コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

極限状況でも人間らしくあってほしいと願う〜ジョージ秋山『アシュラ』

 

アシュラ 大合本 全3巻収録

アシュラ 大合本 全3巻収録

 

最初の1ページで逃げ出したくなり、最後の1ページまで目を離すことができなかった。

 

見開きで、泣き叫ぶ子どもの尻に男がかじりつき、肉を噛みちぎって喰おうとする。男の目は、鬼のそれだ。

飢饉がはびこる中世の日本、時代背景ははっきりしていないけれど、日照り続きで作物が育たず、餓死者が道端に倒れ、飢えた人々が幽鬼のようにさまよい歩いていた。屍肉を喰らう烏と蛆虫ばかりが肥え太る荒れ果てた土地で、半狂乱の女が男を殺してその肉を喰らう。女は孕んでいる。やがて産み落とされた赤子だったが、女は栄養不足から満足に乳が出ず、飢えに苛まれて赤子を焼いて喰おうとする。全身火傷を負い、川に流されながらも、赤子は生きていた……。

極限の飢餓にさらされた人間が、文字通り獣の所業に身を落とす。

「生まれてこない方がよかったのに」

生きることこそが地獄。そんな世の中をジョージ秋山は地獄絵図さながらに描き出した。

この作品のテーマは「極限状況でそれでも人間らしく生きることができるか」。だれもが心の中に獣をもち、その獣の本性をさらけ出すことがある。それでも人間である以上、獣の道を歩けば歩くほど苦しくなる。人間の尊厳を保ち、獣の道から己を遠ざけるのは、同族(人間)を食べないこと、ひとを憎まず己の中の獣を憎むこと、ひとを許せること。

この漫画の主人公、アシュラは怒りに満ちた獣のようになっている。父親に捨てられ、母親に火に投げこまれて喰われかけ、人としての言葉を教えてくれる者もなく、荒野で生きていくために人間を含めてあらゆるものを喰った。言葉を教えてくれたのは母親ではなく、怪我をしたアシュラをかくまってくれた若狭であったが、彼女もまたアシュラの求める「やさしい母」とはなりえない。こんな苦しみに遭ってなぜ人間らしくいなければならないのか、おれはなにをしてもいいんだ、おれは悪くない、生まれてこないほうがよかったと、言葉を獲得したアシュラは叫ぶ。

銭ゲバ』の蒲郡風太郎が自らを悪党だと決めたように、アシュラは自らを心のない獣だと決めた。だがアシュラが出会った法師はそれを否定する。

いいや人間じゃ。もっとも人間らしい人間じゃ。だから苦しいんじゃろうが。父の愛、やさしい母がほしいんじゃろうが。

だが人間の本性は獣じゃ。だれでも獣になってしまうときがある。獣になったひとをせめてもしかたがあるまい。人間のあわれと思うことじゃ。おまえの母の目を見たか。あわれなかなしい目じゃ。アシュラ! 戦うんじゃ! 獣と! おまえの中にある獣と戦うんじゃ。それが人間の道じゃ。ひとをにくむな! おのれ自身をにくめ、おのれの獣をにくめ!

だが法師の言葉は、怒りに満ちたアシュラをほんとうに変えるには至らない。飢饉に満ちた世の中、都でさえはなやかな暮らしをしているのは公家(貴族)だけで、ちまたには餓死者があふれ、都を逃れた人々が物乞いとなってさまよい歩き行き倒れる。そんな世の中でアシュラは獣のように生き続け、「生まれてこないほうがよかったのに」と呟き続ける。

極限状況でも人間は人間であることができるのか? それとも獣に身を堕とすのか? 一度獣に身を落としたひとが、人間に戻ることはできるのか?

作者が目指したテーマはあまりにも厳しい。

主人公アシュラは怒りに満ちた獣のように生きながら、言葉を獲得し、人肉を喰らうことをとまどうようになり、ラストシーンでは死んだ母親にすがりついて号泣し、母親の手を自分の顔にあてる。生きている母親に頰をなでられ、涙を拭われたかったのだろう。この瞬間こそアシュラはもっとも人間らしくなっていたのだと思う。アシュラの変化に、作者が人間たることにこめた希望の一筋が見える。

生きることこそが地獄。そういう状況でも「おれはなにをしてもいいんだ」と世を憎みひとを憎まずにいられるか。

そう突きつけられて本心から自信をもってうなずける人はそうはいない。正視に堪えない現実を突きつけ、おのれの中に獣がいると突きつけ、それでも人間らしく生きてほしいと願う、『アシュラ』はそんな作者の思いをこめられた作品だ。