爪弾きにされていた男たち。彼ら彼女らは村八分や一族追放をおそれて悲しみや憤りを腹のうちにためこんでいたにすぎず、西洋の宣教師がやってきたとき、最初に改宗したのが、伝統的社会で生きづらさを抱えていた彼らだった。逆に、伝統的社会でうまくやってきていたオコンクウォのような男たちは、宣教師たちを煙たがった。

このことは象徴的だ。人は、自分自身がうまくやっていける社会制度を肯定する。オコンクウォがまさにそうだった。勇敢で成功した男だと評価してくれる伝統的土着社会にこだわり、白人を追い出さない同胞たちを女々しいと決めつけた。

だが、「政府を持ちこんだ」ことこそが、白人の真におそろしい点だった。白人は政府機関や裁判所の人間を、彼らに従う現地住民におきかえた。伝統的土着社会で許されていた、一族の中で紛糾を解決する方法ーー罪人の家を焼き討ちにし、同族を殺した者を七年間追放するなどーーを白人は認めず、投獄、死刑などで罰するようになった。問題は(明らかに)それを実行するのが、他族とはいえ現地住民の黒人たちだったことである。彼らを正当な理由なくして殺すことは許されていなかった。

オコンクウォは白人を追い出さない同胞たちに失望し、ついには絶望したが、彼もまたみずからの悲劇的行動で、これまでのやり方ではもはや解決できない時代のうねりが来たことを証明してみせた。

 

わたしたちは、自分が生まれ育ち、慣れ親しんだ社会制度こそが正しいと信じこみ、そこから外れれば罰せられるのはあたりまえだと無邪気に思う。だがどんな社会制度も完璧ではなく、どんな社会も構成者全員が満ち足りているわけではない。違う社会から来た人々にとっては、わたしたちのやり方こそが奇妙であり、正さなければならないと映るかもしれない。そのとき彼らが社会制度を変える足がかりにするのは、わたしたちの社会で不満をくすぶらせている者、承認されていないと思う者たちだ。

《崩れゆく絆》は素朴で読みやすい物語を通して、このうえなく残酷にこのことを見せつける。

《崩れゆく絆》の舞台はいまから100年前、植民地化前後のナイジェリアである。では現代社会ではこのようなことは起こらないのか? ーーそうではないことをわたしたちは知っているはず。あなたにも少しでも心当たりがあるならば、ぜひ本書を読んでほしい。

わたしは声をあげ、コミュニティを飛び出した。あなたは?〜デボラ・フェルドマン『アンオーソドックス』

 

アンオーソドックス (&books)

アンオーソドックス (&books)

 

独特の価値観というものはどのコミュニティにもある。これに従わない者はコミュニティの一員ではない、というものも多かれ少なかれ。たとえばアメリカでは自由と民主主義であり、中国では政府への従順であり、中東ではイスラム教義であり、日本ではみんなと同調することであるかもしれない。それぞれの地区特有の価値観も、もちろんある。

 

本書の著者デボラ・フェルドマンが従うよう求められたのは、ユダヤ教ハシド派[超正統派]の一派であるサトマール派の教義だった。サトマールはルーマニアハンガリーの国境近くにある町で、第二次世界大戦中、ヒトラーの迫害を逃れてヨーロッパを脱出したあるユダヤ人の故郷だった。のちにハシド派の一派を創設する際、彼は故郷の名前をつけた。ヒトラーに奪われた故郷、ホロコーストによって消え去った東欧のユダヤ人コミュニティを記憶に留め、消滅の危機に瀕した民族的遺産に回帰することが使命だと彼らは信じていた。

 

コミュニティの成り立ちは同情と涙をさそうものの、少女時代のデボラにとって、コミュニティでの生活はいくつもの疑問をもたらした。

コミュニティのメンバーたちはユダヤの教義に忠実に従い、伝統的衣装や伝統的言語のみを使用し、忠実に戒律を守り、子孫繁栄を求められた。強制収容所で殺された数百万の同胞を取り戻そうとするかのように。なのになぜ、アイススケートリンクで出会ったユダヤ人少女は、コシェル〔ユダヤ教の戒律に従った清浄な食べ物〕ではないチョコレートを食べるのだろう?

デボラが暮らすのはニューヨークのブルックリン近隣、ウィリアムズバーグである。マンハッタンまで地下鉄で行ける。数ブロック歩いたところには英語の児童書をそろえた図書館がある。それらをデボラは隠れて読んだ。家では英語は汚れた言語として禁じられていたから。

 

少女時代、成人後、結婚後、出産後ーーデボラがコミュニティを抜けるまでの半生がこの本の内容だけれど、結婚前後の儀式を除けば、彼女の主観でつづられた人生にドラマチックなできごとは起こらない。驚くほどふつうだ。

だがなんの気ない記述が、彼女が「ごくふつうに」暮らしてきた日常生活の異常さを突然際立たせることがある。9.11テロが起きた日、ニュースを聞くために祖父がはじめてラジオを買ったという文章があり、デボラは「ゼイディがラジオを聴かせてくれるなんて。よほどの一大事にちがいない」とショックを受けている。それまで家には新聞もテレビも携帯電話もなかったのだ。

敬虔なユダヤ教徒であることを強制される日常生活の中で、小さな疑問、不満、違和感、怒りが、しんしんと降る雪のように、すこしずつ、たまっていくのが読み取れるけれど、デボラはその怒りをおおげさにさわぎたてることはしない。小さな違和感はずっとつもっていたものの、まわりから教えられるユダヤ教の戒律に背く勇気はなく、むしろ戒律に従わないものに反発を覚えた。

