コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

昭和のご家庭におじゃまします『父の詫び状』

初めて読んだ向田邦子さんの文章は「字のないはがき」というエッセイで、国語の教科書に載っていた。戦時中、集団疎開で東京を離れることになった、字が書けない妹に、父が自宅住所記入済みの葉書の束を渡して「元気なら、この葉書の裏に丸を書いて、一日一枚出しなさい」と言う、というお話だった。

エッセイの内容も印象的だったけれど、このエッセイの出典元だという本のタイトル『眠る盃』が気になった。盃が眠るなんて聞いたことがない、どんな意味なんだろう、と、頭の片隅にひっかかっていた。のちにそれが著者の聞き違いからきていると知り、なあんだと拍子抜けしたものだ。

こういう出会い方だったためか、向田邦子さんは放送作家が本業だが、私は彼女のエッセイしか読んだことがない。『眠る盃』はずいぶん前に読んだが、それっきりしばらく忘れていて、やっと今回、最初のエッセイ集である『父の詫び状』を手に取った。

 

『父の詫び状』に収められているエッセイ集は24篇。向田邦子さんの子供時代の家庭生活や、大人になってからのちょっとしたできごとを、テレビドラマの一場面のように切り取ったものだ。

読み進めていくと、威張りんぼうの昭和頑固親父ながら子供たちに不器用な愛情を示す父、そんな父を立てながら時には父以上の瞬発力を見せる母、当時にしてはめずらしく未婚で子どもを産んだ父方の祖母、弟妹含めての四人きょうだい、戦時中をふくめた昭和時代の暮らしが、生き生きと目の前に浮かんでくる。

向田邦子さんが切り取る思い出の場面はみごとにバランスが取れていて、父が子供たちに怒鳴り散らす場面があったかと思えば、宴会で出てきたごちそうを折詰にしてもらって帰り、眠い目をこする子供たちに食べさせて喜ぶ姿が描かれる。私が向田邦子さんの名前を知るきっかけになった『字のない葉書』からして、女学校に通うために一時的に別居していた娘に、父が「向田邦子殿」などとかしこまった宛名でまめに手紙をよこして、普段怒鳴られたりゲンコツ制裁されたりすることに慣れた娘をおかしがらせる話から始まるのだ。乱暴だけれども子供たちには愛情があって、でもそれを表現するのがこそばゆい昭和親父の姿が、みごとに浮き彫りにされている。

 

保険会社の支店長をしていた父親が転勤族だったため、家族は数年ごとに引越しを繰り返していたが、その先々での日々のことも、エッセイにつづられている。

不思議なことに、鹿児島の薩摩揚、高松の海軍人事部での兵士たちの稽古、目黒でお正月に遊びに行った同級生の家など、ひとつひとつの場面はあるできごとに焦点が絞られているにもかかわらず、エッセイを読んでいるうちに、それ以外のものが自然に頭の中に浮かんできて、一幅の絵になる。鹿児島の薩摩揚についていえば、「小学校帰りによく薩摩揚屋に寄り道した」といった文章を読んでいると、昭和風の木造家屋がならぶ通り、その一角にある薩摩揚屋、香ばしい匂いをかぎながら歩いていた子供が、自宅にたどりつくまでの場面がしぜんと浮かんでくる。もちろん背景は夕焼けだ。昔懐かしい昭和時代について、文章だけで想像力を最大限かきたててくるあたり、放送作家の筆力かもしれない。『父の詫び状』が生活人の昭和史としても評価されているのがうなずける。

もう二度ともどらない昭和時代の、こまやかな欠片を一冊の本にまとめたエッセイ集。一篇一篇は短くてすぐに読み終えることができる。予定のない休日の午後に、好みの濃さの緑茶と茶菓子を楽しみながら、お茶請けに読んでみるのがおすすめだ。