コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

はい上がれないということ『東京貧困女子』

 

東京貧困女子。: 彼女たちはなぜ躓いたのか

東京貧困女子。: 彼女たちはなぜ躓いたのか

 

貧困というキーワードにはむかしからそれなりに関心があった。けれどその時関心があったのは発展途上国の貧困であり、先進国の貧困については想像出来なかった。

先進国である日本で、貧困女子、子どもの貧困、ワーキングプア…というキーワードを見かけない日がなくなったのは、そんなにむかしのことではないと思う。

発展途上国の貧困に比べればまがりなりとも衣食住はなんとかなっているのではないか、と思っていたころ、わたしはアメリカのワーキングプアを扱った本を読んで、相対的貧困のことを知った。先進国では衣食住はなんとかなり、スマホを持っていたとしても、まわりの生活水準から明らかに低ければ「持たざる者」にカウントされる。

先進国で収入が低いことはより残酷なことかもしれない。発展途上国ではそもそもまわりにモノがないが、先進国ではモノがあふれているのに、見ているだけで手に入れられないからだ。欲しいモノを手に入れようとすると、たとえばアメリカでは薬物売人に手を染める、日本ではクレジットカードで借入しまくったあげく破産するなど、犯罪や身の丈に合わない借金に走る人々も出てくる。

ワーキング・プア―アメリカの下層社会

ワーキング・プア―アメリカの下層社会

 

 

わたしが貧困、とくに貧困女子のネット記事をよく読むようになったのは、彼女たちに同情したからではない。わたし自身のためだ。わたしはまだここまでひどくない、でも一歩間違えればわたしもそちら側の人間になるかもしれない、そうならないために努力しなければ、落とし穴にはまらないよう知っておかなければ、と、自分自身に言い聞かせるためだ。

貧困関係のニュースを追わなければ、リボ払いの罠も、消費者金融の利子のからくりも、ブラック会社の搾取手口も、いわゆる貧困ビジネスも知らなかったかもしれない。これらの情報を得たことで、わたしはどれだけ勧められようとリボ払いは一切利用しなくなったし、投資関係ではまず金利が年なのか月なのかをチェックするようになったし、やりがい搾取が心底嫌いになった。

だが、すでに貧困に陥ってしまった人々を相手にする貧困ビジネスと、貧困になってしまった原因そのものはまた違う。

 

これまで読んできた中でも、この本はとりわけうまく「貧困になってしまう構造的原因」をえぐり出している。構造的貧困、官製ワーキングプアという言葉で表現される、国や自治体が賃金設定する介護職や非正規の公的機関勤務者にもたらされる貧困。社会制度の問題であるがゆえに、個人的努力ではどうにもならない。たとえば介護職には、失業者をハローワークの資格取得制度などを通して意図的に追いやりながら、給与水準を最低限度にとどめている、と著者は怒りの声をあげている。

 

一方で、なぜ、もうかる仕事を選ばないで、すでに官製ワーキングプアと言われているような仕事を決めてしまうのだろうとも思う。

わたしの実家は決して経済的余裕があるわけではなかったけれど、両親は教育への投資は惜しまなかった。どこから聞いたのかはもはや思い出せないけれど、高卒では良い仕事はない、職種ごとに給料が全然違うことはごく自然に知っていたから、大学進学に迷いはなかった。

それゆえに、給与水準が業界ごとにある程度決まるのに、あえて介護、保育、司書などの低給与業界を目指す貧困層の人々がいるのはなぜなのか、わたしには本当にわからない。もしかしたら潜在意識で「これくらいしかできない」と思いこんでいるのか。あるいは本当に、そのような情報にアクセスできないのか。

最後の行きどころである風俗業界でさえ、もはや稼げないことは、本書の一番最初に書かれている。

(著者が若い頃は)彼女たち(風俗嬢やAV女優)の物語は平穏で幸せとは言い難かったが、貧困という社会問題より、痛快なピカレスクロマンだったのだ。

裸の世界はそれぞれの事情を抱えた女性たちが「最終的に堕ちる場所」という社会的な評価で、特殊な産業だ。しかし、覚悟を決めて堕ちてしまえば、貧困回避どころか中間層を超えて富裕側にまわれるという世界だったのだ。

「もしかして日本はおかしくなっているのではないか?」と、うっすらと違和感を抱くようになったのは2006~07年あたりからだ。裸どころかセックス映像を世間に晒して売る、というリスクの高いAV女優に「出演料が安すぎて、とても普通の生活ができない」という層が現れた。

明らかにおかしい。

けれど富裕層は労働者賃金を下げることしか考えてないし、誰もが自分自身を守って踏み止まることで精一杯で、諦めきっており、政治制度に声をあげるどころではない。

緩やかに国家が壊れてゆく。その蟻の一穴を、この本は絶望感の中でありのままにさらけ出している。そしてわたしはまた、こうならないように生き残らなければと決意をあらたにする。

 

このとりとめのない文章を読んだ方の中には、貧困問題に関心があるならなぜ支援側にまわらないのか、という疑問を抱かれるかもしれない。「わたし個人にそんな余裕がないから」「政府がやるべきことだから」というのが答えだ。

貧困問題やブラック企業に声をあげている人々として、わたしが知っているのは、湯浅誠氏や、宇都宮健児氏、今野晴貴氏、鈴木大介氏、そして本書著者の中村淳彦氏など。彼らの著書はずいぶん読ませていただき、貧困問題やブラック企業について学ぶためにとても役立った。しかし、彼らのような社会活動ができるかと問われると、わたしは二の足を踏む。

おそらく、彼らが日々面しているだろう、豊かで無理解な人々から投げつけられる心無い言葉や態度に、自分が耐えられると思えないからだ。

一番有名なのは生活保護申請の水際対策だろう。困り果てて生活保護を申請しようと役所窓口に行く人が、生活保護受給対象に該当するにもかかわらずまったく相手にされなかったり、わずかな財産や生活必需品である車の所有を理由に断られたり、使用できる社会制度について教えてもらえなかったりすることが、本書にも登場する。

こういう現実は言下のうちに「国のカネで貧困者を養うのはけしからん」というメッセージを伝え、貧困者本人やその支援者への強い風当たりになる。利用できるものはとことん利用してやるという「ずうずうしさ」がある人々であれば追い返されようとめげないだろうが、本書に登場するような生活保護受給を恥と思うようなまじめな人々は、最後の砦にも頼れないことでさらに追いつめられる。

結局のところ、そういうことに直面することに、わたし自身が耐えられそうにないから、わたしは貧困問題の支援側にまわれない。貧困問題を解決しようとする人々のことは心から尊敬するし、必要なことだと信じている。いつかわたし自身がそのお世話になる可能性がゼロとは限らないことも承知している。それでもわたし自身がそういう社会活動をしようとは、どうしても思えないのである。