だが違和感は消えず、結婚初夜にそれは最悪の形で現れる。夫と交わることができなかったのだ。デボラは何ヶ月も病院通いする羽目になる。厳しい戒律は彼女が女性であることに気づく機会を与えず、結婚後に突然女性になれと言われても、身体が拒絶した。このあたりの描写は赤裸々だが、エロチックさは微塵もなく、ただただデボラの戸惑い、混乱、屈辱、それを過去の出来事として淡々と綴ろうとする意思が感じられる。

わたしの症状は膣痙というらしい。説明が書かれた本を渡された。それによると、戒律の厳しい宗教的環境で育った女性によくある症状だという。長年自分の身体と向きあってこなかったせいで、身体に背を向けられているのだ。

全編通して、過去の自分にふりかかった出来事のはずなのに、抑制された控えめな文章になっていることが、デボラがこれまでいかに戒めと自己抑制に慣れているかを裏付けている。デボラはエージェントと本書の執筆契約を交わした直後にコミュニティを脱出したから、彼女の手記は、彼女がコミュニティにいたころの特徴を色濃く残しているはず。サトマール派では感情は表に出してはならないもの、持ってはならないものとされてきた。その結果が、煽りも、大げさな感情表現もないこの文章だ。

 

本書は告発本ではない。批判本でもない。デボラが小さな違和感を重ね、ついにはこれまで住んでいた地域社会のやり方は自分と合わないと飛び出す決意をかためる際に、過去の自分と決別するために書いた本だ。ユダヤ教超正統派という特異性はあるけれど、過去を追体験しなければ、過去から解放されることはできなかったのだと思う。

この本が売れたのを、著者は、自分と同じ悩みをもつ女性が世界中にいたからだ、と表現したようだけれど、わたしにとって、この本はむしろとても嫌な命題を突きつける。

 

あなたはどう? いま住んでいるコミュニティのやり方に違和感や反発を覚えてはいない? 嫌だと声をあげる勇気はある? そこから脱出する勇気は?

 

この本は、意図せずして読者にそう問いかけている気がする。

 

作中で、デボラが友人ミンディの結婚後の変化に嘆くシーンがある。ミンディは秀才で、独身時代はデボラと一緒に英語読書や流行音楽、映画を楽しんでいたのに、結婚後は次々出産し、すっかり従順で敬虔なユダヤ教家庭の主婦になり、「これが神様のお望みなのよ」と呟く。

〝神様のお望み〟という言葉に無性に腹が立った。すべては人間の欲望のためだ。神がミンディに子供を産むよう望んだわけじゃない。なぜミンディは気づかないの? 彼女の運命は神の手ではなく、周囲の人たちに決められたのだ。でも、わたしにはなにも言えなかった。ミンディの夫からはすでに警戒されていた。迷惑をかけないよう、会うのをやめるしかなかった。それでも彼女を忘れることはない。

デボラは勇気をもって声をあげ、コミュニティを飛び出した。そうせずにはいられなかったからだ。では、あなたは? この本を読んでいるあなたは?

投資を始める心構えを得るための名著〜チャールズ・エリス『敗者のゲーム』

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は①。「参加するマネジャーがすぐれているからこそ、投資運用は自分のミスによって得点を失い、他人のミスから得点をあげる敗者のゲームになってしまった」という指摘は目からウロコだった。

著者はすばらしい例を出している。航空技術が未熟だった20世紀前半には、パイロットは「冒険心旺盛で、意志も強く、視力のよい若者」であり、ベテラン戦闘機乗りたちは「勝者のゲーム」を戦っていた。しかし航空技術が成熟してきて、とくに民間航空機では「手動操作が必要になるのは離陸時と着陸時だけ」とまでいわれる現代社会では、パイロットに求められることは、一つのミスもなくマニュアル通りに飛行機を飛ばす「敗者のゲーム」に変わったのである。(たまにハドソン川水面への不時着を成功させたチェスリー・サレンバーガー機長のような「勝者のゲーム」時代のベテランパイロットがニュースを賑わせるが、例外中の例外だ)

 

本書は雑誌掲載された論文をベースにしており、短めで、すらすら読むことができる。

内容はあまりうれしいことではない。8割以上の専門運用機関は市場に負け、売買コストなどをさしひけば市場平均以下のリターンしかあげることができない、トッププロが運用する機関投資がこの成績なのだから、個人投資家の成績はさらに悪く、現実ははるかに暗い、という。

なぜなら、市場という敵があって、投資家たちーー95%の機関投資家や5%の個人投資家ーーが市場相手に戦っているのではなくて、投資家自身が市場を構成するからである。自分自身に戦いを挑んでいるようなもので、「多くの投資家が勝つ」ことができるわけはない。たとえるならば、大学入試共通試験で、過半数の生徒が平均点よりも高い点数を取るなどというバカな話がありえないのと同じだ。しかも生徒たちの実力にはそれほど差がなく、計算ミスやマークミスによって得点差が出ることのほうが多いときている。この状況を著者は「敗者のゲーム」と形容する。

TRW社の著名な科学者であるサイモン・ラモは、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の決定的な差を、『初心者のための驚異のテニス』という本の中で明確にしている。(...)両者の統計的分析の結果、ラモ博士は次のように要約している。「プロは得点を勝ち取るのに対し、アマはミスによって得点を失う」

