コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

日々の暮らしの中からさっと書き留めた『無名仮名人名簿』

向田邦子さんのエッセイ集、第二弾。

『父の詫び状』は家庭事情が多かったが、このエッセイ集は、向田邦子さんが仕事をするようになってからのちょっとしたできごとを書いているものが多い。「昔はこうだったけれど、今はこうなった」系の話もちょくちょく出てくる。

書かれていることは、本当にささいなことだ。婦人用洗面所でたっぷりとしだ黒髪を手入れしている女性を見たとか、家を出ようとしたら鍵が見つからずに困ったとか、女友達とのたあいないおしゃべりの中でさらさら流れて、記憶にも残りそうにないことばかり。それを面白いと思わせているのは、書いている著者のものの見方だ。「なるほど、だからこの瞬間が記憶に残ったのね」と思わせる。

たとえば冒頭のエッセイ「お弁当」。一億総中流、91%が自分を中流であると思っているというアンケート結果があった時代、著者はこれを「学校給食の影響ではないか」と見る。そのこころは、著者にとって「小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家族の愛情というか、かまってもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であった」から。

現代社会では手間ひまかけたキャラ弁が人気だけれど、著者が生きた第二次世界大戦前後は、お弁当のおかずを美しく飾る以前に、おかずが漬物くらいしかない子、お弁当を持参できない子がいた。堂々とお弁当を広げることができる子と、こそこそ隠れるようにお弁当を食べる子とでは、嫌でも違いを意識させられただろう。「なるほど、だから中流階級の話が出てきたら、お弁当を連想したのね」と納得する。

エッセイを読んでいくと、まるで著者の連想ゲームにつきあっているかのような気持ちになってくる。ひとつのワードから次のワードへ、すっと繋がることもあれば、ちょっと唐突に飛ぶこともある。すいすいっと記憶の場面をたどっていくうちに、著者のものの考え方、見方、その基になった体験談などがなんとなく見えてくる。それが楽しいから、とりたてて特別なわけではないことを書いたエッセイにもかかわらず、最後まで楽しく読める。