コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

冷戦下のソビエト学校から〜米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』

おそらく、冷戦時代のヨーロッパの共産主義陣営、そこで暮らす共産党員たちの子どもの喜怒哀楽や運命を、同級生の視線からノンフィクションにまとめた本はほかにないのではないだろうか。

著者の米原万里氏は日本共産党の幹部を父親にもち、父親のチェコスロバキア赴任により、1959年から1964年、9歳から14歳まで5年間、プラハにある外国共産党幹部子弟専用のソビエト大使館付属学校に通った。本書は、ソビエト学校で出会った友人達についての著者の思い出と、成人後に彼女たちを探して中東欧を訪れる物語。

80年代は東欧の共産党政権が倒れ、ソビエト連邦が崩壊していく時期。90年代に入るとユーゴスラビア紛争が勃発する。激動の時代にあって、著者と友人達の個人的なつきあいや思い出、彼女たちの足跡をたどるための調査そのものが、意図せずして、複雑なヨーロッパの現代史の縮図となっている。

 

中心となる女友達は3人。リッツァーーギリシャ人で、両親はギリシャからチェコスロバキアに亡命してきた共産主義者。アーニャーールーマニア人だが父親はより複雑な出自を持ち、ルーマニア共産主義政権のもと特権階級として贅沢な暮らしをしていた。ヤスミンカーーユーゴスラビア人で両親はサラエボ出身、父親は外交官。

この3人の学生時代や成人後のことが語られる。亡命者、共産党高級幹部の娘、ユーゴスラビア紛争の当事者。彼女たちは子どもでありながら、すでに国家間紛争と無関係ではいられなかったし、本人たちもそのことを思わずにはいられなかった。

 

3人の女友達のなかでも、著書タイトルにもなったアーニャは、共産党高級幹部の娘で、ルーマニアの平均水準よりはるかに贅沢な暮らしをしていた。だがアーニャの兄はそれが共産主義にそぐわないとして嫌悪感を示し、アーニャの両親は特権を享受する一方で、子どもたちをルーマニアから外に出そうと手をつくしていた。

アーニャは学生時代、ルーマニア人であることを誇りに思っていたけれど、成人して著者と再会したときには、著者にすら本心を語ろうとしなくなっていた。そうして自分を正当化して、自分にもまわりにも嘘をつかずにはいられなかった。タイトル『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』は、おそらく、ここから来ているのだろう。

年老いた両親に愛され、いつも良い子であり続けなくてはならなかったアーニャは、常にその時々の体制に適応しようと全身全霊を打ち込んできた。そのたびに、古い主義をきれいさっぱりぬぐい去っていく。

 

守ってくれるはずの祖国から逃れなければならなかったリッツァ。祖国を誇りに思いたいのにそれができずにいるアーニャ。祖国が戦火に陥ってしまったヤスミンカ。彼女たちはそれぞれ家庭を築いてささやかな幸せを得ていたけれど、祖国と民族への帰属意識を強く持てずにいることが、言葉の端々から感じとられる。

著者は日本人であり、日本は比較的安定している国家だから、彼女たちのように祖国だとか民族について真剣に考えなければならない状況にあったわけではない。だが、著者がノンフィクションとして書き起こしたかつての同級生達の言動は、祖国だとか民族について考えさせずにはいられない。