ネパールのカトマンズ空港でこの本を読んだのは間違いだったかもしれない。このまま空港から出て、タメル地区の旅行会社にとびこみ、チベット行きを申しこみたくなるから困る。あるいはヒマラヤ山脈に聳え立つアンナプルナをのぞむポカラ、ブッダの生誕地ルンビニ、はたまたインドはブッダ入滅の地クシナガル? とにかく、帰りの便に乗る意志を容赦なく削ってくるのだ、この本は。
ネパールとチベットの繋がりは緊密だ。旅行会社はどれも「ヒマラヤツアー、チベットツアー、ブータンツアーあります」と書かれたポスターを貼っている。街を歩く人々の中には、チベット仏教に帰依し、修行中の身であることを示すワインレッドの布を肩にかけた老若男女。彼らは公式には語られることがない文化大革命の日々の中で、チベットからネパールに渡ってきたのだろう。世界遺産のボードナート仏塔を巡りながら祈る老人達。彼ら彼女らはあの時代をその目で見ていたはずだ。深い皺が刻まれたその顔の奥で、故郷チベットで起こったこと、今も起こり続けていることを記憶に刻んでいるはずだ。
この本の著者はそんな土地を踏んできた。上海からチベット入りして、ネパール、インド、タイ、そして日本に戻った。
チベットの奥地で死者が猛禽によって貪られる鳥葬を見た。「死者の書」の朗詠とともにLSDでハイになった。ポカラで15年前に泊まったホテルに知らず引き寄せられるように足を踏み入れた。インドはガンガーとヤムナー河が合流する聖地アラハバードで著者曰く「変態の楽園」、全裸で修行するサドゥー、二十年間右腕を下ろさない、十二年間座りも横になりもしない苦行を続ける人々と言葉を交わした。集団暴行を受ける不可触民を見た。200万人にも及ぶ不可触民を呑みこむカルカッタを歩いた。
死を隠さない生者達を見た。
著者は本の末尾にこう書いている。
「オレはきみを旅立たせるためこの本を書いたんだ 。
群れからはぐれても、
レールから脱線しても、
だいじょうぶ。
人生の豊かさを計る物差しは、
「命の残高」じゃなく、
永遠に増えつづける「出会い貯金」だから。」
さまざまな密教の話題がドラッグのハイ状態と一緒に語られるこの本だが、時折知っている単語が出てくるのが面白い。
チベットで一番古い僧院サムイェ寺。立体曼荼羅を象るこの寺と同じ建築物は、カンボジアのアンコールワットとインドネシアのボロブドゥールでしか見られない。そこでの対話。
「蛇は明と暗、善と悪、完全と不完全、生と死をあらわします。その蛇が自分のシッポを呑みこんで0(ゼロ )を作ったのがウロボロスです。相反する世界をつなげ、〝一は全〟であることを示しているのです」
「一は全、全は一」。漫画『鋼の錬金術師』のキーワードだ。主人公達が対峙する人造人間達はみな、身体にウロボロスの入れ墨を持つ。
チベットで二番目に大きい町シガツェにあるタシルンポ寺。一四四七年にダライ・ラマ一世によって開かれ、座主を務める歴代パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐチベット第二の法王だ。そこで密教学堂を見学したときの会話。
「時輪タントラは、二三二七年に起こるハルマゲドンも予言しています。ラ・ロと呼ばれる異教徒、おそらくイスラム教徒との宗教戦争と解釈されてます」
オンラインゲーム『モンスターハンターフロンティア』で狩場を突然襲撃してはハンターを軽々蹴散らし、最強の名をほしいままにしている黒き飛竜UNKNOWN。一切の情報不明とされる謎のモンスターだが、ゲーム内で名前が設定されているとの噂がある。「ラ・ロ」と。
日本の豊かな漫画やゲーム文化は、こういう世界中の宗教や伝説からどんどんネタを吸収している。ひょっとして漫画好きは知らないうちに伝説物語に詳しくなるのでは? そう考えると面白い。