コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

明日からの世界を生きるために知っておこう『昨日までの世界(下)』

昨日までの世界とは、現代西欧社会とは違う伝統的社会のこと。伝統的社会と現代社会を比較して、お互いから学べることを見つけたいというのが本書の主旨で、下巻の宗教について書かれた章でもっともよく生かされている。

21世紀に起こったさまざまな出来事を見て、こう考えた人は多いのではないだろうかーー

なぜ宗教は人を殺人に駆り立てるのか?

なぜ宗教は報復合戦を引き起こすのか?

なぜ宗教は汝の敵を愛せよと説く一方、異教徒には情け容赦ないのか?

著者はそれらについて説明を試みている。

そもそも、干ばつ、嵐、洪水など、およそ人間の力ではどうしようもないことについて、それでもなにか理由を見つけたり、働きかけられる手段を見つけずにはいられなかった(さもなくば座して餓死や溺死を待つばかりである)、人間の心理活動が、宗教を生み出したのではないかという。宗教は自然現象を説明してくれる。自然現象に働きかけるための儀式を教えてくれる。儀式を執り行うことで、少なくともなにかをした気分になる。それゆえに宗教は生まれ、必要とされた。

だが、首長制国家にシフトしていくにつれて、宗教の役割は変わってしまった。首長たちはまず、自分の地位確立のために宗教を利用したーー自分は神そのものである、神の子孫である、神の声を聞くことができるといった具合に。次に治安維持のために宗教を利用した。狩猟民族時代では、見知らぬ人は敵対部族のメンバーとして殺されることが多かったが、それをやめさせるために、見知らぬ人であっても、同じ信仰をもつ者を愛せよと説いた。最後に、敵対国家との戦争ーー殺人行為ーーを正当化した。神を信じぬ異教徒どもを殺せ。そうすれば神はお喜びになり、死後天上でもてなしを受けることができる。

なぜ宗教戦争は絶えないのか。こう考えるとある程度説明にはなる。もともとそうなるように決められているものだからだ。八百万の神々に代表される民間信仰には、異教徒攻撃などというルールは薄い。異教徒攻撃をすすめる宗教は、それだけ政治的に利用されてきたといえるかもしれない。

つい先日、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の教祖を含むメンバー数人の死刑が執行されたというニュースがあった。オウム真理教でも教祖は過去・現在・未来を見通せる超能力があるとされており、非信者らを攻撃するためとしてサリン事件を起こした。この本で書かれた宗教の特徴そのまま。「昨日までの世界」で学べることは、今も繰り返されている。