コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】語ることを禁じられた時代の記憶《ワイルド・スワン》

 

ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

ワイルド・スワン(上) (講談社文庫)

 
ワイルド・スワン(中) (講談社文庫)

ワイルド・スワン(中) (講談社文庫)

 
ワイルド・スワン(下) (講談社文庫)

ワイルド・スワン(下) (講談社文庫)

 


これは中国に生を受けた著者とその母親、祖母の人生を書いた真実の物語。中国現代社会に興味があるすべての人が手に取るべき本だ。

 

【上巻】

19世紀末に生まれた著者の祖母は、十五歳で北洋軍閥の将軍の妾にされた。20世紀前半に生まれた著者の母親は、第二次世界大戦と続く中国内戦を生き、共産党の地下工作員として目を見張る活躍ぶりだった。著者はそのさなか、1952年に生まれた。

文庫版は全3巻で、上巻は著者が生まれるころまでの、祖母と母親の物語である。

 

自伝や家族の伝記を出すのは、現代日本ではごくあたりまえのことに思えるだろう。だが、現在還暦前後やその親世代の中国人にとっては、苦行以外のなにものでもない。

中国の戦後を生き抜いて (この表現がふさわしい) きた彼らは、みなそれぞれの物語を持っているけれど、それが文字になるのは少ない。「もうあの時代のことは思い出したくない」という人が非常に多いためだ。

悲しい理由がある。思い出そうとするだけで心が耐えられなくなるのだ。著者、ユン・チアンは文庫版前文でこう書いている。

一九六六年から一九七六年まで続いた文化大革命で、私の家族は残虐な迫害を受けました。父は投獄されて発狂し、母はガラスの破片の上にひざまずかされ、祖母は苦しみの果てに亡くなりました。

内戦中に活躍した著者の母親が、なぜ迫害されたか。上巻ではこの時期までたどりつかないが、中巻以降、徐々にはっきりとしてくる。

それだけではない。餓死者が出るような時代で壮絶な苦労をしたからだけではない。時には隣人、友人、親戚、親兄弟を見捨てなければ自分が生き延びられない経験をした人が大勢いる。そのことで今も良心に呵責されつづけている。

中国ではなくカンボジアでの話だが、石井光太氏の著書『物乞う仏陀』に象徴的なエピソードがある。

物乞う仏陀 (文春文庫)

物乞う仏陀 (文春文庫)

 

カンボジアで障害者がどのように生きているのか知ろうとした著者は、ある先天性障害者に会った。その人は旅行者の案内などもする社交的な人だったが、昔のことや生い立ちは決して話さない。著者には理由がわからない。通訳がうんざりしたように、強い口調で言った。

「お前、何人殺して助かった?」

ポル・ポト政権下では、障害者はユートピア建設の足手まといとされて粛清対象だった。粛清とはすなわち虐殺である。先天性障害者が生き延びるすべはただ一つ。障害者の隠れ家を当局に密告し、その手柄と引きかえに見逃してもらうこと。

現地人の通訳はそのことを知っていた。だから脂汗を流すその先天性障害者に容赦なく問う。「障害のある人間が、密告しないでどうやって生き延びたっていうんだよ。カンボジア人を何人売ったんだ?」と。

生き延びたこと自体が、加害者側であった証。そうみなされる時代が、実際にある。

ユン・チアンが書くのは、中国におけるそんな時代の物語。誰もが思い出したくないことを血と涙とともに文字に凝縮させた、中国の祖父母世代と親世代の物語だ。

 

ちなみにこの本は、中国本土では出版禁止である。

 

【中巻】

中巻では著者の少女時代に物語がうつる。1950年代から1960年代にかけて。この本は中国本土では出版禁止だが、この中巻を読めば理由の一端にふれられる。

 

1959年からの三年間を生きた年老いた中国人に、当時のことを聞くと、一様に顔色を変えて口が重くなるという。

中国には「三年自然災害」という言葉がある。1959-1961、三年間続いた大飢饉のことだ。正確な統計数字は存在しないが、数千万人が餓死したといわれる。その時代を生きた人々は例外なく、家族が、親戚が飢餓にあえぐのを見た。衰弱しきった人々が口に入るものを求めて幽鬼のごとくさまようのを見た。ついには人肉食に手をそめてまで餓死から逃れようとした人々の話を聞いた。

この悲劇は言葉通り自然災害のためというのが公式見解だが、中国国外の歴史家たちは、毛沢東の経済政策の失敗による人災と見るむきも少なくない。実際、この時代は「大躍進」と呼ばれる西側諸国に追いつけ追い越せの大運動が毛沢東主導で全国的に巻き起こっていたが、ノウハウも近代的な農業機械すらない状態でうまくいくはずもなく、むしろ農地を荒れさせた。一方で非現実的な「成果報告」(もちろん虚偽)をして、大躍進の成功を大々的にアピールすることが奨励、いや、事実上強制された。著者の言葉を借りればこういうことだ。