ゆえに、十分に効率化された市場では、インデックス・ファンド(市場全体の動きを示す代表的な株価指数に連動するファンド)、それも国際的に最大限分散された、最小コストのインデックス・ファンドを選んで活用することが、勝ち続けるための最も簡単な方法なのだ、実は。

だが、市場平均株価よりも高い収益をあげたいと野心的になる投資家たちはアクティブ・ファンド(市場平均以上のリターンを目指すファンド)に投資し、「敗者のゲーム」にみずから飛びこむ。

「十分に効率化された市場」とわざわざ書いたけれど、世の中にはそうでない市場もある。閉鎖的な国家、独裁政権新興国では、政府が株式市場に強力な影響を及ぼすことがままある。このような事情を理解しているアクティブ・マネジャーならば、新興国市場で平均以上のリターンを得られるかもしれない。この本が述べているのは、あくまでアメリカのような、全世界に開かれ、効率的に運営されている市場のことである。

 

このような市場で勝つ方法はなにか。投資の名著といわれている書物が口をそろえて主張していることだが、明確な目標設定をし、目標実現のための合理的な投資政策を選択したうえで、その政策を忍耐強く貫くこと。

だが、これができないのが人間である。

本書で投資家が避けるべきリスクを列挙しているが、そのうちのいくつかは、人間ゆえの我慢の効かなさに原因がある。たとえばこう。

■忍耐力の不足……1年で10%上がる投資の1カ月ごとの平均上昇率は1%にも満たない。1日単位の上昇率はほとんどゼロに近い。したがって、毎日の株価の動きを気にしても意味がない。ところが実際には、毎日欠かさず株価をチェックする投資家は少なくない。株価などは、四半期に一度見れば十分だ。もしアマチュアの投資家で売買判断を年1回以上しているとすれば、それは多すぎる。どこかでそのツケを払うことになるだろう。

投資信託に投資する場合、10年に1回以上入れ替える……投信への投資は、デートではなく結婚だ。「富める時も、貧しい時も」ともに助け合うものだ。投信入れ替えのコストは高い。個人投資家にとっての投信へのリターン実績は、その投信自体のリターンを大幅に下回る。なぜなら一般に投資家は、好成績、すなわち基準価格の高い時に投資し、成績不振となった安値で売るからだ。相場変動に惑わされず持ち続けたら、リターンははるかに高かっただろう。

しかも。

著者いわく「真のリスクはインフレである」。

10年前なら1万円で買えたものが、いまは1万2千円出さなければ買えないなら、10年前の虎の子貯金の1万円は価値が目減りしている。著者はインフレ率と、そのインフレ率のもとで資産を半減させる年数を一覧表にしている。ぞっとしない表だ。

 インフレ率2% ----> 36年で資産半減

 インフレ率3% ----> 24年で資産半減

 インフレ率4% ----> 18年で資産半減

日本のインフレ率は1980年には7.8 %だったが、バブル崩壊後に落ちこみ、2019年には0.48%となっている。これは日本が、経済活動が比較的落ちついた国であることを意味している。
経済成長旺盛な新興国ではインフレ率はもっとすさまじい。お隣中国は、1980年にはインフレ率2.5%だったが、そこからぐんぐん上昇し、1989年には18%を記録し、2019年も推定値ながら2%台のインフレ率を維持している。みんなが「宵越しのカネをもつくらいなら不動産や株式を買う」と、投資に熱狂するのも無理はない。

こういう、日本のバブル期や新興国の経済発展期のような「買えばもうかる」時代はめったにこない。来たとしても、一般投資家が大勢参加するころには高値になり、欲が出すぎて引き際をあやまれば、大火傷はまぬがれない。バブル崩壊で自己破産した投資家はたくさんいただろう。著者の主張は、一攫千金のチャンスを夢見るのではなく、市場平均のリターンを得られることで満足する、自分が投資を通して手に入れたいものーー老後の安定した生活資金などーーをはっきりさせ、それを実現するための投資戦略をたてること、投資戦略をおいそれとは変えない心構えと覚悟をもつことだ。

投資は早ければ早いほどよい。さあ、心構えをもって始めよう。

 

投資初心者にこそ読んでほしい、長く生き残るための投資哲学〜ハワード・マークス『投資で一番大切な20の教え』

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は①。ウォーレン・バフェットのお気に入りの本で、彼の会社バークシャー・ハザウェイ株主総会でも配布されたと聞き、読んでみた。

バリュー投資家の思考方法、投資哲学をよく学ぶことができる本だ。ただトレンドにしたがって投資するのではなく(投資関連書籍ではこのやり方をすすめているものがたくさんあるのだが)、買おうとしている証券、不動産、資産の本質的価値を把握してから、それより安いときに買うのが賢いやり方だという教えには、深くうなずかされた。

まさにわたしはこの間違いをおかそうとしていた。価値もよくわからないのに、なんとなく市場価格がいま安くなってきているからという理由で、資産購入を検討しようとしていた。この本はわたしの目を覚まし、ストップをかけてくれた。

とても読みやすい。

著者ハワード・マークスは世界最大級の投資運用会社オークツリー・キャピタル・マネジメントの共同創業者兼会長であり、数十年の投資経験がある。不定期で顧客向けレターを書いて、みずからの投資哲学、投資の成功を左右する要素、重視することなどを述べてきた。

本書はそのレターの内容をふまえて20の教えにまとめている。投資についての顧客の理解度はさまざまでありーーこの世界に入ったばかりの者もいるだろうーー、そのためか、20の教えはどれもシンプルで、理論とか計算式とか難解用語とかに凝ることがなく、なのに味わい深い。まさに『哲学』となっている。

