コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

生物種保護の試み自体が生物種を変える〜M.R.オコナー『絶滅できない動物たち』

 

人間の活動によってもたらされる環境破壊は無視できないものであり、なかでも生物種の絶滅は深刻な問題である。パンダもサイも虎も象も、ほうっておけばこの地球上から永遠に消え去ってしまう。だから人類はこれ以上生物が絶滅しないよう、保護しなければならないーー

私がこのことについて知ったのは、確か小学四年。自由研究かなにかで環境保護について書かれた本を読んだときだったと思う。

書かれていることに、当時はあまり疑問をもたなかった。人間が自分勝手な経済活動で自然を壊し、それについていくばくかでも反省しているのなら、取り返しがつかなくなる前に少しでも自然を救うべきだ。そう考えていた。

いまでも地球温暖化をはじめとした環境問題は深刻だとテレビでは報道している。生物種の絶滅についても、アフリカのなんとかいうサイが数個体しか残っておらず絶滅は確実視されているとか、逆に絶滅種とされたクニマスが再発見されたとか、時折ニュースで見聞きする。その度に、絶滅から生物種を救わなければならないという気持ちをもう一度思い起こす。問題といえば自然保護には金がかかりすぎることくらいだ。そう思っていた。

だが本書『絶滅できない動物たちー自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ』は、環境問題と経済開発との複雑な関係に加えて、まさに、保護され、飼育下におかれたことで、生物がかつての姿でなくなるということを読者に見せつける。そして問いをつきつける。

 

生命体は捕獲後の環境に順応する。これまでの生息環境を失って人工的に保護された生物種は、やがてはかつての姿を失い、新しい人工的環境に応じて変化するだろう。それは守ろうとしていた『自然な姿』が失われることではないか?  『自然』とはそもそもなんだ?  保全生物学者たちはなにを守ろうとしているのだ?

 

守ろうとする行動そのものが、過剰干渉になる。人間の子育てではよくとりあげられるテーマだけれど、まさか自然保護でこの話題が出てくるとは思わなかった。

だが、すでに有名例がある。シルクの原料となる繭をつくる蚕だ。数千年にわたって人間に飼育されてきた蚕は、Wikipediaの言葉を借りれば「野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても自ら探したり逃げ出したりすることがなく、人間による管理なしでは生きることができない」。これほど極端でなくても、私はサファリパークで大口開けて観光客が投げる餌(ニンジン)を待つだけのカバを見た。飼育員におとなしく従い、観光客と写真におさまる虎を見た。絶滅危惧種が生きる環境をまるごと囲って国立自然公園として保護する場合でさえ、生息地域がせまくなることで種は影響を受ける。なんらかの事情で人工的に生息環境を変えざるをえなかった種は、多かれ少なかれ「環境に適応するために進化を促される」ことは避けられない。

著者はこれをみごとな実例で説明している。キハンシヒキガエルタンザニア水力発電ダム建設予定地で発見され、タンザニア政府、世界銀行環境保護団体、民間企業の駆け引きの果てに野生種が絶滅し、アメリカで人工的繁殖が試みられたが、生息環境を保証するためにはダムの水量を減らすしかないうえ、キハンシヒキガエル自体が研究室の環境に適応し始めたこともあって、野生回帰が進んでいない。フロリダパンサーは生息地域がごく限られているせいで近親交配が進みすぎ、テキサスからピューマを連れてきて交配させることが試みられたが、大型肉食獣であるため地元住民の反応は芳しくなく、生まれた「雑種」は保護に値するかどうか論争になった。ホワイトサンズ・パプフィッシュは隔離された生息環境にとり残された結果、わずか数十年で見ためでわかるほど進化をして、人間活動が絶滅だけでなく進化も促していることが明るみに出た……

すべてのエピソードが、自然保護とはなにかという、基本的な問いを投げかけてくる。人間の "保護" 下で、生物種が選択的に進化させられ、ときには野生回復の能力を失うのならーーそれは意味あることなのか? そもそも人類がすべての絶滅危惧種を保護できるはずもなく、保護すべき種を選ばなければならないのならどう選ぶか。経済的に役立つものか。貴重な薬品の原材料になるかもしれないものか。

問いかければ問いかけるほど、人間が地球上にあるものにおよぼす影響が大きすぎ、しかもそのことで自らが地球上の事物に与える影響をコントロールすることで支配できるのだという傲慢な思いにかられていることが透けて見える。生物多様性、自然保護、さんざん耳にしたこれらのキーワードがほんとうはなにを意味しているのか、わからなくなる。

おまけに、本書ではふれられていないが、生物種とはいわゆる動植物だけではない。菌類、微生物、細菌類、ウイルスーー中にはどんな戦争よりも多くの人類を死に至らしめたものもあるーーこれらは生物多様性の対象なのか。ちなみに撲滅宣言が出された天然痘の病原体は冷凍保存されているが、これは将来、この病気が万が一復活したときに研究手段を失わないためである。

読めば読むほど、生物種保護がどこを目指そうとしているのかわからなくなる。パンダもサイも虎も象も、二度と見られなくなるのは直感的に嫌だと思うーーだが、それらを人類の保護下におくことが、結局、それらの生物種としての変化を促してしまうという問題については、どう考えればいいのか、私にはわからなかった。著者も本書の末尾で「じっくり考えるに値する問いだ」と述べるにとどめている。

保全の未来では、自然をさらに管理することが求められるのか、または種を堂々と操作するのか、脱絶滅させることになるのか。わたしは、これは人類が野生の地や事物を地球上から消滅させてしまう前にじっくり考えるに値する問いだと思う。人類が支配する風景と気候工学の未来で、わたしたちが実際に失うであろうものは「謙虚さ」だ。わたしたちはいずれ死ぬ、という大事なことを思いださせてくれる能力だ。