コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

親になったら起こる良いとは限らないこと『子育てのパラドックス』

 

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

子育てのパラドックスーー「親になること」は人生をどう変えるのか

 

私はこういう「子育ては最上の喜びである」「親と子は本能的な愛情で結ばれる」などといったジジババの石器時代からのお説教を、科学的手法に基づいた研究結果で反論する本が大好きだ。

「子育てはときに辛いものだし、そう感じることは少しも恥ではない。母性本能なんてのが全人類に備わっているのなら、乳幼児虐待死がこれほどたびたびニュースになることはありえない。子育てにはもちろん楽しみがあるだろうけれど、苦しいと感じることも決して間違いではない」

こういえばジジババ世代から猛烈な反撃を食らいそうだが、常識で考えて、連続して3時間以上眠れない生活が続き、やりたいことを我慢してすべてを子供優先でスケジュールを組まざるをえなくなることを、慣れないうちに、辛いと感じない人間などいるはずがないんである。

ジジババ世代が「子育ては辛いこともあるもの」ということを頑固に否定するのは、嫌な記憶を忘れて良い記憶を残しやすい人間の心理的傾向が働いているか(本書にもその記述がある)、自分が辛い思いをしたのだからこれから親になる人々も同じ思いをするべきだと無意識に思っているか(そうでなければ、自分はしなくてもいい苦労を無駄にしたことになる、そんなことは断じて認められない)、どちらかだろう。

それでも子供がほしいと決めたのなら、本書の副題にあるように、「親になることは人生をどう変えるか」ということを、親になる前に多少たりとも知っておいて損はない。良きにつけ悪しきにつけ、親になると人生は思ってもいなかった方向に変わる。本書は「実際には体験してみないとわからない」とことわってはいるものの、親になるということについて、あらかじめ多少の知識をつけるのにうってつけだ。

 

【小さい子供がいる家庭】と言われて最初に思い浮かぶのはなんだろうか。乳幼児期の夜泣き、少し大きくなってからのイヤイヤ期、一秒も目を離せない子供の気まぐれさ、どうしてそうしたいのかさっぱりわからないさまざまなふるまい(たとえば水溜まりでわざと泥だらけになってみる)などだろうか。

子供が聞き分けが悪いと、親のイライラゲージはたまる一方になるが、著者によれば、残念ながらこれが子供にとってあたりまえの状態らしい。

大人が幼児の行動に苛立つ理由には、生物学的な根拠がある。額のすぐ内側にある脳の一部、前頭前皮質が、大人の場合は完全に発達しているのに対し、幼児ではほとんど発達していない。前頭前皮質には実行機能、つまり考えを整理し、行動を管理する機能がある。これが働かないと、人間は意識を集中することができない。小さな子供と接するときにストレスのたまる原因はここにあるーー子供の注意力は散漫なものなのだ。

子供はお着替えをしてもすぐに脱いでしまったり、服をおもちゃに遊び始めたりして、まったく集中できない。朝、出かけるときに子供がちっとも言うことを聞かないため、焦った親がついつい声をはりあげるのはよくあることだ。

また、子供ができると、夫婦関係もそれまでと変わる。生活が子供中心になり、大人が我慢を強いられることが増えるだけではなく、しつけをめぐって夫婦喧嘩することも増えてくるからだ。

著者によると、これはたんなる夫婦間の意見対立よりも根が深いという。子は親の背中を見て育つ。そのことを知っている親は、無意識のうちに「どういう姿を子供に見せるべきか?」ということを判断基準としてしまうことがある。たとえば夫が帰宅後、靴下を脱ぎ散らしたまま片付けようとしなかったりすると、妻は「やめてよ、子供が真似しちゃうでしょ」と文句を言いたくなる。逆もしかり。

(子供が生まれてからけんかが増えるのは)単に仕事上の習慣やしつけの方法について争っているだけではないのだ。未来をめぐるーー自分たちがどういうロール・モデルであるべきか、どういう人間になりたいか、子供にどう育ってほしいかについてのーーけんかなのである。

このようなことは、実は子供が思春期になってからの方が強烈だ。小さい子供はただ親の真似をするだけだが、反抗期のティーンエイジャーは、親のすることが好ましいかそうでないかを情け容赦なくジャッジし始める。 子供に向き合うのは、体力的にも精神的にもタフなことになる。子供は一番身近な親に似るものだが、ときに親の方が自分自身そっくりのふるまいを見せつけられていたたまれなくなる。

子供は、わたしたちの最も恥ずべきおこないやひどいまちがいの目撃者になる。たいていの親はそうした悪癖やエピソードをーーそしてそれが引き起こした苦痛をーー厳密に語ることができる。思春期の子供が親の欠点やまちがいに対してしばしば辛辣で過酷な観察眼を持っているのもつらいところだ。この観察眼は子供が親を遠ざけるため、自分と切り離すために使う道具となる。

 

このように本書では、親の変化、悩み苦しみ、葛藤はあってあたりまえだということを、さまざまな研究結果や、実際に著者が知り合った親子たちへのインタビューでつづっている。それぞれの悩みは親であればよく経験することにも思えるけれど、当の本人にとっては自分一人の深刻な悩みのようにも思えるときがある。

本を読みながら、私自身の子供時代や、子育てをしている友人たちを思い浮かべてみた。

幼稚園の頃のやんちゃ、親に口答えはしょっちゅう、なんとかして親の目を盗んでつまみ食いをしようとする、アイスクリームをほしがって泣きわめく、ごはんを残しては叱られる、夜遅くまでなかなか寝ない、などのエピソードがすぐさま思い浮かぶ。私自身そうだったし、友達やその子供たちもそういうエピソードが必ず一つ二つでてくる。当時はそれがあたりまえだと思っていた。我慢する意味がわからなかった。

少し大きくなり、親に勉強や習い事を強制されると「やりたくないけど親のためにやってやっている」気分になった。思春期になると服装や趣味に口を出してくる親との衝突が増えた。親子喧嘩で母親が泣き出したことも一度ではない。自分が母親を泣かせることができることを私は承知していた。非行に走ることこそなかったが、反発心は常にあった。

本の中で母親側が語る子育てエピソード。かつては母親たちがそれらのエピソードの主人公だった。私もまた、子供をもてば、かつての自分自身を遠くの棚の上に放り投げて、子供がいうことを聞かないとこぼすかもしれない。

本書の題名「子育てのパラドックス」は、そういう意味がこもっているのだと思う。かつて自分自身がやっていたことを、子供にやり返される。自分の恥ずべきふるまいを子供にそっくり真似される。腹立たしくなる一方、自分自身が通ってきた道だと思うとおかしくもなる。ときには自分自身がうまくできなかったことをうまくこなしてみせた子供に腹を立てたり、子供が若さゆえに間違いをおかしてもやりなおせる時間があることを羨ましく思うこともあるかもしれない。けれど、子供は親とは違う存在なのだし、結局のところ、完璧に親の望んだとおりに子供が育つわけでもない。

子育ては苦しいこともある一方、本書では「子育ての楽しみは科学的に測ることがとても難しい(したがって楽しみが多いか苦しみが多いかわからない」という表現で、子育ての喜怒哀楽をまとめている。良きにつけ悪しきにつけ、子供は親の人生の一部となるのだから。