 

著者はバリュー投資をメインに行っている。バリュー投資とは、あるべき価値よりも安い値段がついている「掘り出し物」をみつけて買い、より高値で売ってもうける方法。投資家には、資産の本質的価値を評価できる、いわゆる「目利き」の知識と洞察力が求められる。

「目利き」がどういう人々なのか、いちばんいい例は、わたしが子供のころから見ているテレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』に登場する鑑定家たちだろう。絵画、掛軸、瀬戸物、有名人の直筆原稿、浜辺で拾った謎の石(!)まで持ちこまれるスタジオで、鑑定家たちは本物と偽物を見分け、値段をつける。

たとえば絵画の専門家なら、画家の作風、多作か寡作か、作品制作時期、作品流通状況、サインの形状、紙の質、絵具の種類、保存状況など、さまざまな点をふまえて評価するが、その背景には深い専門知識や経験があり、ヤマカンで真偽が見分けられるものではない。言いかえれば、努力して身につけた専門知識やそれを活かす能力こそが、優位を保てるよりどころだ。ちなみに浜辺で拾った拳よりやや大きい石の正体は、マッコウクジラの体内でできる珍しい香料だとかで、100万円以上の値段がついていた(!?)。

著者は「目利き」としての思考方法を「二次的思考」と呼んでいるが、これはダニエル・カーネマン行動経済学に関する必読名著《ファスト&スロー》のシステム1・システム2によく似ている。流されるままに反応するのではなく、しっかりとした知識を土台とする論理的思考から、合理的結論に達すること。そして、結論にしたがって、ほかの投資家たちとは違う行動を続ける決意と勇気をもつこと。

「これは良い企業だから、株を買おう」というのが一次的思考。一方、「これは良い企業だ。ただ、周りは偉大な企業と見ているが、実際にはそうではない。この株は過大評価されていて割高だから売ろう」というのが二次的思考である。
(...)

一次的思考は単純で底が浅く、誰にでもできること(つまり、優位に立とうとする場合に役に立たないこと)である。一次的思考をする者がみな求めるのは、「この企業の見通しは良好だから、株価は上がる」といった将来に関する見解である。

一方、二次的思考は奥が深く、複雑で入り組んでいる。

強調部分はわたしが追加したが、この一文にはグサッときた。あたりまえだが、誰にでもできる程度の判断しかできないのであれば、市場平均よりも高いパフォーマンスをあげることなど夢のまた夢。「目利き」は簡単になれるものではなく、知識や経験を得る努力をしなければならない。

投資の世界では、著者の言葉を借りればこうなる。

二次的思考をする者は、すばらしいパフォーマンスを達成するには、情報面と分析面のどちらか、あるいは両方で強みを持つ必要があるとわかっている。そして、誤った認識が生じていないか、アンテナを張りめぐらしている。駆け出しの投資家である私の息子アンドリューは、現状と今後の見通しをもとに、数多くの魅力的な投資アイデアを考え出している。若輩だが十分に訓練を積んでおり、いつもその発想の原点には、「この情報を知らないのは誰か」という疑問がある。

 

本書で著者がとくに強調しているのは、みんなと同じことをやらないこと、リスクをとりすぎないこと。一山当てて大もうけしようとリスクの高い投資商品に手を出すのではなく、本質的価値よりも低い値段で売り出されている「お買い得品」を買い、地味で手堅く利益を上げること。これが、長期間、投資の世界で生き抜くコツだ。

わたしにとって、「リスクの高い投資を高いリターンの源としてあてにすることはありえない」という著者の指摘は目から鱗だった。金融業界では、リターンの高いものはリスクも高い鉄則がある。しかし、高いリスクをとったからといって、高いリターンが実現するとはかぎらない。考えてみればあたりまえのことだが、いつのまにか「高いリスクを取ればその分一山当てられるにちがいない」と思いこんでいた。恐ろしい考え方である。

もっと恐れるべきなのは、「この金融商品/投資先はリスクがないから安全である」という言葉かもしれない。目利きができなければ、この言葉をしんじこんで、投資金をつぎこんだあげく、大損するかもしれないのだから。しかし、人気の金融商品でまわりがもうけている中、自分は手を出さないと踏みとどまることも、なかなか難しくはある。

特に相場が良い時期には、「リスクのより高い投資は、より高いリターンをもたらす。もっと儲けたければ、もっとリスクをとることだ」という話を、これでもかというほど耳にするだろう。だが、リスクの高い投資を高いリターンの源としてあてにすることはありえない。理由は単純だ。リスクの高い資産が確実に高いリターンを生み出すというのなら、その資産は高リスクとは呼べないからである。

厳密に言うならば、「よりリスクの高い資産は、資本をひきつけるために、より高いリターンの見込み、またはより高い公約リターン、もしくは高い期待リターンを提示しなければならない」となる。しかし、こうした高リターンの見通しが実現する必然性はまったくない。

  • 誰もが高リスクと考えている資産の価格はたいてい、不人気のせいでまったく危険ではない水準まで低下する。否定的な見方が広がれば、それは最もリスクの低い資産になりうる。価格に楽観的な材料が何ひとつ織り込まれていないからだ。
  • そして、七〇年代の「ニフティ・フィフティ」投資家の前例が示すように、誰もがリスクがないと信じている資産の価格はだいたい、きわめて危険な水準までつり上げられる。投資家がリスクを恐れていなければ、リスクをとることへの見返り、つまり「リスク・プレミアム」が求められたり、提供されたりすることはない。したがって、これは最もリスクの高い資産となる可能性がある。

