コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

タイトルがブラックジョークにしか見えない『弥栄の烏』

悲しみながらもぞっとする結末。「弥栄」とはますます栄えるという意味だが、全部読み終わったあとにこのタイトルを見ると、ブラックジョークに見える。

 

本書は八咫烏シリーズの六作目にして、第一部完結篇。舞台は八咫烏が支配する山内と人間界とを行き来する。第五作『玉依姫』を、八咫烏側から見た物語だ。

これまで八咫烏の天敵とされてきた大猿達だったが、『弥栄の烏』で大猿側の事情が明らかになったとき、わたしは大猿に強く感情移入せずにはいられなかった。第四作『空棺の烏』では身分差別を書ききった著者が、今作ではべつの理不尽な現実をとりあげた。

著者が思い描いているのは、おそらく、先住民と侵略者。

このことに気づいたとき、わたしが「先住民」と理解したのはなぜか、差別問題がくすぶるアイヌ民族アメリカンインディアンではなく、大和民族ーー日本人だった。

日本列島に古くから住みついてきた大和民族は、彼らなりの伝統や文化を育んでいたのかもしれない。彼らの言葉、彼らの叡智、彼らの文明があったのかもしれない。だがそれは、大陸からきた唐渡り人達がもたらした文化の激流に呑みこまれてしまった。今ではもう大陸文化の影響が強すぎて、古い古い土着文化を見分けられなくなってしまったーー。

不思議なことに、最初に脳裏に浮かんだのはこのことだった。

終盤に書き付けられた言葉のせいかもしれない。不気味にひびいて、ぞっとする結末のまま幕引きする言葉。先住民の最後の生き残りから、侵略者の末裔に向けた渾身の言葉。

「なあ。自分の罪を、自分にとって不都合な部分をすべて忘れた生き方は、楽しかったか?」

残された人々は、それでも、愛する者たちを守りながら生きていかなければならない。八咫烏第一部は徹底的なすれ違いを残したまま終わり、第二部の悲劇的展開を予感させる。