コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

男と女の視線がからみあうとき《アンナ・カレーニナ》

2018年サッカーワールドカップロシア大会で、決勝トーナメント(個人的には英語のknock-out stageという表現が好きだ)が始まってから地元ロシアの快進撃が続いている。日本は惜しくもベルギーに0-2から3-2の逆転勝利という底力を見せつけられての敗退となった。アディショナルタイム最後の1分でゴールに叩きこむのは敵ながら素晴らしかった。

そのロシアで揺るぎない地位にある文豪トルストイの代表作の一つ《アンナ・カレーニナ》は、勉強を兼ねて中国語で読んでみた。歴史的経緯で、20世紀に入ってから、中国にはロシア文化が多く入ってきている。よいロシア文学の翻訳本も多い。

 

本書は冒頭の一文がとても有名だ。

幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族はそれぞれの不幸の形がある。

 

読み始めてすぐ、心情描写の細やかさと、登場人物たちの人間観察のするどさに気づく。鋭い観察眼は登場人物たちの心境による。夫の浮気という屈辱的な状況に置かれる妻。意中の令嬢が求婚を受け入れてくれるかどうかやきもきする田舎貴族。自分を見初めたと信じきっている男性がいつ求婚するかと待ちきれない令嬢。娘にふさわしい結婚相手をと心砕く両親。ロシア上流階級を舞台としながら、描かれる家庭事情は現代日本に通じることばかり。眼差しから、表情から、仕草から、相手の心情を読み取ろうとして、きめ細かに観察する。そして絶望する。

本書はロシア上流階級の群像劇を描くものの、主人公はやはりアンナ・カレーニナと彼女に言い寄る独身貴族ヴロンスキーだ。アンナは若い貴族将校に恋い慕われるのにまんざらでもなく、ヴロンスキーは独身男性が人妻に恋焦がれるシチュエーションが一面男らしいと見なされると知っているから大胆になれる。社交界は敏感に二人の曖昧な関係に気づいて噂話をたてる。

火遊びであれば色好みのひとつとして下火になっていっただろう。だがアンナとヴロンスキーは次第に秘密の関係に依存してのめりこみ過ぎてしまう。泥沼に引きずりこまれるように、遊びではすまなくなり、禁断の恋愛成就のために生命と社会的地位さえ捨て去ろうと思い始めるーーその矢先、決定的なすれ違いが、けれど二人のどちらも気づかないまま起こる…。

 

だが彼がこの知らせの意味を、女性である自分と同じように理解したと思ったのは、アンナの間違いであった。知らせを聞くと、ヴロンスキーはまるで発作のように、例の奇妙な、なにものかに対する嫌悪の感情を、十倍もの強さで味わったのだった。(光文社古典新訳文庫)

 

読みこむほどに、ものの受け取り方がはっきりとしてくる。アンナの夫カレーニンは世間体のため、情夫を家に入れないという条件でこれまで通りの生活をする。ヴロンスキーはアンナがこのような虚偽と欺瞞に甘んじることが信じられず、アンナがカレーニンとの息子のことを度々口にするのをいまいち理解できない。アンナは出産予定日が近づくにつれて情緒不安定になり、衝動的にヴロンスキーを自宅に呼びつけてカレーニンと鉢合わさせてしまう。

不倫男女の、特に女性側が判断力を失い、支離滅裂で衝動的になってしまえば、たいていは事態が悪化するものだが、この作品も例外ではない。産褥熱で死に瀕したアンナはカレーニンに自分とヴロンスキーを赦すよう求め、カレーニンがそれを受け容れたことで3人の道徳的立場は残酷なまでにはっきりした。もはやアンナとヴロンスキーは「20歳年上の夫カレーニンはアンナを幸福にできない」という自己欺瞞、自己正当化ができなくなった。死の淵にあったとはいえ、他人の子を出産した罪深い妻を赦せる夫、愛情や道徳心のある夫であることをカレーニンは証明した。アンナの回復後、その事実を振り切るように二人は駆け落ちするが、それはさらなる悲劇的結末に向かうことになった。

 

尊敬する「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のブログでは、本書は結婚が捗る本としてとりあげられている。

「アンナ・カレーニナ」読むと結婚が捗るぞ: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

私の感想はまた別の方向を向いているわけだが、結婚生活が長くなれば別の読み方になるかもしれない。さまざまに読み解けるのも名著の味わい深いところだ。