 

実際はリスクがあるにもかかわらず、リスクがないと信じこんだ投資家たちがカネをつぎこむことで、資産価格はしばしば危険なまでにつりあげられる。「これからもっと値段が上がるだろう、ひともうけできるぞ」という期待が織りこまれるからだ。不動産バブルなどはまさにその典型。

ではどのように、攻めすぎず、守りのポートフォリオを構築できるか。著者は二つの大原則をあげる。

投資における守りには、二つの大原則がある。一つ目は、損失を出す資産をポートフォリオに入れないことだ。これは、幅広く綿密な調査を行うこと、厳格な投資基準を採用すること、低価格と十分な「誤りの許容範囲」(詳しくは後述)を求めること、持続的な繁栄やバラ色の予測や不透明感のある出来事をあまり積極的に投資の材料としないこと、によって実行できる。

二つ目の原則は、相場が悪い時期、とりわけ暴落による市場崩壊が起きるリスクがある時期を避けることだ。そのためには、損失を出す資産をポートフォリオに入れないという個別の対応に加えて、慎重にポートフォリオを分散化させること、ポートフォリオ全体でリスクを抑えること、そして全般的に安全性に対する選好を強めることが必要となる。

しかし、わたしが考えるに、三つめの大原則がある。「なにもかもうまくいっているときに、最悪の事態を想定して、ディフェンスを行う気を起こす」ことだ。新築ビルをたてる際、これまで火事が起きたことがない地域だからといって、消防設備をまったく取りつけない者はいないだろう(また、そういう愚か者が出ないように、国は法規で最低限取り付けなければならない消防設備を定めている)。安全対策は実際に使用されないに越したことはないのだが、ここにかけるカネを惜しめば、万が一のときに莫大な損害を覚悟しなければならない。

著者が繰り返し強調しているのは、まさにこのことだ。大もうけはできないかもしれないが、一度の失敗であり金失って強制退場にならないように、防護策を考えておかなければならないと。たまたま大勝ちした投資家が、得意になって自分の投資手法をふれまわることはよくあるが、大切なのは一度だけ大勝ちすることではなく、地道に小さく勝ち続けること、大負けしないことだ。ほかの投資関係の本でも、小さく勝って大きく負けるのは、投資初心者がよくやる失敗だと書かれている。

投資哲学といわれれば取っつきにくそうだし、なぜ利益を出す手段ではなく「考え方」を学ばなければならないのか疑問に思うかもしれないが、本書は一読の価値あり。投資を考えている方はぜひ。

エネルギー社会の来し方行く末〜D. Yergin “ The New Map”

エネルギーについて学ぶための本。


なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は②。エネルギー、気候変動、大国間衝突について、現在の世界情勢をわかりやすくまとめてくれている。英語だけれど読みやすい。

本書はアメリカ、ロシア、中国、中東というエネルギー業界の主要プレーヤーについて、それぞれの最新事情、展望をまとめている。

副題は「エネルギー、気候、そして国家間衝突」となっているが、エネルギーとしてとりあげられているのはおもに石油と天然ガスで、再生可能エネルギーと気候変動はおまけのように最終章でふれられている程度。一方で「環境保護団体が石油採掘やパイプライン建造に猛反対して政治的妨害工作をした」話はアメリカを扱った章でわんさかでてくる。著者はなんらかの理由で気候変動をに入れたものの、実はそれほど関心がないような気がする。石油と天然ガス事情をメインに据えた本として読むべきだろう。

 

エネルギーは軍事・政治・経済面で覇権を握るためには必要不可欠。世界最大のエネルギー輸入国だったアメリカは、21世紀初頭のシェールガス革命・シェールオイル革命をきっかけにエネルギーの国産化に成功した。対照的に、中南米(メキシコやベネズエラ)は石油国産化にこだわって外国企業投資を締め出しているが、技術的難易度が高い石油産業を効率的に運用出来ずにいる。

Between the end of the Great Recession, in June 2009, and 2019, net fixed investment in the oil and gas extraction sector represented more than two-thirds of total U.S. net industrial investment. In another measure, between 2009 and 2019, the increases in oil and gas have accounted for 40 percent of the cumulative growth in U.S. industrial production.

グレート・リセッション(注: 2000年代後半から2010年代初めの大規模な経済的衰退の時期)が終わりを告げた2009年6月から、2019年までに、石油・ガス採取産業への純固定投資は、アメリカでの産業固定投資総額の2/3以上を占めた。別の数値によれば、2009年から2019年までのアメリカの工業生産高成長のうち、40%が石油・ガスのおかげだった。(私訳)

そのアメリカの競争相手であるロシアは、石油・天然ガスを戦略的利益の中核として位置づけ、主要供給先であるヨーロッパとの間にパイプラインを次々敷設し、近年では中国にもますます多くの石油・液化天然ガスを輸出している。

そして、石油・天然ガスを語るにあたって外せないプレイヤーが中東。中東の石油に注目が集まりはじめたのは、自動車、戦車、戦闘機、戦艦など「燃料を必要とする」マシンが主役になりつつあった第一次世界大戦頃。第二次世界大戦後も、第1次〜第4次中東戦争イラン革命、イラン・イラク戦争湾岸戦争イラク戦争、シリア内戦などなど動乱を繰り返しながらも、中東は石油の一大産出地として地位を保ってきた。

中東動乱ではアメリカとロシアの代理戦争がかなりのウェイトを占めている。そこにイランによる勢力拡大が加わる。1980年代に革命によって親米派政権を倒して、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を打ち立てたイランは、イスラムシーア派による支配を他国にも広げようとさまざまな活動を行っている。イランの軍事作戦の中心人物であったソレイマニが2020年1月にアメリカに暗殺されたが、彼は生前こんなことを述べていたという。

“We are witnessing the export of the Iranian Revolution throughout the region—from Bahrain and Iraq to Syria, Yemen, and North Africa.”

