コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】華やかに、挽歌として〜山本淳子『枕草子のたくらみ』

 

私がこれで読んできた中でもっともわかりやすく、もっとも人間味にあふれ、もっとも平安時代の人々の考えに寄り添った解説書。『枕草子』を見る目がより深くなる一冊。

 

枕草子はご存知清少納言がおよそ1000年前の平安時代に書き留めた随筆集で、高校の国語の教科書には必ず登場する。「春はあけぼの」という有名な一節から始まり、四季折々のうつくしさへの感心、女房(侍女)として仕えた才気煥発な中宮天皇のきさき)藤原定子への惜しみない賛美、当時の年中行事のさま、令和の世でもまったく古めかしくないちょっとした思いつき(「憎らしいもの。急用があるときに来て長話をする客人」)などをいきいきと書く。

清少納言は女子高生っぽい」「現代に生まれ変わったらブログとかツイッターめちゃくちゃ使いこなせそう」などといわれることもあるとか。同世代のもうひとりの才女・紫式部が書き残した「清少納言という人は得意顔ばかり、利口ぶって、そのくせたいして知識が深いわけでもない」という毒舌評価はあまりにも有名。


高校の教科書からもうすこし深く学ぶと、『枕草子』が書かれたとき、実は中宮定子はかなり悲惨な身の上であったことを知る。後盾だった父親・藤原道隆は亡くなり、兄である藤原伊周と弟の藤原隆家は大罪人として九州に左遷され、定子自身は絶望のうちに出家して尼となっていた。そんな定子をなぐさめるために、辛い現実を遠ざけ、華やかなりし日々のみを意図的に選んで書き留めたのが『枕草子』だったということを学ぶ。

だが本書『枕草子のたくらみ』はもっと深くまで立ち入る。政治的事情、漢文や和歌の素養、社会状況などに。これらのことをふまえて平安時代の人々は『枕草子』を読んだのだから、本書でもそれらを紹介して、現代の読者を平安時代の『枕草子』の読み手に近づけようとする。本書を読み進めると、ドヤ顔で利口ぶったエッセイなんてとんでもない、『枕草子』は思慮分別のある女性が、注意深く組み立てた作品集であったことが見えてくる。

枕草子』は清少納言が定子に献上した作品集だ。不運にみまわれた定子をなぐさめるだけではなくーーこの指摘は目からうろこだったがーー定子を目の敵にしていた藤原道長が、定子を賛美する『枕草子』の抹殺にかからないよう、内容には細心の注意を払わなければならなかった。道長が定子らにした数々の嫌がらせを批判しているととらえられないように、非常に敏感な政治的存在であった定子の子どもたち、とくに敦康親王のことにふれないように、清少納言は用心深く筆を進めなければならなかった。そのため『枕草子』は読まれることを許され、今日まで伝わる。清少納言が少しでも道長の怒りに触れるようなことを書いていれば、言論の自由などない社会のこと、『枕草子』は歴史の闇に葬り去られていただろう。

 

道長への忖度をきかせながら書くはめになったが、もともと『枕草子』は中宮定子がまだ華やかだった時代に構想され始めた。当時高価だった和紙の冊子を兄・伊周より与えられた中宮定子は、初め、格調高い和紙にふさわしく『古今和歌集』でも書き写させようとしたが、清少納言とのやりとりの中で「では清少納言に取らせます。なにを書くかはあなたが決めてください」と、冊子を清少納言に与えたのだ。

清少納言ははりきったことだろう。敬愛する中宮定子のためにも、贅沢品であった和紙を無駄にしないためにも、下手なことは書けないと気張ったことだろう。だからこそ『枕草子』は「春はあけぼの」から始まらなければならなかった。本書ではそれを『古今和歌集』の構成とともに説明する。

