コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

国家に潰されるということ『A3』

 

A3 上 (集英社文庫)

A3 上 (集英社文庫)

 
A3 下 (集英社文庫)

A3 下 (集英社文庫)

 

たまたま全文無料公開されていることを知り、オウム真理教のことを知るために読んでみることにした。

https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac

読み続けるのが苦しくなる本だった。テーマはオウム真理教でも教祖麻原彰晃でもない。

「国家権力を総動員してでも、違法行為や超法規的措置や例外をことごとく容認してでも、必ず潰さなければならない」

そう認識されたとき「潰される側」がどういう仕打ちにあうか、記録し、問うことだった。

 

地下鉄サリン事件が起こった1995年3月、わたしは兵庫県在住だった。阪神淡路大震災の報道をもう見たくなくてほとんどテレビをつけていない時期だった。

インターネットも今日ほど発達していなかったから、全国を震撼させた凶悪事件だったにもかかわらず、リアルタイムで報道を見聞きした記憶はほとんどない。また、関西在住のわたしにとって、一度も行ったことがない東京というところは、どこか遠い地に感じられた。麻原彰晃という名前は知っていたが、彼がなにをしたのかは、ぼんやりとしか印象がなかった。

オウム真理教について初めて読んだ本は、『悪魔のお前たちに人権はない』というタイトルだったと思う。

麻原彰晃が残した就学年齢の子どもたちが、住民票受理を拒否され(ちなみに元信者の転入届不受理問題は最高裁で違法判決が出ている)、義務教育すら受けさせてもらえずにいるのを、なんとか小学校に入学させようと支援者の女性たちが孤軍奮闘することを書いたノンフィクションだった。人権とはなにか、父親の罪故に子どもたちを村八分にするのは正しいのか、ずいぶん考えたように思うが、どういう結論が出たかはもはや思い出せない。

2018年7月6日、麻原彰晃始めオウム幹部の死刑が執行されたとのニュースを皮切りに、ふたたびオウム真理教の報道にふれる機会が多くなった。聖路加病院の故日野原重明院長の英断により多くの地下鉄サリン事件被害者が適切な治療を受けられたこと、元信者の林郁夫の全面自供をきっかけに事件が一気に解決に向かったことなどを知った。

その時はエリートと呼ばれる人々がこぞってオウム真理教に入信したことに多少興味をもった。冷静な判断力をもつはずの人々がなぜ狂信的教団に加担したのか、知りたいと思ったが、あえて調べるほど興味が高まったわけでもなく、すぐに忘れた。

いま、若い人達は、オウム真理教の名前を知らないことが多くなってきたという。事件が時間とともに風化していく中で、久々に読んだのが本書だった。

 

本書は当時の連載記事を一冊の本にまとめたもの。オウム真理教をめぐる当時の状況、それに著者が覚えた違和感を、なるべく客観的に記述しようと試みている。

読み始めてすぐに、なぜネットでの無料全文公開に踏み切ったのか、なんとはなしに想像がついた。それだけ読んでほしかったのだろう、できるだけ大勢の人々に。

 

本書で繰り返し述べられているのは、「オウム真理教をめぐる警察・裁判・ジャーナリズムの異様さ」。

オウム真理教相手にはなにをしても許されるとばかりに、別件逮捕の濫用、裁判での精神鑑定不適用、違法な転入届不受理などがあったと、そういったことを感情をできるだけ交えず客観的に、オウム真理教の善と悪の倫理判断に踏みこみすぎることなく、淡々と記述している。

たとえば、傍聴席から見た麻原彰晃はまともな精神状態になく、話があちこちにとんで混乱を極めていたように見えた。そのため裁判を進めるにあたっての判断能力、すなわち訴訟能力(責任能力ではない)に問題ありと著者は見立てた。だが、なぜか一審では精神鑑定は問われなかった。著者からは、麻原彰晃は逮捕時はまともだったのに公判時には「無残に崩壊していた」ように見えた。反抗的な麻原に過剰な向精神薬が投与されたためではないかとの噂がたった。

