コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

現代日本社会でも役立つ「全体主義」の解説書〜仲正昌樹『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』

ハンナ・アーレントという名前を最初から知っていたわけではない。新型コロナウイルスの感染者が乗船していたことで横浜港に留めおかれていた豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号、その内部感染管理がメチャクチャだとYouTubeで実名告発した岩田健太郎医師。そのTwitterに寄せられたツイートに、ハンナ・アーレントの名前が登場したのがきっかけだ。

 

ハンナ・アーレントは1950年代から1960年代にかけて、西欧諸国の政治思想に大きな影響を与えた政治哲学者。著書のうち代表作ともいえる『全体主義の起原』『エルサレムアイヒマン』を、本書では紹介している。原著はとても読み通せないほどの重厚長大な専門書だから、本書ではそのエッセンスだけを紹介している。

ぱらぱら読んでみただけで、どきりとするような鋭い指摘があちこちに登場する。

 

極度の不安は、明快で強いイデオロギーを受け容れやすいメンタリティを生む、とアーレントは指摘しています。

不安な時代であれば、人々は明快で強力なリーダーシップを求める。これに乗ったのが言うまでもなくアメリカのドナルド・トランプ大統領であろう。彼は明快に「アメリカの経済停滞は移民のせい/中国のせい/EUのせい」と、次々打ち出すことで、アメリカ国内の支持を強めた。

 

アメリカをはじめとする西側諸国は、自分たちとは異なる体制──近代的自由主義の成果を否定し、諸個人を大きな共同体としての国家に完全に組み込み、自分のためではなく、国家という共同体のために生きるよう教育することを当然視する体制──の異様さを表現する言葉として「全体主義」を使うようになりました。

これは「全体主義」という言葉についての説明の一部。【自分のためではなく、国家という共同体のために生きるよう教育】している体制は、現代日本のありかたの根底をなしてはいないだろうか。中東の危険地帯で人質にとられた日本人を自己責任だと断じ、親兄弟に謝罪を強要するやり方は、国家に迷惑をかけたということをよりどころにしてはいないだろうか。

 

「敵」との相違が育んだ仲間意識は、それを維持・強化するために、つねに新たな「敵」を必要とします。身近にいる誰かを、自分たちとは違うものとして仲間外れにしないと、自分たちのアイデンティティの輪郭を確認できないからです。

これはそのまま【いじめ】の根本原因ではないだろうか。自分たちがどういう存在なのかはっきりさせることができていないから、仲間意識をもつために、仲間外れとなる【敵】が必要になる。【敵】になりやすいのは外国人、障害者、LGBT...挙げればきりがなく、具体例を出すまでもないほど日々実例がマスメディアで報道されている。

 

自分たちの共同体は本来うまくいっているはずだが、異物を抱えているせいで問題が発生しているのだ──と考えたいのです。自分たちの共同体に根本的な問題があると考え、それを直視しようとすることには大きな痛みが伴いますが、身体がウイルスに侵されるように、国内に潜伏する異分子に原因を押し付ければ、それを排除してしまえばよい、という明快な答えに辿り着くことができます。

人間、問題があることには気づけても、自分たちに根本原因があるとは考えたくないもの、というのはかなり本質的な指摘だと思う。日本に限らずどの国家でも、それどころか会社でも家族でもどんなグループでも、他者批判には熱心でも、自分たちの問題にはなかなか手をつけない、というのはよく見かける。

 

階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

これも耳の痛い指摘。「一億総中流」になると、どうすればメリットを得られるか自分で考えなければならなくなる。あるいはなお悪いことに、無関心をそのままひきずり、とりあえずメリットを得ている誰かの真似をすれば幸せになれると思いこむ。

「結婚して、子どもを2人産んで、家を買わなければならない」などがそうだろう。なぜそうしなければならないのかよくよく考えてみると、「親/親戚/友人がそうだから」「みんなそうしているから」以上の理由がなかったりする。なんとなれば、そうすることが本当に自分に向いているのか、自分のやりたいことなのか、分からないまま真似していることも多い。

アーレントはこのようなものを考えない人々を【大衆】と呼び、自らの要求や権利をはっきり知っている【市民】と区別している。社会がうまくいっているうちはそれでもいいけれど、不景気などで社会が不安定になれば、【大衆】はにわかに不安になる。だがふだんから考える習慣がないから、分かりやすい安心材料を求めてしまう。「ユダヤ人が悪い「移民のせいだ」「○○国が裏で手をまわしている」「○○国の安い労働力が仕事を奪う」といったシンプルな結論にとびついてしまう。

この状況こそアーレントが回避しようとしているものだ、と本書は紹介する。いかなる状況でも「複雑性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならない。これがアーレントの、また本書の結論である。

 

哲学というジャンルは、私にとってはとっつきにくい。人間の本質に鋭く切りこんでいる気もするし、「これがわかったからといって日常生活になんのメリットがあるのだろう」などとも考えてしまう。

だが、ハンナ・アーレントの哲学思想を見てみると、少なくとも【これを知っていれば、政府がヤバイ方向に行こうとしていれば気づけるかもしれない。気づければ反対するなり逃げるなり選択できる】点では役立ちそうだ。

現代日本社会がナチス・ドイツのような全体主義に染まっているというわけではない。だが類似点は確実にある。それらの類似点が危険かどうかは、「どうしてこうなったか」「これからどうなるか」を知らなければ判断できず、アーレントはまさにこの因果関係を論理的にひもといてみせた。ゆえに価値がある。

冒頭での新型コロナウイルスの話題にもどると、すでに専門家が「水際作戦で対応できるフェーズを過ぎ、国内感染拡大フェーズに入った」と指摘しているにもかかわらず、ネットの一部では今からでも中国からの渡航者を入国拒否すべきだという意見が根強いという。

すでに新型コロナウイルス感染者は日本国内に数百人おり、彼らのまわりで感染が広がりつつある。いわば根本原因はーー少なくとも一部はーー日本国内に移ったのだ。一方で中国では政府主導の強力な封じこめ、外出自粛がだんだん効果を生じてきて、新たな感染者は前ほどのペースでは増えていない。この状態で未だに「中国人を入国拒否すればよい」と言うのは、アーレントが指摘するような、原因を外部に求めすぎる姿勢に通じるのではないだろうか。実際、中国人の入国拒否は、今からでもある程度効果があるかもしれない。それは誰にもわからない。だが、この姿勢が強くなりすぎないよう、気をつける必要があるのではないだろうか。