われわれはイラン革命が地域全体に伝わるさまを目撃しているーーバーレーンイラクから、シリア、イエメン、北アフリカに至るまでだ。

しかし、アメリカのシェールオイル利用やロシアの石油増産が進みつつあるなか、これからも中東は石油・天然ガスの分野でこれまでのような影響力を保てるだろうか?

 

本書は、国家間の地政学的競争関係/協力関係がエネルギー政策に色濃く反映され、またエネルギーをめぐる思惑が国家間関係に影響を及ぼしてきたという双方向の現状をとらえている。このため〈ロシア〉〈中国〉〈中東〉パート(というかアメリカのパート以外全て)では、領土問題をはじめとする複雑な国家間関係をかなりくわしく説明している。

“The New Map”という本書のタイトル通り、とくに重要視されているのは政権の移りかわりや、新たな油田・ガス田発見により輸入国が輸出国に転換するなど、国家としての役割が変わることだ。逆に、サウジアラビアのような、世界最大の石油輸出国ながら政権が比較的安定しており、すぐには役割転換しそうにない国については、章の後のほうにまわされている。

"The New Map" の一例をあげると、ロシアは長きにわたってパイプラインを通してヨーロッパに天然ガスを供給し、主要中継地であるウクライナは通過費用徴収で潤いつつ、みずからも国内需要の2/3をまかなえる天然ガスを産出している。トランプ大統領は自国のシェールガス革命で生産されたLNGをヨーロッパに売り込むべく、ロシアードイツを結ぶ新規パイプライン建設を制裁する方針を打ち出し、これにEUは激怒。ロシアは天然ガスの売りこみ先として中国と緊密な関係を築きながら、中国がロシア東部や中央アジアで勢力拡大していることを警戒している、というぐあいだ。

アメリカの経済アナリストである著者は「アメリカに敵なすもの」にはけっこう批判的な視線を向けているように感じたが、アメリカ一強ではない、さまざまな国家がさまざまな思惑をたたかわせる様は、シェールガス賛美を主題とする〈アメリカ〉のパートよりもおもしろく感じられた。とくに貿易の要である南シナ海をめぐる思惑は面白い。

Through its waters pass $3.5 trillion of world trade—two-thirds of China’s maritime trade, and over 40 percent of Japan’s and 30 percent of total world trade. The flows include fifteen million barrels of oil a day—almost as much as goes through the Strait of Hormuz—as well as a third of the world’s LNG. (...) Ten percent of the world’s entire fish catch comes from it, 40 percent of its tuna. 

南シナ海の)海を介して、3.5兆ドルもの国際貿易が行われている。これは中国の海上貿易総額の2/3、日本の海上貿易総額の40%以上、世界の貿易総額の30%にあたる。南シナ海海上貿易には、1日当たり1500万バレルの石油ーーホルムズ海峡を通過する石油量とほぼ同じーー、それにLNGの輸送総量の1/3が含まれる。(......)世界総漁獲高の10%が南シナ海からあげられる。マグロにいたっては総漁獲高の40%が南シナ海産だ。(私訳)

中東について、石油過重依存の状態がこれからも続くのか、著者は疑問を投げかけているが、この本を読んでいて、2020年4月に原油先物価格が史上初めてマイナスになったことを思い出した。新型コロナウイルス流行が直撃し、原油消費量が大幅減、価格が暴落したところを、底値狙いの一般投資家が市場になだれこみ、さらにそこをプロの空売り投資家に狙い撃ちされたのが原因だという。中国で販売されている投資商品「原油宝」が多額の評価損を確定させ、販売元の中国銀行が政府のバックアップのもと補償する声明を出すさわぎになった。マネーゲームが原因の大半とはいえ、新型コロナウイルス大流行で消費が冷えこむ中、原油価格は持ちなおす気配をみせない。それでも新型コロナウイルス大流行後の経済回復期には、原油消費量は回復するだろうと著者は見立てている。

中国の銀行「原油先物マイナス」でカモられた訳 | 財新 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

それぞれの国の歴史、政策、油田・ガス田分布、環境問題やその未来展望まで、「全部盛り」のような一冊。世界規模のエネルギー情勢について興味があるならば、欠かせない一冊。

 

【おすすめ】全身全霊でおすすめする半自伝小説〜G.D.ロバーツ《シャンタラム》

 

読め。

と、成田空港に陣取り、インドを目指す旅行者全員の手荷物に本書を突っ込んでやりたい。

 

仕事にプライベートに忙しくなると、なかなか心落ちつかせて(イメージとしては昼下がりのコーヒーブレイクに)本を読む時間がとれないと思っていたけれど、忙しく働きながら、ちょっとした時間を盗んで、絶対面白いとすすめられた小説を読み、また働きに戻るのも悪くない。

ポイントは、小説が異国の地を舞台にしていること。異国のたちのぼるにおいまで、小説の行間から感じられること。新型コロナウイルスが猛威を振るう昨今、海外旅行はできないも同然だが、想像の中で、知らない土地に行った気にさせ、だれかの人生を一緒に生きた気にさせてくれる。そんな小説。

