コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

怒らないような人格に達するまでの遠い道程を迷わないために〜アルボムッレ・スマナサーラ『怒らないこと』

怒りについての読書、第二弾。

これも尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」から。著者はスリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老であり、日本において仏教伝導を行なってきている。

「怒らないこと」はスゴ本: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

この『怒らないこと』の内容は、たしかに、以前読んだセネカの『怒りについて』とよく似ている。セネカが理性的推論を使っているのに対して、スマナサーラは仏教の教えから、結論にたどりついているためか、セネカは怒りを感じても行動に移さない方法(頭が冷えるまで時間を置くこと)に重点を置いているのに対して、スマナサーラは怒らないような人格を育てることを目的としている。「怒り」を口にする人はものの道理がわかっていない、修行が足りない、というところ。

「怒り」などという言葉は、本来、気軽に口にできる代物ではありません。「私は怒りました」などと言うのは、「私はバカです」と触れ回るようなものですからね。「怒り」の本当の意味を知っていたら、おいそれとは口にできません。

 

スマナサーラが語る「怒り」は「喜びを感じさせなくするもの」といういたってシンプルなもので、だから、自分が今怒っているかどうかわからない場合は、「今、私は楽しい?」「今、私は喜びを感じている?」と自問自答してみればいい、「べつに楽しくはない」「何かつまらない」と感じるならば、そのときは心のどこかに怒りの感情がある、という。

この定義でいえば、セネカに比べて「怒り」の範囲ははとんでもなく広くなる。仏教の目的がひとに喜びと解脱を感じさせるところにあるならば、それを邪魔するものはすべて「怒り」に分類されてしまうらしい。スマナサーラの定義だと広すぎるため、私はセネカの定義の方が好み。

ただ、「怒り」が破壊衝動を伴うのはどちらもいっしょ。また、「怒り」が個人的判断に基づくものであることもいっしょである。

この世の中にある、ものをつくり上げる創造の源泉は愛情であって、創造したものを破壊していくのは怒りの感情です。それは普遍的な、世の中にある二種類のエネルギーの流れです。

「怒るのも、愛情をつくるのも、その個人の勝手である」ということを、まず理解してください。怒るのは誰のせいでもありません。「怒るのは私のせい」なのです。

セネカは「怒りとは、害を加えたか、害を加えようと欲した者を害することへの心の激動」と述べていて、楽しくない、つまらない、などの心の動きを「怒り」と呼んではいない。スマナサーラも『怒らないこと』の中で、他にも様々なタイプの「怒り」があるとことわったうえで、このタイプの「怒り」をメインにとりあげている。

人間というのは、いつでも「私は正しい。相手は間違っている」と思っています。それで怒るのです。「相手が正しい」と思ったら、怒ることはありません。それを覚えておいてください。「私は完全に正しい。完全だ。完璧だ。相手の方が悪いんだ」と思うから、怒るのです。

自分は完全でも完璧でもない。他人にも完全な結果を求めない。そう思うことが秘訣だとスマナサーラは説く。

……それができるなら苦労はしませんて。

「できません」「わかりません」と言うと負けだと思っている人に数多く出会ってきたし、私もそうだった(いまでもそうかもしれない)。人間誰しも自分はデキル人だと思いたくて、本当に、心から、自分は完全でも完璧でもないと納得するには、その傲慢な天狗鼻を思い切りたたき折られる経験をするしかない。自分はデキないと突きつけられるのは辛いものだから、そういう経験をしてなお、自分はデキルと思いたい。……思いたかった、私は。怒ると自分自身も傷つけてしまう、怒る人ほど頭が悪い、そう言われても、自分の万能感を守ろうとするあまりに怒る。

自分は完全でも完璧でもない。だから怒る必要はない。……そう思えたら苦労はしませんて。

私が怒らないのは、悟りよりもむしろ恐怖によるものだ。怒れば大切な人に呆れられてしまう、社会的に罰せられてしまう、いま持っているものをとりあげられてしまう、という恐怖が軛となっている。

逆にいえば、罰される恐怖を感じない相手には怒ってしまう。たとえば子どもはどれほど怒っても親が自分を見捨てないと確信しているときに、遠慮なく親に怒りをぶつけるものだ。児童養育施設に入っているような子どもたちは、試し行動として怒りを使う。自分を世話してくれる大人が、どれほどの怒りを許容してくれるのか、ちょっとずつ試す。

怒らない人格をつくりあげるのは最終目的であり、その点でこの本はとてもよい手引書になってくれる。だがその境地に達するにはとてつもなくかかりそうだ。それまでは、「怒ることはデメリットをもたらす」という考えこそが、私を怒りから遠ざけてくれるだろう。