実は『古今和歌集』に、「春」と「朝」の取り合わせが何度も記されている文章がある。和歌の力と歴史を記し和歌文化を高らかに謳った「仮名序」、文字通り仮名で書いた序文である。……(枕草子の序文は)むしろ『古今和歌集』「仮名序」を知っていてこそ、それを革新させた機知である。「枕草子」の冒頭、まさしく『古今和歌集』にとっての「仮名序」の位置にこれを置くことで、『古今和歌集』の向こうを張った企画『枕草子』の心意気を、清少納言は示したのだ。

春、夏、秋、冬と四季が続くのも、『古今和歌集』から続く勅撰和歌集の伝統であり、四季穏やかな世の平和、平和な御代を体現する中宮定子を象徴しているという。さらに中国のしきたりに従って「天象」である陽、月、雲、雨、雪、霜をとりあげているが、これは清少納言と定子の双方に漢文の素養があってこそで、当時漢文は男の学問であり最高の教養とされていたから、暗に定子の才覚をたたえている。さらにさらに天皇の特別さを演出する「紫だちたる雲=瑞雲」まで入れている。これらはみな、一条天皇に愛された中宮定子のことを連想させる、清少納言の演出だ。

このように『枕草子』初段は、短い一段の中に幾度も重ねて定子その人を盛り込んでいる。斬新な雅びを切り拓いた、後宮文化の指導者として。その文化の賜物である作品を献上される、権威ある存在として。和漢の素養を持つ才女として。そして何よりも、世の平和を象徴する瑞雲、中宮として。

だが、実際に『枕草子』が執筆されたのはずっと後、定子の身に不運がふりかかった後ではないかと著者は解説する。道隆が亡くなり、伊周と隆家が暴力沙汰を起こして罪を問われながらも九州送りを嫌がって逃げまわり、あろうことか、妊娠中の定子が滞在していた屋敷に伊周が身を隠したものだから、検非違使(警察)は定子を屋敷の外にとまらせた牛車に移させてから屋敷を大捜索、あまりの屈辱に定子は髪を切り出家してしまった。

この一連の騒ぎで、暴力沙汰を道長に知らせた藤原斉信はじめ、道長方の人々ともかねてより親しく付き合っていた清少納言はおそらく同僚たちに「道長に通じている、定子様に忠実ではない」と陰口をたたかれたのだろう。あれほど慕っていた定子のそばに出仕することをやめ、自宅に引きこもってしまった。

枕草子』が執筆されたのは、この引きこもり期間だったのではないかというのが著者の解説だ。だとすれば『枕草子』が定子賛美をメインテーマとするのは必然になる。絶望の中で出家し、第一子である脩子内親王を出産したばかりの定子に、清少納言が見聞きしたかつての華やかな日々を思い起こさせて、すこしでも心をなぐさめてもらうために。そして、清少納言の同僚たちに身の潔白を主張するために。

このときに『枕草子』という作品は一度成立したはずだが、『枕草子』はその後も書きつづけられた。出家したために本来中宮たる資格を失ったはずの定子が、一条天皇に強く求められて御所に戻った。道長の娘である藤原彰子の入内がまもないとき、定子はふたたび妊娠した。産まれたのが待望の男児敦康親王であった。『枕草子』にはこのころの中宮定子も登場する。注意深く、政治的話題も、不都合な事実も、定子の立場を連想させるようなあらゆるものを避け、愛情深く才覚豊かな定子の姿が、『枕草子』に留めおかれた。

こうして読むと、著者が最後に指摘した「『枕草子』は挽歌だったのだ」ということが胸に迫る。挽歌というよりも弔辞かもしれない。清少納言は1000年後にも読み継がれることになる弔辞を、不遇と無念の中で死んだ定子に捧げるため、定子の鎮魂のために書いた。

そう思うと、『枕草子』を読むときの目が大きく変わる。「をかし」(素晴らしい、興味深い)のなかに隠された複雑な気持ちを感じとることができ、『枕草子』という作品を、さらに深く理解することができる。