コーヒータイム

日々読んだ本を紹介しています。英語や中国語書も時々。面白そうだと感じる本があれば、ぜひあなたも読んでみてください!

子育ては、あわてず、あせらず、マイペース『子どもへのまなざし』

 

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

子どもへのまなざし (福音館の単行本)

 

有名な子育て書。著者は30年以上小精神科医をしてきており、本書はおそらく著者が出会ってきたであろうお父さん、お母さんや、世間一般の父親、母親に語りかけるように書かれている。不思議とやすらげるような文章は、著者自らか書いているように「子どもを幸せにするには、まず親を幸せにしなければならない」という考えから、押しつけがましくなく、控えめすぎず、けれども経験に裏打ちされた自信をもって、語りかけているからかもしれない。

語られることはたくさんあるけれど、核心となるメッセージはそれほど多くない。手を変え、品を変え、繰り返し語りかけることで、いつのまにかメッセージが頭に残るようになっている。

「乳幼児期は人格の土台をつくりあげる時期で、この時期に子どもの望むことを望むだけかなえてあげることができれば、子どもは他人への信頼と自分への信頼を育むことができ、安心して次のステージに行くことができます」

「発達には段階があって、ひとつできなければ次へはいけません。厳しくしつけたり、急かしたりして、一見早く進んだように見えてもそれは見かけだけで、いずれやり直しをしないと次の成長段階へはいけないようになっています」

「しつけは焦っても急かしてもいけません。繰り返し教えながら、子どもができるようになるまでのんびり待つのが一番です。あまり急かすと、子どもに『これができないとお母さんは自分をほめてくれない、好きになってくれない』というメッセージを伝えることになり、そうなったら最悪です。条件つき愛情になっては、子どもは大人の顔色をうかがうばかりになり、自主性が育ちません」

おそらくこれは、普段著者が子どもたちの親に語りかけている方法をそのまま使っているのだろう。子どもが問題行動を起こして手がつけられないと、子どもを精神科医に引っ張ってくるような親は、いきなり「あなたの子育てではこの発達段階をうまく子どもにクリアさせることができなかったんです」と、問題が自分自身にあることをつきつけられても受け入れられるはずがない。特に母親は、子どもが荒れていることですでに十分責められていることがほとんどで、精神科医に来てまで責められるのかと思った時点で、ひどく警戒してしまうだろうことは想像に難くない。

だから著者はなんども同じことを語りかける。語り口がとても上手だから、同じ話を聞かされていると感じて退屈になることなく、いつのまにか言いたいことがちゃんとわかるように、文章も順番も考え抜かれている。

本書を読むと心地よく感じるのは、そういうところかもしれない。

 

あえていえば、この一節が、本書の言いたいことをほとんどすべて含んでいるだろう。

要求のある子どもには、その要求を満たしてあげなければ、つぎのステップにはいけないのです。一時的にはみせかけの前進というのをしますが、残念ながら本当の発達ではないのです。そういう意味では、子どもが健全に育っていくためには十分に依存体験をする、自分の望みを十分かなえてもらうことによって、人を信じ自分を信じ、自立をしていくという、最初のステップがあるということです。

 

私は、本書でいう「人を信じることができないから、自分を信じることができず、豊かな人間関係を築くことができない子ども」だったと思う。

私は両親のことを信用していないと自覚している。なぜなら私のほしいものではなく、自分たちが「これがほしいはずだ、ためになる、役立つ」と思うものを押しつけられた記憶しかないから。

おかしいなと感じ始めたのはおそらく思春期ごろで、そのときはすでに親に対する反抗心を持つことをほとんどあきらめ、言われたとおりにただ流されている日々だった。親の過干渉は勉強や進学先に集中していたが、時には衣食住に及んだ。私に許されたのは、押しつけられたものを好きじゃないと思えばその辺に放置して二度と目を向けないことくらいだったように思う。

その頃から今まで、なにかあっても母親に相談などしたくないし、結婚したいなどという重大事であっても、ぎりぎりまでひっぱってから報告するにとどめた。私にとって、大人になるということは、「もう母親を喜ばせるためにやりたくもないことをしなくてよくなる」ことだった。

だが、姉妹は私とは違う感情を親に抱いているらしい。自己評価が低いことはおなじだけれど、姉妹は母親にいろいろ相談するし、かなり繊細な悩みも打ち明けるようだ。

なぜ姉妹でこんな違いが生じたのか、私にはわからないが、いつだったか母親が「あんたは厳しくしつけたけど、あの子のときはあんまりかまわなかったわね」と言っていたから、姉妹には、「ほしいものをもらえず、ほしくもないものを押しつけられた」経験が少ないのかもしれない。

私が両親、とくに母親からなにをほしがっていたのか、高校生のころにははっきりわかっていた。

私を信頼してくれること。

私に自分で判断させてくれること。

私に意見を押しつけないこと。

おかしなことだけれど、私は成人してからの一時期、間違いをおこすことをわざとやっていた。実家にいたころは母親があらゆることに先回りし、私がしようとすることを否定して「こうするのが正しいのよ」と押しつけてきた。だが私は、自分で判断を下すことや、そのために生まれるであろう間違いまでを経験することを望んでいた。それが「あとから考えるとわざと間違えたとしか思えないようなミスをする」行動に結びついたのかもしれない。

こうして見ていくと、私は本書でいう「ほしいものをほしいだけかそれ以上に与えられる過保護」ではなく、「過干渉」によって育てられた子どもだと思う。成人した今でも、自分がしたかったことを母親の強権でさせてもらえなかったことが強い恐怖体験として記憶の奥底にこびりついている。還暦をすぎて気力体力ともに私に及ばなくなった母親が、もはや私になにかを強いることは難しいことを十分分かりつつも、実家にそうたびたび戻る気にはならないし、戻ったとしてもほとんど日帰りだ。母親は、いまだに私がなぜ辛かったのかを理解できずにいる(「あんたは子どもなんだからどうせ間違いをする、そうなる前にどうすればいいのか教えてあげることのなにが悪いの?」)から、私もいまだに母親とあまり話したくない。

一方で、かつてやりたかったこと、ほしかったことを追いかけて「やり直し」をせずにはいられない。私は幸運にも良い出逢いにめぐまれたが、振り返れば、大人になってからの乳幼児期の「やり直し」は、想像を絶するほど難しかった。私の「やり直し」はまだ終わっていない。自己判断だからどこまで正確かはわからないが、今は幼稚園児〜小学児童時期の「やり直し」をしているというのが一番しっくりくる。

 

自分のようにはなってほしくないから、子育てには気をつけようと思う一方、自分が子どもをもったら、母親と同じことを無意識のうちにしてしまうかもしれないという恐怖はつねに心の中にある。不安でたまらなくなったとき、私は「自分が子どものころに感じていたけれどもうまく言えなかった」ことを書いてくれている本を読む。本書『子どもへのまなざし』は、私のような育ち方をした人々が、自分の子育てをするにあたって、何度も読み返したくなる本の一冊だと思う。