熊本では、ふつうなら行政指導をすることでも、オウム真理教がからめばいきなり警察が家宅捜査に入った。こういったさまざまな動きが、著者に「まともだろうか」と思わせるきっかけとなったらしい。

戦後最も狂暴で凶悪な男として語られるこの悪の特異点は、裁判においても一審判決確定で審理が打ち切られるという特異点になった。あらゆることが異例だった。でも異例であるはずのあらゆることが、麻原であるという理由でことごとく整合化された。

こうして異例は前例になる。オウム以前とオウム以降とで、日本社会は明らかに変質した。ならば特異点の特異性を見きわめねばならない。何がどのように特異なのかを知らなくてはならない。

さまざまな前例が残り、通信傍受法などの法規が、オウム真理教事件をきっかけに成立した。

著者が恐れているのはこのことだ。

オウムが消滅したとしても法律は効力を保ち、前例は残り続ける。地下鉄サリン事件のことなど知らないという若者が確実に増えてきているにもかかわらず、彼らは法律や前例の影響を受ける。そしてオウムがいなくなれば、法律や前例は存在意義を失うかといえば、そんなことはない。それらは新しい適用先を見つけて生き残ることがある。新しい適用先がなにかは、誰にもわからない。

歴史上、日本は同じことをやったことがある。悪名高い治安維持法だ。

もともと治安維持法は皇室反対論者や共産主義者を取り締まるためにつくられた法律だったが、取り締まるべき対象がほぼいなくなると、そのためにつくられた特別高等警察組織は存亡の危機に立たされた。だが、いったん成立した組織は、それ自体が存続し続けようとするもの。特高がとったのは、治安維持法の検挙対象を拡大するという方法で、それがしだいに過剰なまでの団体活動の弾圧につながった。

治安維持法について、Wikipediaにはこうある。

検挙対象の拡大

1935年から1936年にかけて、思想検事に関する予算減・人員減があった。

1937年6月の思想実務者会同で、東京地方裁判所検事局の栗谷四郎が、検挙すべき対象がほとんど払底するという状況になっている状況を指摘し、特別高等警察と思想検察の存在意義が希薄化させるおそれが生じている事に危機感を表明した。

そのため、新たな取締対象の開拓が目指されていった。治安維持法は適用対象を拡大し、宗教団体・学術研究会(唯物論研究会)・芸術団体なども摘発されていった。

 

オウムは特別だ、オウムにしか適用しない、という言い訳で果たして安心できるだろうか、というのが、一貫して著者が問いかけていることだ。

オウムと同じレベルのことをやらかす団体がもし現れたら、「この団体はオウムと同じ、いやそれ以上の巨悪だ」という共通認識が生まれ、同じことがその団体にも適用される。こうして第二、第三の適用対象が現れ、例外はいつのまにかそうでなくなってしまう。これこそが著者の恐れることだ。

オウムがやらかしたのは東京での毒ガスを用いた大量無差別殺人行動だ。こういうことはめったに起こらないーーといっても、9.11の同時多発テロ以後、ヨーロッパ諸国の首都では、イスラム過激派による小規模テロはもはや珍しくなくなってしまった。日本がアメリカの同盟国である以上、他人事ではいられまい。

オウムは特別である。オウムは例外である。暗黙の共通認識となったその意識が、不当逮捕や住民票不受理など警察や行政が行う数々の超法規的(あるいは違法な)措置を、この社会の内枠に増殖させた。つまり普遍化した。だからこそ今もこの社会は、現在進行形で変容しつつある。

 

著者の問いかけについて、わたしは答えをもたない。そして答えをもたないことについて、わたしはそれほど関心をもたない。

この問いかけを意識してのことではないだろうけれど、ひとつの思考実験として参照できそうなのが、小野不由美先生著『落照の獄』。著者がそれを読んだかどうか、わたしが知ることはないだろう。

この本は次の言葉で締められている。麻原彰晃らオウム幹部の死刑が執行されたいま、それは現実になった。

そのときに自分が何を思うのかはわからない。でもこの社会がどのような反応をするかはわかる。
それはきっと、圧倒的なまでの無関心だ。