コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】死と税金のほかには、確実なものはなにもない『リスク・リテラシーが身につく統計的思考法』

 

【読む前と読んだあとで変わったこと】

  • 保険屋やニセ医学推進者がいう「病気にかかるリスク」をとりあえず疑ってみる基本的姿勢が身についた。
  • 新型コロナウイルスPCRによる全数検査に臨床診断上の意味がないことをある程度理解できた。またリスク・リテラシーについてしっかり書かれている記事を選んで読めるようになった。

 

「数理を愉しむシリーズ」を読むのは初めて。すばらしいシリーズだ。面白くて、役立つ。

 

本書が言いたいことはーーベンジャミン・フランクリンの名言「死と税金のほかには、確実なものは何もない」。病気診断から交通事故まで、100%確実と言えることはなく、専門家はそのリスクを誤解のない方法で正しく伝える努力をするべきだ、ということが本書の根幹内容だ。

伝える努力をするときには、「うまい表現」を考え抜く必要がある。理解しやすい表現と混乱を招く表現(あるいはたとえば高いお金を払わせるためにわざと誤解させる表現)があるからだ。

本書で取り上げられている例を紹介する。どちらも同じことを言っている。これをふまえて、ある女性の乳がん検査結果が陽性であるとき、彼女が実際に乳がんである確率を考えてみてほしい。

 

①女性が乳がんにかかる確率は0.8%です。また乳がんであれば、検査結果が陽性になる確率は90%です。乳がんでなくても、陽性と出る確率は7%です。

 

②女性は1000人あたり8人が乳がんにかかります。この8人の女性のうち、7人は乳がん検査で陽性と出ます。乳がんではない992人の女性のうち、約70人はやはり検査結果が陽性になります。

 

②の方が、検査結果が陽性である77人のうち7人が乳がんであるから、11人に1人、9%と正解にたどり着きやすいだろう。

 

もう一つの内容は、検査結果の不確実性だ。

病院で健康検査を受けるとき、多くの方々が、検査結果は100%正しいと思うだろう。そうではない。偽陽性という、病気にかかっていないのにかかっているかのような検査結果が出る状況がある。ごくたまに検査サンプルが間違っていたり、うまく検査できなかったりすることがある。だから複数の医師にかかり、複数回検査を行うセカンドオピニオンが推奨される。たとえあなたが乳がんの疑いありと宣告されたとしても、一定数の女性は偽陽性結果が出てしまうもので、ほかの検査を受けるまでは、確実ではない。

このこと自体は喜ばしい知識に思える。だが病気にかかっていないにもかかわらず陽性が出る人がいるということは、逆に、かかっているのに陰性になる人もいるということだ。もし、それがエイズ患者なら?  もし、その人がすでに複数回、善意の献血をしていたら? 

不確実性を知ることには、このようにメリットとデメリットがある。誤診、冤罪、人の一生を変えるようなことが起こりうると認めること。これによって支払うことになる不安感という心理的コストは小さくない。

これについて、本書で引用されていたカントの言葉を記そう。

啓蒙とは、自分で自分に課した未熟から立ち上がることだ。未熟とは、よそからの指導なしには自分の理解力を行使できないということである。この未熟さは、その理由が理解の不足にあるのではなく、よそからの指導なしに自らの理性を用いる勇気のなさとためらいにあるとき、自ら課したものとなる。知る勇気をもて!

カントの言葉は、これまで確実な答えを得られたと安心できていたのに、それができなくなり、自らの理性で答えを見つけなければならなくなることを指している。

 

不確実さが信じられないほどの不安感とストレスをもたらすことを、私は大学時代に経験した。

大学時代に私は、エリザベス・ロフタス博士著『目撃証言』という本を読んだ。犯罪目撃者の証言、あまりにもショックで「脳裏に焼きついた」ゆえに高い確実性があるはずの記憶に基づく犯罪目撃証言に、実は不確実性があるーーはっきり言えば記憶は、思いこみ、印象、言葉表現で簡単に違ったものに変化しうるから、その人が犯人であるかどうかという決め手として信じきるべきではないーーということを、さまざまな裁判事例、凶悪な連続殺人犯を相手にしたものも含めて説明している本だ。

この本を読み終わったあと、私は強烈な不安感に襲われた。

犯罪目撃という強烈な記憶ですら、実はカンタンに変化してしまうというのなら、普段の記憶などますますあてにならないではないか?  私が覚えていることはすべて、実は私が作り出した幻なのか?  だって、同じ体験をしたはずの二人の記憶が食い違うのは、日常的によくあるではないか?

そんなことが頭の中をぐるぐる回った。記憶は簡単に上塗りされるものであり、頼りにならない、という読書体験は私を打ちのめした。

知る勇気というのは、こういうことだ。打ちのめされるようなことも知ることになる。自分の記憶が頼りにならない、自分が当たり前だと思っていた生活習慣や価値観がちっとも当たり前ではなかった、自分や大切な人のこれまでのやり方が間違っていた、など。

知ることを、知る自由を、選ぶ。勇気と覚悟がいる。

だがそれでも、私はそうするつもりだ。