コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

母親が与えたものと娘が欲したものが、すれ違うとき〜山口恵以子『毒母ですが、なにか』

最後の一文まで読んで思ったこと。

「『アラビアの夜の種族』『82年生まれ、キム・ジヨン』より前に読めばよかった……」

 

小説のプロローグは1972年8月26日。

男女の双子を産み落とした直後、主人公のりつ子がもらしたモノローグは、小説のタイトル『毒母ですが、なにか。』とあいまって、不吉な予感を投げかける。

りつ子は大きく膨らんだ幸せではち切れそうだった。これですべてがうまく行くだろう。戦いは終わった。勝利を手にしたのだ。これからはきっと幸せになれる。お伽話のヒロインのように……。

りつ子は複雑な家庭出身だ。父親は日本有数の財閥の創立一族に生まれながら、戦時中に野戦病院で看護婦をしていた庶民出身の母親に惚れこみ、駆落ち。一人娘のりつ子が16歳になったある夜、両親は鉄道事故で他界し、残されたりつ子は父方の実家に引き取られた。あまりにも住む世界がちがう一族にりつ子は戸惑ったが、やがて「悲劇のヒロイン」としてふるまうことでしたたかに居場所を確保し、女優顔負けの美貌を武器に、旧公家華族の流れを汲む由緒ある一族の跡取り息子と結婚する。

しかし、結婚生活は順調ではなかった。りつ子夫婦と同居する姑はりつ子の血筋を(正確には母方の血筋を)見下し、りつ子はりつ子で、姑は自分の美貌に嫉妬しているのだと蔑みながらも、イライラするのを止められない。

そんな中、りつ子は男女の双子を出産。これでやっとすべてうまくいくと、りつ子は息を吐くが、物語はまだ始まったばかりだった……。

 

読み進めるにつれて息苦しくなってくる。

主人公のりつ子はいつもなにかに勝とうと悪戦苦闘している。りつ子にほかの孫ほどの愛情を注がない父方祖母に。うちの会社は東大出身者ばっかりよとささやく従姉妹に。りつ子を劣った血筋と決めつける姑に。いつもりつ子は「こうすれば幸せになれる」ものを必死で探してきた。大学に合格したら、結婚したら、子どもを産んだら、子どもがお受験に成功したら……!

りつ子の「幸せ」とは「自分を見下してきた人々に勝つこと」であり、根底には「その人々に尊敬されたい、認められたい、大切にされたい」という悲痛な叫びがある。

まわりはりつ子にはどうしようもない出自だの血筋だのを理由にりつ子を蔑む。それでもりつ子はまわりに認められたい、ふさわしい扱いを受けたいという望みを捨てきれない。りつ子には両親も母方親戚もいないから。父方親戚、上流社会を鼻にかけてりつ子を脱落者と蔑む人々しか、りつ子にはいないから。だからりつ子はいつも「ここにはないもの」を探しつづけ、目の前にある幸せを踏みにじってきた。

りつ子が「幸せ」を得るために、自分自身ではなく子どもたちの出来不出来を利用するようになることで、子どもたちにとっての地獄の蓋が開いた。小学校受験のくだりはほとんどホラーである。そこからりつ子は、子どもたちを自分自身のために利用することにまったく良心の呵責を感じなくなる。そんなりつ子を、やがて家族も「毒母」として認識するようになる。

私はりつ子をまったく同情する気になれない。子どもの気持ちなど何一つ考えず、子どもを利用して自分自身が認められることばかりを考え、うまくいかなければヒステリックに怒るりつ子は、子どもには良い迷惑以外のなにものでもない。けれど、どこかで、なにかがほんの少し違っていれば、ここまでにはならなかったのではないか? そう思わずにはいられない。