とほうもない作り話を他人にも自分自身にも吹きこみ、それを信じこむ、という愚行が国じゅうで行われた時期であった。

著者は当時まだ10歳にもならない少女で、父母が共産党高級幹部だったために飢餓から守られた。高級幹部専用のアパートメントに住み、外の世界でなにが行われているのか知らないことも多かった。だが著者の父親は見た。視察に赴いた農村で、痩せ衰えた人間が突然倒れて事切れるのを。このことは父親に強烈なショックを与え、共産党支配や自分自身の役割について、自省するきっかけになった。盲目的に信頼していた共産党とは、と、考えるきっかけはこのとき芽生えたのかもしれない。後日著者の父親は文化大革命のさなか、毛沢東を批判したために投獄され、狂気にむしばまれる。

毛沢東は宮廷政治における権謀術数を記録した数十巻にのぼる『資治通鑑』を愛読しており、他の指導者たちにもこれを読むよう勧めていた。実際、毛沢東の支配は中世の宮廷に置き換えて見るのがいちばん理解しやすい。

文化大革命」という言葉は、その時代を生きた中国人にとって、恐怖と惨劇と破壊と暴動と混乱を足して割らずに二乗するほどの意味をもつ。それこそが文化大革命の真の目的でもあったというのが著者の意見だ。文化大革命のさなか、紅衛兵という十代から二十代の若者を中心とし、毛沢東に絶対的忠誠を誓う組織が暴虐の限りを尽くしたが、彼らは毛沢東が妻江青を通して煽動した。これは権力闘争の一環だった。共産党そのものを事実上解体し、毛沢東ただひとりに権力を集中させるために。

人民を思い通りに動かそうとするならば、党から権威を奪い、毛沢東ただひとりに対する絶対的な忠誠と服従を確立しなければならない。そのためには恐怖という手段が必要だ。それも、あらゆる思考を停止させあらゆる懸念を押しつぶすような戦慄に近い恐怖が必要だ。毛沢東の目には、十代から二十代はじめの若者が格好の道具と映った。

血気盛んな若者たちが大義名分や個人的恨みのために、批判してもよいと言われた教師や知識人たちになにをしたか、両親の身体がどのように殴打や拷問にさらされたか、精神が、尊厳が、どのようにふみにじられたか、身の毛のよだつような体験を、著者は冷静さを失わない文章でつづる。

けれどもこれを書き上げるために著者はどれほどの夜を涙で明かしたことだろう。文章が感情的にならないようにどれほど自制心をきかせなくてはならなかっただろう。それでも著者の押し殺された慟哭が、それが文章の間から血臭のように匂い立つのを感じる。

 

迫力ある文章は、書き手が血の滲むような経験を、さらに追体験することで生まれる。

これまで私が読んだ中で、最も痛々しい文章を書くのは作家の柳美里さんだが、ユン・チアンはそれに勝るとも劣らない。

柳美里不幸全記録

柳美里不幸全記録

 

文化大革命の混乱と破壊の中で、どんなに痛めつけられようとも尊厳を失わず、信念を貫こうとする両親の姿を抉るように書いて、中巻は終わる。

 

【下巻】

下巻では、中巻までに書かれたこの世の地獄そのものの光景から、徐々に上向いていく。

 

少女時代からおとなにならざるを得なかった著者は、都会から農村に送られる。両親も同様で、家族はバラバラになった。祖母は苦しみの中で世を去り、父親の狂気はなんとか再発しなかったものの、重労働を課せられて健康状態が悪化した。

だがこのころから政治状況がしだいに改善する。毛沢東が死去し、文化大革命を煽動した江青一派(もちろん背後には毛沢東の容認があった) が投獄され、中国はしだいに改革解放にむかう。

それでも著者の文章には一抹の陰が消えない。文化大革命の十年で、中国は美しいものをことごとくなくしてしまったと言葉少なに語る。今日、残念ながら中国人観光客はほとんどマナー知らずの代名詞になっているように思う。自己中心的なふるまいは、あるいはこの時期に種まかれたのかもしれない。時には実の肉親を告発し、また縁を切らなければ生きてゆけなかった時代に、思いやりの心が育つはずもない。

 

祖母、母、著者の三代にわたる自伝は、とほうもなく強いエネルギーをもっている。狂乱の時代に翻弄されるさまを書ききることで当時の状況をみごとに描き出しているし、その時代に流されずに己の信念を貫こうとした人々の気高さが映し出されている。読むほどにこちらにまで迸るエネルギーが迫ってきそうな、傑作だ。