コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

法治社会ははるか遠くに〜張平『凶犯』

本書も米原万里さん『打ちのめされるようなすごい本』で紹介されたもの。絶賛されているので読んでみた。

小説自体はとても面白い。中村医師が『アフガニスタンの診療所から』で、アフガニスタンの内情について、古くからの部族法や慣習法に従うのがふつうであり、国家は取ってつけたような存在で、国家権力も法律もあまり気にされていない、というふうに書いていたけれど、このような事情は中国の田舎でも変わらないことがよくわかる。

ベトナム戦争で片足を失った退役軍人である狗子(ゴウズ)は、国有林監視員として、妻子とともにある山村に派遣される。そこでは地元のゴロツキ四兄弟が歴代監視員をワイロ漬けにして国有林の木材を盗んで売りさばき、村ぐるみで分け前にありついていた。正義感に燃える狗子は盗伐の実態を告発しようとするが、報告書は村役所や区役所に握りつぶされる。狗子が言うことをきかないことに業を煮やした四兄弟は狗子を村八分にし、さらに容赦なく電気と水のインフラを止める。飲料水と生活用水がなくなることは狗子一家に大打撃を与えるが、村人たちは国有林盗伐からあがる金がなくなることを恐れ、見て見ぬふりをするか、狗子を積極的に排除にかかる。ある午後、ささいなことをきっかけに狗子は村人から凄惨なリンチを受ける。動けることが不思議なほどの大怪我を負った狗子は這って自宅に戻った。愛用の旧式軍用銃を手にするために…!

閉鎖的な自治体、地元有力者と役所の癒着、金をばらまかれて加担する村人達。中国の山村が舞台とはいえ、内容自体は案外日本の読者にもわかりやすいのではないかと思う。物語は殺人事件後と事件前を行き来して、狗子=殺人犯の独白と、事件を捜査する老刑事視点からの状況を交互に語り、しだいに事件の背景、真相、その裏にある官民癒着にせまっていくスタイルは映像向き。

米原万里さんの書評はいささか褒めすぎ、おおげさすぎ、文学の力に期待しすぎた感がある。

驚きなのは、自身のことを「実地の取材をしなければ書けない作家だ」と語る張平は、もちろん、本書も実際に起きた殺人事件を丹念に取材して書いていること。つまり、本書の内容はほとんどノンフィクションということで、中国国内でよくぞここまで国の恥部というか気の遠くなるような都市と農村の落差、権力の救いようのない腐敗と犯罪をえぐり出す作品が刊行されたことに新鮮な衝撃を受けた。言語統制をも突き破る文学の力があることに、心強い思いをした。

この小説が「言語統制をも突き破」ってなどいないことは、著者の張平が政府から中国国家一級作家に認定され、山西省人民政府副省長、山西省作家協会主席までのぼりつめたことを見るとよくわかる。小説でとりあげた「権力の救いようのない腐敗」はしょせん貧しい山村のゴロツキが監視員と村役所を抱きこんで国有林の木材をコソドロしていただけのこと。村役所ごときを切り捨てたところで中央政府には痛くも痒くもないし、当事者はすでに殺人事件の加害者や被害者となって事態は沈静化しているから、小説に書かれることにも寛容になれただけだろう。

ちなみに小説のベースとなったのは呂梁山(リョリョウザン)という山のふもとにある寒村で実際に起こった殺人事件。狗子のモデルとなった国有林監視員は、村八分に耐えかねて地元有力者(四兄弟ではなく三兄弟だったらしい)を射殺、殺人犯として死刑判決が下ったという。現実は小説よりもさらに残酷。