コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

21世紀情報戦争の一部としてとらえるべき『フェイクニュース 新しい戦略的戦争兵器』

これまでフェイクニュースといえばデマや風評被害のようなもので、すぐにネットで検証されてウソがばれるから気にしなくてもよい、程度の認識しかなかった。

その認識がものすごく甘いことを、読書開始後3分でつきつけられた。

ネット世論操作は近年各国が対応を進めているハイブリッド戦という新しい戦争のツ ールとして重要な役割を担っている。ハイブリッド戦とは兵器を用いた戦争ではなく、経済、文化、宗教、サイバ ー攻撃などあらゆる手段を駆使した、なんでもありの戦争を指す。この戦争に宣戦布告はなく、匿名性が高く、兵器を使った戦闘よりも重要度が高い。

戦争という言葉が出てきたことも驚きなら、著者がフェイクニュースをここまで重大にとらえていることにも驚いた。

だが、しばらく前に、イギリスのEU離脱の背後にあった大規模なビッグデータ解析とSNS情報操作をとりあげた映画を見たことがあったから、フェイクニュースの重大さはともかく、ネット世論操作の威力を小さく見てはいけないことについては、その通りに思えた。

読み進めるにつれて、フェイクニュースネット世論操作の一手段にすぎず、ほんとうに気をつけるべきは政府主導のネット世論操作、SNS操作、言論統制による民主主義の死だ、ということがわかってきた。

同時に、ユーザーが個人的なものと信じきっているSNSを利用すれば、これほどまでに簡単に個人の意見を操ることができるのか、と、絶望的な気分にもさせられた。

 

誰もが身覚えがあるだろう。テレビで流していることにはあれこれ文句をつけるくせに、親戚や友人に同じことを言われたら「そうかもしれない」という気がしてしまう。新聞で読んだことよりも、「誰かがそう言っていたらしい」という伝え聞きの方をなんとなくありそうだと思ってしまう。新聞やテレビのような、メディアが編集した二次情報よりも、個人が経験した、いわゆる「ナマの情報」を、わたしたちは信用しやすい。

SNSはその最たるものだ。本書では繰り返しフェイスブックが登場するが、フェイスブックは個人的投稿そのものだ。フェイスブックで発信されたことは「誰かがそう言っていた、ナマの現地情報」なのであり、わかりやすく、信用されやすい。

だが、その内容がどのような意図で発信されたのか、どのくらいの事実を切り取っているのかは、本人しかわからないことだ。実際、実生活ではお金に困っているのに、フェイスブックやインスタグラムには旅行だの高級レストランだのの写真を数多く投稿し、セレブな生活を演出している利用者もいる。

これをより意図的に行っているのがネット世論操作であり、一部ではビジネス化までされているという。政府に都合のいい情報を人海戦術で流す一方、都合が悪いニュースはフェイクニュースだと言いはって強制的に削除させたり、発信者を逮捕させたりすることは、すでにアジアの国々では珍しいことではない。

インターネットがなかった時代、新聞やテレビが世論操作に利用されてきた。新聞やテレビの偏向報道と、表現の自由を求めて戦ってきた人々の物語はたくさん伝えられており、しだいに新聞やテレビは信用できないものと考える人々が増えてきた。インターネットはその代わりにすぎないのかもしれない。より高速に、より効果的に、世論操作を行うために。

最近のレポートによれば世界の四十八カ国でネット世論操作が行われており、その全てが現政権維持を目的のひとつにしている。同時にネット世論操作産業とも言うべきものが勃興している。政府や政党あるいは政治家のためにネット世論操作を立案し、実行するビジネスだ。

 

さらに絶望的なのは、「だまされて投票してはならない方に投票する方が悪い」といわんばかりの意見があることだ。

過程はどうあれ、イギリスのEU離脱国民投票で決まったことであるし、トランプ氏の大統領当選は正規の選挙結果だ。投票そのものに不正があったわけではなく、ただ、投票した人々の判断をフェイクニュースなどで惑わせただけなのである。実際には、人々は、これこそが最善だと信じて投票したことだろう。そのための判断材料が「わざとそう判断するように与えられた」ものであっただけ。

それを容赦なく批判する「エスタブリッシュメント」もいるが…はっきり言うと傲慢以外のなにものでもない。

ひとことで言うと、無知だったり、偏っていたり、およそ理性的、論理的ではない人々が投票していたらその結果は悲惨なものとなる。…誰にでも等しく選挙権が与えられるのではなく、ふさわしい人が持つべきであるとしてエピストクラシー(賢人による統治主義)を提唱している。

絶望的な気分にさせられる本だが、踊らされていることを恐れて判断自体をしなくなるわけにもいかない。地道に教育をして人々の情報リテラシーを高めていくこと、判断を下せばあとはそれを信じることくらいしか、出来ることはないかもしれない。