……などと、上巻を半分ほど読んだわたしはのんびりかまえていた。その頃の自分を蹴飛ばしてやりたい。

 

この小説はそんなものではない。もっと泥臭く、堕落と醜悪としたたかに生きる歓喜にまみれ、腐臭漂うなかにささやかな人情味あふれる生活があらわれたかと思うと、臓腑をわしづかみにされ、犯罪と大金と裏取引が煮詰められた苦汁を飲まされる。……そんな強烈な読書経験にふりまわされる。なのになぜ、これほどまでに読み進めたくてたまらなくなるのだろう。

まずは,これ以降の記事(多少のあらすじあり)を読むことなく、この小説を読んでほしい。最初は脳内旅行で異国の地を楽しみながらのんびり。途中からどんどん加速して、本を手放せなくなる。わたしの場合は中巻途中からだった。

本書をすすめていたのは、尊敬する「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人。

徹夜小説「シャンタラム」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

冒頭数行が、小説のテーマを語り尽くしている。

愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、今自分が知っていることを学んだ。しかし、その核となるものが心にめばえたのはまさに一瞬の出来事だった。壁に鎖でつながれ、拷問を受けているさなかのことだ。叫び声をあげている心のどこかで、どういうわけか私は悟ったのだ。今の自分は手枷足枷をされ,血を流している無力な男にちがいないが、それでもなお自由なのだと。拷問をしている男を憎む自由も,その男を赦す自由も自分にはあるのだと。どうでもいいようなことに聞こえるかもしれない。それはわかっている。しかし、鎖に噛まれ、痛さにひるむということしか許されない中では、その自由が可能性に満ちた宇宙となる。そこで憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる。

この小説は一人称で始まり、主人公はオーストラリアの刑務所を脱獄した最重要国際指名手配犯。著者であるグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツも現実に薬物乱用と銀行強盗で投獄され、オーストラリアの刑務所を脱獄した。異様に詳細にわたるまで描写される刑務所と収容囚人たちの様子は、著者ロバーツの経験そのものに根付く。

主人公は偽造パスポートでインドはボンベイ(現在はムンバイ)に降り立つ。たちこめる熱気、脱獄囚として信用できる人間を一目で選ばなければならない緊張感。これも著者ロバーツの実体験そのもの。ボンベイ一のガイドを自認するプラバカルとの出会い、さまざまな過去を抱えてボンベイに流れついた外国人たち、主人公は彼らと交流しながら、やがて"リン・シャンタラム"という新たな名前を得る。

描写されるボンベイの熱気と過酷な現実は、ときに目をそむけたくなるほど。医薬品を手に入れるために盗みの技術を磨かなければならなかったハンセン病患者たち。いつ立ち退きを迫られるかわからず、火事や伝染病や野犬とたたかわねばならない違法スラムの住民たち。薬物売人、娼婦、死体始末屋、さまざまな違法行為を管理する地元マフィアたち。政治闘争止まないパレスチナアフガニスタン、イラン、レバノンなどの国々で家族や友人が虐殺された記憶を抱える無法者たち。だが彼らは生に貪欲で、ときに愚直なまでに正直で、人生について深遠な考えを抱いている。ボンベイで、最重要国際指名手配犯でありながら、"リン・シャンタラム"は、故国では失われた温かい人間関係を新たにつくろうとする。

著者ロバーツはもともと薬物中毒者や銀行強盗である前に、物書きであった。この小説は彼の半自伝小説であるといわれるが(どこまでがフィクションで、どこまでが実際の出来事なのか、渾然とするように書かれているが)、繰り返し【赦し】というテーマが登場する。小説の中でリンが恋愛感情を抱くカーラ・サーラネンは、現実に存在したのかわからないけれど、わたしには、カーラはリンにとっての【運命の女神】そのものであるように思えた。カーラを通して、リンは自分自身を過酷な運命に投げこんだなにものかーー警察、マフィア、はたまた造物主ーーを赦そうとしたのだ。対照的に、家族を惨殺されたことを生涯赦さず、狂気じみた報復を繰りかえす男も、小説には登場する。

私たちが人間たりうるのは赦すことができるからだ。赦しがなければ、われわれ人類は、際限のない報復を繰り返した挙句,とっくに絶滅しているだろう。赦しがなければ、人類に歴史はない。赦しという希望がなければ、芸術もまた存在しない。なぜなら、芸術作品とはある意味で赦しの行為だからだ。赦しという夢がなければ、愛もまた存在しない。なぜなら、愛とはある意味で赦しを約束することだからだ。私たちが生きつづけているのは、愛することができるからであり、私たちが愛するのは赦すことができるからだ。

読め。これだけ。

本書の魅力はどんなに語ろうとしても語ることができない。一言一句逃さず舐めるように読んで、また読んで、読みなおして、渾沌と泥濘の中に、自由をつかみとる読書体験をせよ。

あなたはどれほど知っている?〜谷本真由美『世界のニュースを日本人は何も知らない』

 

谷本真由美さん(@May_Roma、めいろま)は元国連職員、IT監査専門、アメリカ・イタリア・イギリスで就学や就業経験があり、Twitterで切れ味鋭い意見を投稿するお方。グローバルに活躍できる女性が大好きな日本人にウケがいいかと思いきや、日本はここがおかしいという意見も容赦無く飛ばすから、「グローバルに活躍できるのは日本人女性としての美徳のおかげでゴサイマス」というのを勝手に期待するネット民とよくぶつかりあう。しかし著書『世界のニュースを日本人は何も知らない』は12万部売り上げという痛快さ。わたしは普段からCakesの連載「世界のどこでも生きられる」を愛読している。

