コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

わたしは声をあげ、コミュニティを飛び出した。あなたは?〜デボラ・フェルドマン『アンオーソドックス』

 

アンオーソドックス (&books)

アンオーソドックス (&books)

 

独特の価値観というものはどのコミュニティにもある。これに従わない者はコミュニティの一員ではない、というものも多かれ少なかれ。たとえばアメリカでは自由と民主主義であり、中国では政府への従順であり、中東ではイスラム教義であり、日本ではみんなと同調することであるかもしれない。それぞれの地区特有の価値観も、もちろんある。

 

本書の著者デボラ・フェルドマンが従うよう求められたのは、ユダヤ教ハシド派[超正統派]の一派であるサトマール派の教義だった。サトマールはルーマニアハンガリーの国境近くにある町で、第二次世界大戦中、ヒトラーの迫害を逃れてヨーロッパを脱出したあるユダヤ人の故郷だった。のちにハシド派の一派を創設する際、彼は故郷の名前をつけた。ヒトラーに奪われた故郷、ホロコーストによって消え去った東欧のユダヤ人コミュニティを記憶に留め、消滅の危機に瀕した民族的遺産に回帰することが使命だと彼らは信じていた。

 

コミュニティの成り立ちは同情と涙をさそうものの、少女時代のデボラにとって、コミュニティでの生活はいくつもの疑問をもたらした。

コミュニティのメンバーたちはユダヤの教義に忠実に従い、伝統的衣装や伝統的言語のみを使用し、忠実に戒律を守り、子孫繁栄を求められた。強制収容所で殺された数百万の同胞を取り戻そうとするかのように。なのになぜ、アイススケートリンクで出会ったユダヤ人少女は、コシェル〔ユダヤ教の戒律に従った清浄な食べ物〕ではないチョコレートを食べるのだろう?

デボラが暮らすのはニューヨークのブルックリン近隣、ウィリアムズバーグである。マンハッタンまで地下鉄で行ける。数ブロック歩いたところには英語の児童書をそろえた図書館がある。それらをデボラは隠れて読んだ。家では英語は汚れた言語として禁じられていたから。

 

少女時代、成人後、結婚後、出産後ーーデボラがコミュニティを抜けるまでの半生がこの本の内容だけれど、結婚前後の儀式を除けば、彼女の主観でつづられた人生にドラマチックなできごとは起こらない。驚くほどふつうだ。

だがなんの気ない記述が、彼女が「ごくふつうに」暮らしてきた日常生活の異常さを突然際立たせることがある。9.11テロが起きた日、ニュースを聞くために祖父がはじめてラジオを買ったという文章があり、デボラは「ゼイディがラジオを聴かせてくれるなんて。よほどの一大事にちがいない」とショックを受けている。それまで家には新聞もテレビも携帯電話もなかったのだ。

敬虔なユダヤ教徒であることを強制される日常生活の中で、小さな疑問、不満、違和感、怒りが、しんしんと降る雪のように、すこしずつ、たまっていくのが読み取れるけれど、デボラはその怒りをおおげさにさわぎたてることはしない。小さな違和感はずっとつもっていたものの、まわりから教えられるユダヤ教の戒律に背く勇気はなく、むしろ戒律に従わないものに反発を覚えた。

だが違和感は消えず、結婚初夜にそれは最悪の形で現れる。夫と交わることができなかったのだ。デボラは何ヶ月も病院通いする羽目になる。厳しい戒律は彼女が女性であることに気づく機会を与えず、結婚後に突然女性になれと言われても、身体が拒絶した。このあたりの描写は赤裸々だが、エロチックさは微塵もなく、ただただデボラの戸惑い、混乱、屈辱、それを過去の出来事として淡々と綴ろうとする意思が感じられる。

わたしの症状は膣痙というらしい。説明が書かれた本を渡された。それによると、戒律の厳しい宗教的環境で育った女性によくある症状だという。長年自分の身体と向きあってこなかったせいで、身体に背を向けられているのだ。

全編通して、過去の自分にふりかかった出来事のはずなのに、抑制された控えめな文章になっていることが、デボラがこれまでいかに戒めと自己抑制に慣れているかを裏付けている。デボラはエージェントと本書の執筆契約を交わした直後にコミュニティを脱出したから、彼女の手記は、彼女がコミュニティにいたころの特徴を色濃く残しているはず。サトマール派では感情は表に出してはならないもの、持ってはならないものとされてきた。その結果が、煽りも、大げさな感情表現もないこの文章だ。

 

本書は告発本ではない。批判本でもない。デボラが小さな違和感を重ね、ついにはこれまで住んでいた地域社会のやり方は自分と合わないと飛び出す決意をかためる際に、過去の自分と決別するために書いた本だ。ユダヤ教超正統派という特異性はあるけれど、過去を追体験しなければ、過去から解放されることはできなかったのだと思う。

この本が売れたのを、著者は、自分と同じ悩みをもつ女性が世界中にいたからだ、と表現したようだけれど、わたしにとって、この本はむしろとても嫌な命題を突きつける。

 

あなたはどう? いま住んでいるコミュニティのやり方に違和感や反発を覚えてはいない? 嫌だと声をあげる勇気はある? そこから脱出する勇気は?

 

この本は、意図せずして読者にそう問いかけている気がする。

 

作中で、デボラが友人ミンディの結婚後の変化に嘆くシーンがある。ミンディは秀才で、独身時代はデボラと一緒に英語読書や流行音楽、映画を楽しんでいたのに、結婚後は次々出産し、すっかり従順で敬虔なユダヤ教家庭の主婦になり、「これが神様のお望みなのよ」と呟く。

〝神様のお望み〟という言葉に無性に腹が立った。すべては人間の欲望のためだ。神がミンディに子供を産むよう望んだわけじゃない。なぜミンディは気づかないの? 彼女の運命は神の手ではなく、周囲の人たちに決められたのだ。でも、わたしにはなにも言えなかった。ミンディの夫からはすでに警戒されていた。迷惑をかけないよう、会うのをやめるしかなかった。それでも彼女を忘れることはない。

デボラは勇気をもって声をあげ、コミュニティを飛び出した。そうせずにはいられなかったからだ。では、あなたは? この本を読んでいるあなたは?