コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

稀代の悪女、それとも?『西太后秘録』

 

西太后秘録 上 近代中国の創始者 (講談社+α文庫)
 
西太后秘録 下 近代中国の創始者 (講談社+α文庫)
 

【上巻】

歴史に名を残す人物の評価はたいてい時代とともに変わり、最初から一貫していることは、ごく一部を除いてあまりない。そもそも人間の性格とは複雑なもので、残された記録がたまたま (あるいは理由があって) その人の性格のある一面を現すものばかりだったのでもない限り、たいていは二面性かそれ以上を示す記録が見つかるものだ。ローマ帝国の悪名高き皇帝ネロなどはその最たる例で、容赦ない肉親殺しの罪に手を染めながら、ギリシャ悲劇を鑑賞しては感動してさめざめと泣いていたという。

世界三大悪女にしばしばたとえられる清の西太后・慈禧(じき) について書かれた本書は、すでに評価が定まっているとも思える女性について、本当にそうであったのか、歴史文書などの手がかりから客観的に読み取ろうとしている。

 

本書は慈禧太后を、古い考えにとらわれていた清王朝の内部にありながらそれらと戦い、外国貿易を積極的に推し進めて列強諸国との間によい外交関係を築き、中国の近代化になくてはならない功績をもつ女性として描いている。失策もあったが、それは彼女が理性的判断よりも感傷を優先させたためであったり、充分な情報を与えられていなかったり、政治的発言権がなかったりしたためで、慈禧太后は誰よりも政治的展望が開けており、彼女なくしては清は列強に食い荒らされるばかりであっただろうとの印象を、本書から受けた。

 

近代化に貢献したすぐれた政治家であったのなら、なぜ、慈禧太后は悪女扱いされたのか?

中国人が「民族に刻まれた永遠の痛み」と表現するできごとがある。第二次アヘン戦争での円明園焼き討ちだ。

円明園とは、北京北西部に広がる、数百年の歴史ある壮麗な離宮であった。第二次アヘン戦争のさなか、清が交渉のため北京に赴いた英仏使節団のメンバーを拷問死させたことで英仏の怒りを買い、北京にさし迫る大軍に恐れをなした皇族が逃亡した。北京に進駐した英仏軍は、報復のために円明園を掠奪、焼き払った。

そもそものきっかけが英仏使節団の拷問死だったにせよ、アメリカ人にとっての「リメンバー・パールハーバー」のように、「円明園焼き討ち」は国辱として中国人の心に刻まれ、列強諸国への憎悪を呼び起こす。

慈禧太后の名前がここに登場するのが、おそらくは彼女が中国人民に憎悪される理由の一つだと思う。慈禧があとさき構わず逃げ出した、だから侵略者はやすやすと北京に進駐でき、中国近代建築の粋であった円明園を破壊しつくしたのだ、と。

 

本書の解釈は異なる。当時慈禧は皇帝の側室にすぎず、そもそも政治や皇帝の行動に口をはさむことが許されない立場にあった。その上、当時の大清帝国はまだ列強諸国の実力を知らず、頑なに近代化を拒み、大砲などすらまともに持たないありさま。そんな状態ではどのみち列強諸国の進軍を止められるはずもなく、皇帝一行が都落ちしたのは必然的であった。英仏連軍が円明園を焼き討ちにしたのは使節団メンバーを殺した報復のためで、使節団への残酷な仕打ちを命じたのは皇帝自身である。したがって、一連のできごとで慈禧に責任を求めることはできない、という説だ。

この説は客観性があると思えるが、正しいかどうか私には判断できない。ただ言えるのは、この説は慈禧太后を国辱と結びつけて考えている人々にはひびかないだろう。中国歴史学者による検証も難しく、正しいかそうでないか、明らかにするためにはさらに長い年月が必要になるだろう。

ちなみに下巻には、2度目の北京占領では連合軍は紫禁城頤和園には手を出そうとせず、むしろ軍を割いて警護した、また頤和園の皇太后居室には立ち入らないなど礼儀をわきまえたという記述がある。円明園を破壊しつくしてしまったことで多少なりと心にしこりが残ったためかもしれない。歴代皇帝が築き上げた最高の芸術品たる紫禁城が助かったのは、ある意味、円明園の破壊が先立ったためかもしれない。そう思うとなんという皮肉だろうか。

 

【下巻】

上巻で形になっていた著者の主張は、下巻でますますはっきりする。日清戦争の敗戦や大清帝国の滅亡の原因が西太后慈禧 (じき) にあるという通説は根拠がうすく、慈禧太后に対する世界三大悪女との非難は不当であると言わざるをえない、という立ち位置だ。

西太后は不当に貶められてきたと著者は言う。功績は過小評価され、あるいは別の誰かのものとされ、彼女を非難する声ばかりが残ってしまったと。だが彼女こそが中国近代化を推し進めたのであり、鉄道、教育、政治体制、メディアなどは彼女の統治下で一新されたという。

中国の近代海軍を創設したのは慈禧だという事実を忘れてはならない。海軍の蓄えのごく一部を慈禧が使ったということはあっても、軍費がそのまま頤和園の建設に流れたのではなかった。日本との戦争に慈禧が積極的に関わらない期間が長かったのは、大寿の準備に熱中していたからではなく、光緒帝が慈禧を関与させまいとしていたからだ。それに、融和どころか、日本の講和条件を退けて戦争を続けるよう明確に主張したのは、朝廷で慈禧ひとりだった。

西太后慈禧をテーマにすることで、この本は中国近代化の道のりを描き出そうとしている。茨と血の道を。

世界最大級の領土、聖人君子の教えである儒教、複数の朝貢国。このすべてに君臨する「あまねく天下の支配者」である皇帝。「万里の長城の外からやってきた野蛮人ども」(列強諸国のこと) が、技術、教育、政治体制などでよりすぐれていると信じられるはずがない。連合軍を北京の喉元に突きつけられてなお現実を受け入れられなかったとしても、無理なからぬこと。だがこのために、自身を守るすべをもたない大清帝国は列強諸国に食い物にされた。

皇帝の現実否認が、逃避が、ようやく変わらねばならないと腰をあげてからは機に乗じてのし上がろうとする者につけこまれる様が、本書では余すことなく描き切られている。結局のところ、人間、認めたくないことは見ようとしないし、変化を嫌がるし、変えようとする人がいればまず全力で止めにかかるのである。個人であれば呆れるだけで済むが、これが皇帝であれば国家存亡がかかるのだから笑えない。

慈禧太后はそのすべてと戦ってきた、というのが本書の語るストーリーだ。そのために彼女は死の床についたとき、日本に利用されることのないよう、光緒帝毒殺まで決断したという。慈禧太后の治世は失敗も多く、清の滅亡を止めることはどうあってもできなかったが、それでも近代化については評価されるべきであるし、史実を無視して非難されるべきでないと、著者は本書全体を通してメッセージを送っている。

 

著者のユン・チアンの前著二冊は、いずれも中国国内では出版禁止である。この本も同じ運命をたどる可能性が高い。本書への歴史的評価は、数百年後を待たなければならないかもしれない。だが、丹念に記録を調べ、一冊のわかりやすい読み物にまとめた著者の才覚となみなみならぬ努力には、ただただ頭が下がる。