世界のどこでも生きられる|May_Roma|cakes(ケイクス)

続編『世界のニュースを日本人は何も知らない2』は発売当日に買った。ふだんからめいろまさんがCakes連載やTwitterで言っている内容が結構含まれているので、「そうそうこんなこと言ってた!」「英国王室を京都にたとえたことが面白かったのに、入っていなくて残念」というように面白く読ませていただいた。ハリー王子とメーガン妃の王室離脱騒動についての女王陛下の声明を「正しく」訳したくだりは笑いころげながら読ませていただいた。そうそう京都言葉を「正しく」訳すとこうなるよね!!

 

お年寄り向きのゆる〜い散歩番組に飽き飽きして、テレビを見るのは映画や正月特番くらい、ふだんの情報収集はネットニュースというのがわたしのスタイル。

ネットニュースを見ると、新型コロナウイルスへの政府対策について、非難がうずまいている。対策が後手後手にまわっている、医療崩壊を阻止するために緊急事態宣言を出せ、補助金を手厚くせよというのはまだわかるが、「コロナのせいで新規バイトを採用できなくて、元からいるバイトでまわしていたら、働きすぎて103万円の壁を越えそうだ困った」というネットニュースはマジで何を言いたいのかわからなかった。

そんな日本だが、「新型コロナウイルスをかなりうまくおさえている」というのがめいろまさんの主張。アメリカやヨーロッパの国々はマスクをする習慣がなく、マスクをする人を変人扱い、WHOや政府機関も「マスクが感染防止出来る実証データがない」という状態だったため、いまに至るまでも半数近い人々がマスクを拒否している。しかも密集集会あたりまえ、ソーシャルディスタンス完全無視だから、感染拡大を止められない。その理由はこう説明されている。

アメリカや欧州でマスク着用が進まなかった理由のひとつが、マスクの効果に対して明確な研究の裏付けがない、ということです。(…)イギリスをはじめ、アメリカや欧州の人々は実証主義で、データの確実性を重視するため、政府も専門家も確固とした裏付けがない場合、特に医学的な事柄に関しては「これをしなさい」ということをはっきりと言えません。

彼らはデータで証明されていることや、裏付けがあることのみを信用するという、非常にプラグマティックな考え方をする人々です。これはビジネスでも同じで、たとえばオペレーションの仕組みを変更する際に、日本だと経営者や管理者の思いつきで変えることがありますが、イギリスの場合は一定規模の会社なら、まずはデータを収集して本当に効果あるかを検証し、それから導入を考えます。

まさにこの通りと深く深くうなずかされる。アメリカやイギリスの顧客と仕事したことがあるが、重箱の隅も隅、裏付けをとことん要求されて辟易した。ただ、これを新型コロナウイルスに発揮されると、前例も裏付けもないために、うまくいかなくなってしまう。

アメリカなどは民主主義を大絶賛して、独裁政権を批判しまくっているが、槍玉にあげられている中国は、こと新型コロナウイルス感染抑止対策についてははるかにうまくやっている。健康アプリ導入(スーパーなど不特定多数が集まるところの入口、公共交通機関乗車時、アプリ画面を提示しなければならず、感染疑いがある人は利用・入場不可)、市区役所レベルの住民移動監視(地元出身者以外は、氏名・身分証番号・出身地・現住所・電話番号等が入ったリストが地域担当者に配布される)、などなど。移動の自由も個人情報保護もどこ吹く風である。

根幹にあるのは「もののわからない国民は、もののわかった政府が管理しなければならない」という考え方だ。わからずやどもを自由にさせたらなにをしでかすかわからない、だから父親が子供たちを監督するように、政府は国民を監督し、その行動を規制しなければならない。中国政府の基本スタンスだ。新型コロナウイルス対策ではこれがうまくいったと,認めなければならないだろう。

自由であることの代償は、ときにとても高くつく。

『世界のニュースを日本人は何も知らない2』で書かれている各国のコロナ初期対応をみていれば、このことを考えずにはいられなくなる。アメリカなどではマスクをしない自由を求めてデモが起きた。その結果感染拡大している。フランスでは公共交通機関でのマスク着用が義務付けられたあと、マスクをしない乗客に注意した運転手が暴行の果てに殺されている。こういう話を聞くたびに、いろいろ考えさせられる。こういう考え事にうってつけのエピソードが本書には山盛りだ。

 

日本人の諸外国への勝手な期待、そのくせ諸外国の本当の姿を知ろうともしない姿勢、そういうところは、海外暮らしが長い著者にはよく見えるのだろう。

人は自分が見たいものしか見ないというが、自分の意見を相手に押しつけて、期待通りでないからとキレられても相手は「そんなん知るか」である。

わたしがついこのあいだ知ったこと。中国では、日本の戦争関係映像作品には侵略国への謝罪を期待しているから、すずが号泣する『この世界の片隅に』は反省と謝罪の色ありと賛美され、『火垂るの墓』は謝罪がないから中国国内公開NGなんだとか。「はあそうですか」としかいいようがない。これだけ見れば馬鹿馬鹿しい話だが、日本人も似たようなことをやっている。それを書いたのがこの2冊だ。

日本人の思いこみに痛快に切りこみ、考えるヒントを与えてくれる2冊。年末年始の読書にぜひどうぞ。