コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

信じていたものが根底から塗り変わる瞬間〜フラナリー・オコナー《フラナリー・オコナー全短篇(上)(下)》

 

 

尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」で推されていたから読んでみたけれど、初読は訳が分からなかった。

刺さる鈍器『フラナリー・オコナー全短篇』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

別の方の読書会のまとめを読んで、ほんのちょっと分かった。

フラナリー・オコナー『全短篇』(ちくま文庫)読書会まとめ|三柴ゆよし|note

敬虔なカトリック教徒であったというフラナリー・オコナーの短編は、性質的には、魯迅の中短編に似ている? あるいはホラー映画「SAW」シリーズ?

魯迅は小説の中で、中国近代社会の一庶民の生きざまやまわりとの関わりをあえて露悪的に書き、一般庶民、ひいては庶民が形作る中国近代社会の問題点をあぶり出し、批判した。根底にあるのは、魯迅が日本留学時代に見たという「中国人が外国のスパイとして打ち首にされようとするのを、屈辱だと思わず、むしろ好奇心満々に見物する」ような一般庶民の考えかたを変えたいという、切迫した思いであった。「SAW」シリーズは、ジグソウと呼ばれる連続殺人鬼が、ひとを生死をかけた「ゲーム」にかけることで、人間の業ともいうべきこれまでの過ちに気づかせ、多大な犠牲を払ってでも業を治すか、業深いままさらに多くのものを失うかという究極の二者択一を迫る。"Make your choice." ー「選択は君次第だ」が決め台詞。

フラナリー・オコナーの場合は、弱さも醜さも不完全さも持ち合わせた登場人物が、想像だにしなかった状況にさらされることで、宗教的ななんらかの「真実」にふれたりふれなかったりすることを書いている。根底にあるのはやはり、頭の固い人々の考え方を変え、神の御心にかなうふるまいをしてほしいという切なる願いだろうか。

短編集の最初の小説《善人はそんなにいない》は、アメリカのジョージア州に住むおばあちゃんが息子や嫁、三人の孫と自家用車で旅行にでかける話。おばあちゃんはどこにでもいるアメリカ南部のお年寄りという風で、カトリックを信仰し、ほがらかで話好きなものの悪気なく独善的、本人だけは自分をレディーだと信じて疑わない。そんなおばあちゃんがとある勘違いから、嘘をついて息子に寄り道させ、さらにその先で余計なことを口走ったために、一家はとんでもない状況に陥る。おばあちゃんはおろおろするばかりだったが、最後の最後にほんの一瞬、おばあちゃんが生涯信仰してきたイエス・キリストの御心を理解したかのようにふるまう。仏教でいえば「悟りの境地に達する」にあたるか。

有名な《田舎の善人》は風刺色が強い。アメリカ南部の田舎町に住むハルガという独身女性が、聖書を売るために家に来た青年とピクニックにでかける話。ハルガは自分が特別な知性の持ち主であり、青年はそこに惹かれたのだと思っていたが、青年にとってハルガがほかの人と違ったのは、彼女が義足をつけていたからだった。二人はピクニックにでかけた先で意見違いをし、残酷ながらどこか滑稽な結末を迎える。

《すべて上昇するものは一点に集まる》は、いかにもアメリカ南部らしい小説。主人公ジュリアンが母親を減量教室に連れていくべくバスに乗る話。ジュリアンの母親は没落した大地主の娘であり、財産をなくしているにもかかわらず、古き良き日々と同じように暮らそうとし、彼女の価値観では奴隷であるべき黒人と同じバスに乗るのをいやがり、ジュリアンに教育を受けさせるために自分を犠牲にしたと自己陶酔する。ジュリアンにはそれが腹立たしくてならない。彼はわざと母親を不快にさせるふるまいをして、これが教訓になればいいのにと願う。ジュリアンの努力空しく、母親は頑固に自分の考え方にしがみつきつづけたーーただし、ジュリアンには思いもよらなかった哀れな方法で。この短篇での母親は、宗教的な「真実」にふれることを拒んだ例……に見えるが、キリスト教は最初、聖書の記述にもとづいて黒人奴隷を正当化していたから、ある意味では古い聖書解釈を忠実に守り抜いたといえるかもしれない。

私がもっとも衝撃を受けたのは《パーカーの背中》。信心深い女性と結婚したならず者のO. E.パーカーが、妊娠中の妻をよろこばせようとキリスト像の刺青を入れる話。パーカーは彼の妻サラ・ルースと気があわないことばかりで、なぜ結婚したのかと聞きたくなるくらいだが、サラ・ルースがパーカーの母親とおなじく信心深いこと、パーカーの刺青に魅力を感じなかったことが、逆にパーカーを「いかれさせた」らしい。この短篇の結末はただただもの哀しかった。おそらくパーカーは、信心深いサラ・ルースをよろこばせることで、彼女を通してなにかもっと大きな救いを得たかったのだろうけれど。

いずれの短篇も、中心人物がそれまで信じていたものが、なんらかのことをきっかけに根底から塗り変えられる。きっかけになるのはたいていは暴力的な行為や理不尽な言動だ。キリスト教的価値観を前提にしていることが多いので、一度読んだだけではすぐにピンとこないこともあるが、読み返しているうちに「ここ」だと感じるようになってくる。

「人間の価値観に根本的な変化が起こる瞬間」をテーマにした小説はあまたあれど、短篇でここまで鮮やかに描写するフラナリー・オコナーは凄まじい力量の持ち主だ。ティータイムに一本読めてしまう短さというのも嬉しい。少しの空き時間に、手に取るにはぴったりの良書。