良書は目の前の霧をパッと晴らしてくれる。
もやもやしていた感覚を明快な言葉で示してくれる。
つながりが見えなかったものごとの関係を示して、全体像とそれぞれの位置付けを見せてくれる。
本書はまさにそうした良書だ。
本書は、人工知能の入門書として真先に名前があがるロングセラーである。
本書では人工知能の技術紹介だけではなく、そもそも知能とはなにかという問いかけや、歴史的観点からの分析もある。著者は、人工知能というものが社会システムの中にどう組みこまれ、それが受け継がれてきた人類の進化の歴史にどういう影響をもたらすのか、ひとつの見方を示そうとしたのかもしれない。
たとえば知能について、著者はある意味理系らしいともいえる回答をしている。
生物に知能があるのも、人間に知能があるのも「行動が賢くなると、生き延びる確率が上がる」という進化的意義によるものであろうから、「入力に応じて適切な出力をする(行動をする)」というのは、知能を外部から観測したときの定義として有力といえる。
それでは学習は? ここでも著者の主張は明快だ。
そもそも学習とは何か。どうなれば学習したといえるのか。学習の根幹をなすのは「分ける」という処理である。ある事象について判断する。それが何かを認識する。うまく「分ける」ことができれば、ものごとを理解することもできるし、判断して行動することもできる。「分ける」作業は、すなわち 「イエスかノーで答える問題」である。
これ以上本書の内容に踏み入れるのはやめようと思う。読むのが一番だ。ただ、読みながら思ったことをこのブログに書き留めておこう。
読み進めていくと、日本で取り沙汰されている「機械代替が不可能な職人技とか熟練工の経験」は、実は、特徴表現学習ができていないだけではないのだろうかと思う。キーとなるのは温度なのか、角度なのか、滑らかさなのか、あるいはその組合せなのか。それを明らかにする手段がこれまでなかっただけで、キーは確実に存在する。
著者がいうように、視覚分野で人工知能による特徴表現学習、ディープラーニングが先行しているけれど、人間には五感があるわけで、残り四感ではまだ特徴量抽出が進んでいない(聴覚についてはSiriなどの音声認識技術があるが)。つまり、なにをモニタリングすればいわゆる「職人技」を再現できるのかがわかっていないのだ。
となれば、触覚情報が取りこめるようになれば一気に人工知能による特徴量抽出が進むかもしれず、熟練工が頼りにしている微妙な手触りなどが、いずれデータ化されるかもしれない。
日本ではビッグデータの利用を過度に警戒する傾向がある。(ちなみにお隣中国では逆にビッグデータ利用の垣根がきわめて低い。理由は説明不要かと)
だが、人工知能の根幹がデータ学習である以上、このことはデメリット以外のなにものでもない。著者はこのことに警鐘を鳴らしている。技術的優位性を確立されればどうなるかはすでに前例がある。コンピュータのOSをMicrosoftに事実上独占されていたことがそれだ。一度プラットフォームが確立されればそこから巻き返すのは至難の技だ。そして世界規模では、ビッグデータの利用範囲をのんきに議論している時間さえも与えられないほど、動きは早い。
著者によれば、最後まで人間の仕事として残る可能性があるのはふたつ。総合的判断と人間に接するインタフェースだ。さて、あなたはどちらのスキルを身につけるだろう?