コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

空棺の烏(阿部智里著)

八咫烏シリーズの四作目。舞台は人ではなく八咫烏が支配する世界。金烏(きんう)と冠する族長宗家が君臨し、東西南北の有力貴族の四家がそれぞれの領地を治める。

前作で猿に襲われた故郷と若宮の心のありようを知った雪哉が、決意を秘めて勁草院の扉をたたく。勁草院とは宗家の近衛隊たる山内衆(いわばエリート武官)の育成機関だ。だが長引く若宮派と兄派の政治対立により、勁草院の中でも静かな変化が進んでいた…。

 

これまで貴族寄りだった物語が、出身を問わず実力勝負の勁草院に移ったことで、一転、庶民側にスポットライトがあたるようになった舞台設定は見事だ。

中央貴族は「宮烏」、庶民は「山烏」と呼ばれて区別されているが、それがいつしか蔑称になり果てている。意識の隔たりはあまりにも大きく、とくに宮烏側はそのことがあまりにも自然に感じられるせいでもはや差別に気づかない。

さらにえげつないのは、差別される側が実際に獣同然に貶められる仕組みがあることだ。

八咫烏は通常人形ですごし、自由に鳥形に姿を変えられる。しかし、八咫烏にある三本目の足を斬り落とせば、二度と人形になれず、「馬」と呼ばれ、大車を引くための家畜として文字通り飼われる一生になる。刑罰としてそうなる者もいれば、貧しい家族のために身売りする者もいる。大車は貴族御用達の乗り物だが、貴族の姫君などは「馬」が元々は自分たちと同じ八咫烏であったことすら知らないこともある。

勁草院でさまざまな出自をもつ院生と知りあい、このことに気づける貴族もいれば、目の前に突きつけられても理解できない貴族もいる。本作は残酷なまでにそれを見せる。もしあんたが山烏として生まれていたら同じことが言えるか、という血を吐くような詰問も、生まれてから特別待遇があたりまえだった貴族には届かない。単純に想像できないのだ。

公近は本気で意味が分からない、という顔をした。

「何を言っているんだ。私は、山烏などではない」

差別を描ききった舞台設定も見事ながら、終盤近くで物語が大きく動きだすことで、ますます目が離せない。