コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

千年の黙 異本源氏物語 平安推理絵巻』(森谷明子著)

 

平安時代は、物語の舞台としてとても好きな時代だ。貴族間の恋のかけひき、季節の花に結ばれた恋文、選び抜かれた紙に美しくしたためられた贈答歌、雅なあそび…と、想像力をふくらませる空間にはことかかない。平安時代を描く作品でもっとも有名なのは紫式部の『源氏物語』やそれを漫画化した大和和紀さんの『あさきゆめみし』ではなかろうか。

私は『あさきゆめみし』のほかに、藤原眞莉さん『華くらべ風まどい』も気に入っていた。こちらは清少納言が主人公。ウマがあわない相手として、紫式部が『紫式部日記』で一方的清少納言をこきおろしている文章が現代まで伝わっている。千年の昔にあったことなのに、現代の女性同士のいざこざにそっくりで、微笑ましい…で終わればよいが、この二人の立場を知ると寒々しくもなる。

清少納言が仕えた藤原道隆の娘、中宮(時の帝、一条天皇の正妻)であった定子は、父母を亡くし、後ろ盾がなく、帝の愛情だけが頼りの身であった。一方紫式部が仕えることになる藤原道長の娘・彰子(まだ12歳!)は、道長の権力を後ろ盾に、入内後すぐに中宮の座におさまる。帝の正妻が二人になるなどというのはこれまでにない状況だ。一年後、難産のため定子は世を去り、清少納言も宮仕えをやめた。一方、定子亡きあと、彰子の地位はますます強固になる。

紫式部中宮彰子に仕え、『源氏物語』の評判もあって道長に気に入られ、皇子出産にも立ち会ってそのときの様子を『紫式部日記』に残している。このような立場から、たとえ個人的に清少納言に好意があったとしても、彼女が清少納言のことをよくいうことがとうてい許されなかったのは簡単に想像がつく。

華くらべ風まどい―清少納言梛子 (コバルト文庫)

華くらべ風まどい―清少納言梛子 (コバルト文庫)

 

 

この『千年の黙(しじま)』には、清少納言紫式部がどちらも登場する。

第一部は、『枕草子』第九段「上にさぶらふ御猫は」がベースにある。帝がかわいがっていた猫に、世話係がおどかすつもりで犬をけしかけたら、猫がおびえて帝のところに逃げてしまう。これを見た帝がこれまた冗談のつもりか「犬をぶちのめして島流しにしなさい」と言い出してさわぎになるエピソードだ。

上にさぶらふ御猫は、かうぶりにて命婦(みょうぶ)のおとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせたまふが、端に出でて臥したるに、乳母の馬命婦(うまのみょうぶ)、「あなまさなや。入りたまへ。」と呼ぶに、日のさし入りたるに、ねぶりていたるを、おどすとて、「翁丸(おきなまろ)、いづら。命婦おとど食へ。」と言ふに、まことかとて、しれものは走りかかりたれば、おびえまどひて、御簾のうちに入りぬ。

枕草子』のエピソードは小さなさわぎで終わったが、『千年の黙』ではもうすこしさわぎが大きくなる。

頃は藤原道隆が亡くなり、藤原道長が彰子を入内させようとしているころ。出産のため宮中を退出する中宮定子に同行した猫は、清少納言が牛車につないでおいたにもかかわらず、いつのまにか消え失せた。帝がこれに怒り、「中宮に非はない。御所の警備をないがしろにし、忍びこんだ輩にも、猫が逃げたことにも気づかなかった衛士たちを責めるべきだ」と言い出す。自分たちに飛び火してはかなわないと、道長が捜査に乗り出す。

ちなみにその日人が少なかったのは、定子の里下がりにあわせて、道長が殿上人を引き連れて宇治山荘に出かけてしまったためだ。要は定子に人をつけまいとする嫌がらせである。それが警備が薄かった原因になり、猫を逃し、帝の叱責を受けたのだから自業自得だ。帝も道長の嫌がらせには気づいていたがどうすることもできず、猫にかこつけてここぞとばかりに責めたのだろう。ともあれ都は猫探しにおおわらわになる。

ここでの謎解きの主は紫式部だ。いわゆる安楽椅子探偵物で、さまざまな情報から真相を導き出す。確かに平安時代の貴族女性が自分の足で情報を集められるわけもないので、こうなるのは必然ではある。

第二部は実際の文学史でも謎とされている紫式部源氏物語』の幻の巻「かかやく日の宮」をめぐる謎解きだ。『源氏物語』の初巻『桐壺』と、そのすぐ後に書かれたとされる『若紫』の間には空白があり、のちの物語に繋がらない部分がある。最も重要な伏線ーー光源氏が義母・藤壺と禁断の関係を結んだのはいつか、もう一人の重要な登場人物・六条御息所とどのように出会ったのか、書かれているはずの巻があったのではないか?  という説をもとにした物語だ。

第二部と続く第三部「雲隠」は、謎解きもさることながら、紫式部藤原道長の関係性、自分の紡ぐ物語が作り変えられるかもしれないことへの紫式部の恐怖がみごとだ。

印刷術などない時代、物語は写本によって広まっていった。その過程で誤字脱字、ひどいときには欠落部分が出ることもある。それを紫式部は「物語が作り変えられる」と表現した。自分が丹精込めて書いた文字が正しく読者に伝わっていないかもしれない、そのせいで自分の意図とは異なる解釈が生まれ、異なる物語になるかもしれない、その恐怖と悲しみはいかほどか。

現代では落丁等によって本が一部欠落するなどということはないから、私達はその可能性をあまり考えない。そこに着目して、紫式部の複雑な心情を書き、読者をはっとさせるこの小説は、見事だと思う。