コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

エネルギーの過去をふり返り、未来を楽しく想像してみよう〜V. Smil “Energy and Civilization: A History”

エネルギーについて学ぶための本。

人類史をエネルギーという観点からとらえなおす試みは、読み始めたとき、わたしに違和感を与えた。石炭、石油、太陽光や風力といったエネルギーが産業活動に大きな影響を与えたのは確かだけれど、人類の歴史は産業活動だけではなく、政治経済や外交、文明発展なども含む。これらはエネルギーだけでは説明できないし、そうかといって省略してしまうとずいぶんつまらなくなる。そう感じたためだ。

だが著者は第一章でわたしの不安を取り除くよう努力してくれた。人類の産業活動をエネルギーや効率性で「量的に」換算するだけではなく、なぜ特定のエネルギー利用が発展したのか、それを支えた人類の探索や思考活動はどういうものだったのかという「質的な」ことも内容にふくめるという。これで安心して読み進めることができた。

 

人類史というだけあり、本書は猿人、原人、狩猟採集社会、農耕社会から始まる。

初期の農耕社会では、意外にも、農作物の生産性向上にはあまりこだわらなかったのではないかという。なぜなら生産性向上のためにはより多くの労働力(すなわちエネルギー)を投入する必要があるから。読み進めれば、この法則が古今東西変わらないことがわかる。よりよくエネルギーを利用するためには(人海戦術をとるのでもない限り)より高度な設備が必要になり、設備建造自体にかなりのエネルギーを投じなければならない。

とはいえ増えすぎた人口を養わないわけにもいかないため、農作物改良、治水技術、農業機械、貯蔵技術などがゆっくりと発展してきた。木材が燃料に使われることが多く(昔話の「おじいさんは山へ柴刈りに」というやつ)、石炭は中国では紀元前から製鉄に利用されていたものの、ヨーロッパで本格的に使われ始めたのは15世紀頃で、木材に代わる主要エネルギー源になったのはやっと19世紀後半(たったの150年前!)。石炭掘削のためにさまざまな技術が開発され、炭鉱労働者の労働組合が政治的な力まで持ち始めた。サッチャー首相が石炭から天然ガスにシフトする政策を打ち出したのは、炭鉱労働者組合の政治力を削ぐためだともいわれる。

石炭は始まりにすぎない。エネルギーの面からいえば、19世紀から始まる電気がまさに画期的であった。あらゆる形式のエネルギーー化石燃料原子力が生み出す熱、地熱、水流、風などーーは発電に利用出来るうえ、電気は多彩な利用方法があり、しかもクリーンだ。そこらじゅう煤だらけにすることはないし、煙や臭いをまき散らすこともない。

しかし電気の利用は最初ーーSF小説海底二万海里』でネモ艦長が「私の潜水艦は電気というすばらしいエネルギーで動いているのです」と語ってアロナックス教授を驚かせたようにーー想像上のできごとであった。発電所、変電所、送電線、電気機械などのシステムがあって、ようやく電気をうまく利用出来るようになる。このビジョンをはっきり持っていたのが発明家エジソンで、彼は電灯だけではなく、一般家庭で電灯を利用出来るための電力供給システムそのものをつくる努力をし、アメリカ最大の総合電機メーカーであるゼネラル・エレクトリックの基礎を築いた。

 

こうしてエネルギーの人類史をふり返ってみると、21世紀に巻き起こった環境保護やら再生可能エネルギーやらの議論は、結局のところ、いかに効率良くかつ環境を破壊せずに電気を生産し、利用するかという議論にすぎないことが見えてくる。電気に代わるエネルギーがないうえ、いまの社会システムは電気利用を前提に設計されているのだから、話はそうならざるを得ない。

しかし、電気に代わるエネルギーは今後も登場しないのだろうか?

著者は「地球上のエネルギーは多くが太陽光エネルギーを起源とする」と述べている。植物は太陽光をもとに光合成を行い、動物は植物を食べて成長する。植物はそのまま伐採されて薪となり、動植物の死骸が長い年月をかけて化石燃料となる。太陽光に暖められた大気層の中で風が起こり、雨が降り、水力や風力を生み出す。太陽光エネルギーが元になっていないのは原子力と地熱くらいだろうか。この見方をするなら、環境保護やら再生可能エネルギーやらの議論は、化石燃料(すなわち過去の太陽光エネルギーが形を変えたもの)に頼ることなく、いま地球に降り注ぐ太陽光エネルギーだけで人類の活動を支えるられるかという議論でもある。

となれば、太陽光エネルギー(あるいは光エネルギー)をそのまま利用出来れば、電気に代わるエネルギーになるのでは?

あるいは、まったく別のエネルギー源を利用出来るようになれば、電気は過ぎ去った時代のエネルギー源とみなされるのでは?

 

想像するのはとても楽しい。いまのわたしにはそのような社会がどんな姿をしているのかまったく想像出来ないが(とはいえ18世紀の人々もいまの電気社会を想像出来なかったはずだ)、300年後に『エネルギーの人類史』というテーマで本を書く人がいたら、その人が20世紀から始まる電気社会をどのように評価するのか、ぜひぜひ知りたいところだ。