コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】最後まで読むには勇気がいる〜トルストイ《イワン・イリイチの死》

尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」でみつけて手に取った本。

人により猛毒「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

前半部分は「うわあああ…」と頭を抱えながら読んだが、後半部分になると目が離せなくなってしまった。まるで自分が瀕死の病人になったように、あるいは親戚友人でいままさに病気になったり老衰を隠しきれなくなっている人がいればその人の心のうちを暴かれたように、慄きながら最後まで読まずにはいられなかった。

 

物語は判事を務める主人公イワン・イリイチの訃報が新聞に載り、裁判所の同僚たちがそれを読む場面から始まる(舞台となる19世紀後半にはこれが普通だったのかもしれない)。その場面で、初っ端から痛烈な皮肉をトルストイはたたきこんできている。

こうして各人は、同僚の死にともなって生じるであろう異動や栄転に関する憶測をたくましくしたのだが、それとは別に、身近な知人の死という事実そのものが、それを知ったすべての人の心に、例の喜びの感情をもたらしたのだった。死んだのが他の者であって自分ではなかったという喜びを。

一見丁寧な言葉でとんでもない毒をさらりと書いているのは、小説全体にみられる。イワン・イリイチの同僚は故人の家を訪ねながら、自分のふるまいが作法にかなっているかどうか、今夜のカードゲームの集まりに参加できるかどうかばかり考えている。未亡人となったプラスコーヴィヤ夫人は、国家からどれくらいの年金や手当をもらえるかということをすでにしっかり調べあげ、それ以上もらえる見込みがあるかを弔問客に相談する。そもそもイワン・イリイチの遺体が横たわるその家自体が、上流階級の猿真似をして中産階級がセレブ風にそれっぽくまとめたものにすぎないことがほのめかされる。まったくここまでしなくてもいいのにと思いたくなるほど、現実的で、死者の追悼よりもこれからの生活に重きがおかれ、嘆きも慰みもお作法の範囲を出ないことがこれでもかと示される。

その扱いをされている主人公、イワン・イリイチの生涯が、おもに彼の視点から語られ始めると、これまた頭を抱えたくなる。

イワン・イリイチは役人勤めの父親の次男として生まれ、法律学校を経て法務省入りした。堅実に仕事をこなし、気楽で、快適で、上品な生活を送り、やがて妻を迎える。だが妻が妊娠すると、これまでのような上品な暮らしが「妻の気まぐれによって打ち壊される」ようになったから、イワン・イリイチは仕事に没頭することでこの不快な状態から逃げようとした(ここ、女性読者ならおそらく怒りにかられる部分で、このあとのイワン・イリイチとプラスコーヴィヤ夫人のよそよそしさもさもありなん)。

子どもがたくさん産まれ、そのうち何人かは死に、イワン・イリイチは自分が出世できないことに腹を立ててペテルブルク行きを決め、そこで昇進と昇給を得て家をーー彼がそこで死ぬことになる家をーー手に入れる。ここまでは平凡な役人生活にすぎなかった。

しかし、イワン・イリイチがわき腹に痛みをおぼえはじめてから、事態は一変する。医者はイワン・イリイチを診察して薬を処方するけれど、イワン・イリイチは医者を信用できなかったり、自分自身の苦しみに気をとられたり、気を紛らわそうとカードゲームに打ちこんだりして、きちんと薬を飲まない。人間は死すべきものかもしれないけれど自分が死ぬなんてありえない、こんなことは間違っている、と独白する。まわりが彼の苦しみを理解しようとしないばかりか、まるでなにも変わりがないかのように日々を送り、そのうち良くなるだろうと彼に嘘をついていると怒り苦悶し、家族にやつあたりする。

死の恐怖が近づくにつれて、イワン・イリイチはなぜ自分がこんなめにあわなければならないのか、自問自答しはじめる。苦悶の中でさまざまな考えが現れては消え、死ぬ数日前、彼はひとつの考えにたどり着く。

「間違っている。おまえがこれまで生きがいとし、今でもそれによって生きているものーーそれは全部、おまえの目から生と死を隠す嘘であり、まやかしだ」

イワン・イリイチの人生は生と死を隠すためのまやかしだった。これほど救いのない悟りがあるだろうか。そこから3日間彼は苦しみもがきつづけ、わずかな寛解ののちに死んだ。

 

この中編小説は数時間かそこらで読めるけれど、内容を消化するのに数日間はかかりそう。

主人公であるイワン・イリイチは自分の人生を正しく生きてきたと自負しており(彼が都合よく思いこんでいるだけであり、実際にはつねに正しいとは限らなかったことは、彼の妻への扱い方を見れば一目瞭然なのだが)、病気になればまるでまわりが悪いといわんばかりの気難しさのとりことなる。

これはわたしが今後目にすることになるものではないか、という考えが拭えない。

わたしには祖父母がいる。うち数人はすでに鬼籍に入っているが、彼らは死ぬまえに痩せ衰え、気難しくなり、死ぬことへの恐怖を口にするようになった。物語の中のイワン・イリイチがたどる心理的過程となんと似ていることか。

イワン・イリイチは、彼の生き方が間違っていたのかもしれないという可能性を認めることができずにいた。死が近づいているときに人生を振り返り、その無意味さを思い知らされるというのは、あまりにも残酷すぎる。

 

だが、わたしがそうならない保証はどこにある?

 

イワン・イリイチは平凡な一判事にすぎず、妻も、子どもも、同僚も、うわべだけのつきあいを見れば、ごく普通の人たちばかりだ。気難しい病人が死んだことを彼らはことさら悲しんではいない。裁判所の同僚などは、これでポスト移動があるだろうと皮算用を始める。

誰も、悪気なく。

恐ろしいことに、誰も悪気はないのだ。イワン・イリイチの死、告別儀式への参加を生活の中のイレギュラーな出来事としてこなし、その後は日常生活にもどっていく。いつまでも悲しんでいられないとばかりに。確かにそうだ。いつまでも悲しんでいられない。故人の家族や同僚がそう考えることをどうして責められよう。……だがそこに、赤裸々な人生の無意味さがブレンドされれば話は別だ。

この小説、人生の折り返し地点をすぎたあたりの人たちにぐさぐさ刺さる。そろそろ老衰やその先にあるものを意識し始めるころ、この本を読んでみると、どうすればイワン・イリイチのような死を迎えずにすむのか、必死で考えることうけあいだ。