コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

シェエラザード(上)(下) (浅田次郎著)

 

シェエラザード(上) (講談社文庫)

シェエラザード(上) (講談社文庫)

 
シェエラザード(下) (講談社文庫)

シェエラザード(下) (講談社文庫)

 

 

シェエラザードまたはシェヘラザード。千夜一夜物語の語部である聡明なアラビアの大臣の娘。この本のタイトルであり、作中に登場するニコライ・リムスキー・コルサコフによる交響組曲のタイトルでもある。この曲は伊藤みどり以来、ミシェル・クワン安藤美姫キム・ヨナら伝説級の選手たちがフィギュアスケートで幾度となく使い、世界の頂点に輝いた。

小説の冒頭は、まさに千夜一夜物語のようにとても不思議な幕開けをみせる。帝国ホテルに宿泊する中華民国政府ーーすなわち台湾政府ーーの関係者、宋英明と名乗る中国人が、主人公の軽部順一と日比野重政に話をもちかけた。戦時中に米軍攻撃を受けて台湾沖に沈んだ「弥勒丸」をサルベージしたい、そのための資金を融資してほしいと。

軽部順一のかつての恋人、新聞社に勤める久光順子が調べたところ、弥勒丸には莫大な金塊が積まれているというまことしやかな噂があることがわかった。宋英明が日本関係者に接触してきたのはこれが最初ではないことも。まもなく事態は急展開する。宋英明が軽部らとは別に接触した人物が謎の死をとげたのだ。

物語は現代と過去を行き来して、息もつかせない緊迫した展開を見せる。過去とは昭和20年4月、まさにその弥勒丸に乗りこんでいた人々の運命をめぐる物語。現代とは沈没した弥勒丸の引き上げ、弥勒丸を知る人々をめぐる物語だ。二つの物語がからみあいながら、しかし時空を行き来することに混乱や負担を感じさせることなく、読者をぐいぐい引き寄せる。

おそらくそれは、小説を読みすすめるにつれて、いくつか、現在を生きる私が知っている単語が、戦争中の記憶とともに出てくるせいでもあるのではないか。

横浜港に停泊している氷川丸。戦時中病院船として徴用され、豪華客船の中ではただ一隻、撃沈されずに生き延びたことを私は知らなかった。氷川丸が70年以上前にいったいなにを見てきたのか、今はもうほとんど語られることがなくなってしまった。こうして小説を読むことで、忘れ去られようとしている記憶にふれる。この瞬間がとても貴重だ。

 

地政学は悪党の論理だ。その意味するところは、国家の望むものを獲得するためであれば戦争や殺戮を選ぶことにも迷いがない、クールで抜け目がない悪どさだ」

以前私が『悪の論理:地政学とは何か』を読んだ時に書いた感想だ。

この小説は吐き気がするほどにはっきりと、それを目の前に突きつけてくれる。

読みすすめるにつれて吐き気がますますひどくなる。弥勒丸をめぐる、およそ血の通った人間が思いつくものとは思えない思惑が明らかになるにつれて。シンガポール弥勒丸が積みこむことになる黄金の出どころ、なぜ弥勒丸の乗務員数と犠牲者数には十倍もの開きがあるのか、なぜ弥勒丸は攻撃されねばならなかったのか、謎がひとつずつ明らかになるにつれてーー。

登場人物たちはみな聡明だ。気づかないほうがどんなに幸せであろうからくりを見抜きながら、軍命にさからえず、弥勒丸を最悪の運命に向かって押し出してしまった。そしてその結果、50年後に再会した相手に「辛い仕事をさせてしまった」と言葉にかけずにはいられないほどの苦悶を抱えこんで生きてきた。それぞれの思惑が明らかになるにつれて、宋英明が、人死にを出してまで弥勒丸を引き上げたかったことが、深く納得できてしまう。

太平洋戦争中だから、で片付く話ではない。シリア内戦、パレスチナロヒンギャ。「最悪の人道犯罪」はいまこの瞬間に起きていて、それはこの小説で描かれた弥勒丸の悲劇と同じように、政治的・宗教的メリットを得られるならば戦争や殺戮もいとわない人々が引き起こしている。これが現実だ、と、暗澹たる気分になってしまった。だがそれでも、題名「シェエラザード」が一度聞き出したら止まらなくなる美しい交響組曲であるように、読む手が止まらない傑作小説だ。