コーヒータイム -Learning Optimism-

18歳のわが子に読書をすすめるために、まずわたしが多読乱読しながらおすすめを探しています。英語書や中国語書もときどき。

女性読者は心臓を日本刀で刺されたような衝撃を受けるだろう〜チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

韓国社会で一大ベストセラーになったこの小説を遅ればせながら読んでみた感想。

「これ、女性読者には心臓を日本刀でぶっ刺されたような衝撃を与えそうだけど、男性読者には響くんだろうか」

ストーリーは至極単純だ。主人公キム・ジヨンは夫と1歳になる娘とともに暮らす専業主婦。彼女がしばしば生き霊にでも取り憑かれたように、自分ではない身近な誰かになりきったような言動をすることに気づいた夫が、ジヨンを精神科に通わせる。精神科医はカウンセリングによってジヨンのこれまでの人生についてじっくり話を聞く。ジヨンの半生はごく平凡なものだったが、その中にはごくありふれた日常経験として、韓国社会にはびこる男尊女卑の病巣が紛れこんでいる。小説はさりげない筆致でこれらの病巣を抉りだす。ジヨンを担当した精神科医は彼女の半生をカルテにまとめ、最後に独白して終わる。

男尊女卑の病巣は一見小さなことの集合体として提示されている。家庭から、学校から、職場、結婚生活まで、小さなことの集合体はしつこい汚れのようにこびりついている。家庭では姉妹よりも先に弟にごはんがよそわれ、弟だけに一人部屋が与えられようとする。学校では男子が女子よりも先に給食を食べ、男子の服装規定はゆるいのに女子は厳しい。就職活動では女性だからという理由で書類選考すら通過できず、面接ではセクハラめいた質問が投げかけられる。職場では男性社員に将来性のある仕事が割り振られ、女性社員はいずれ結婚・出産して長く働家ないかもしれないからと、男性社員に割り振られなかった仕事をさせられる。あげく女子トイレで盗撮騒ぎが起きたが、男性社員たちは女性社員をかばおうともせず、むしろ迷惑そうにしている。

ーー日本では医科大学の入学試験であからさまに男子受験生の点数に下駄がはかされたが、キム・ジヨンの人生でも一事が万事こんな調子だった。

ひとつひとつの出来事はさりげなく、女性にとってはあるある話ばかりである。男尊女卑をまったく経験しなかった女性はほとんどいない。韓国に限らず日本でも。だからこそこの本は韓国にとどまらず、日本、さらには中国でも大人気になった。キム・ジヨンの物語を、女性読者たちは自分たちの物語として読んだからだ。

小説は精神科医が患者から聞いた話をまとめたカルテという体裁をとっているから、あくまで客観的だ。肩入れしすぎず突き放しすぎず、キム・ジヨンの人生で起こったささいなことを語ることによって、彼女を追い詰めたものを淡々と炙り出している。しかし精神科医は結局のところキム・ジヨンの苦しみを理解できるわけではなく、「私が考えも及ばなかった世界が存在する」と、他人事なコメントを残す。40代の男性であるらしい精神科医には無理なからぬ話だ。

本書は韓国で女性読者から熱狂的に支持される一方、男性読者の中にはフェミニスト本として毛嫌いする人が少なくないと聞く。自分たちが優遇されている側だと指差されるのはおかしい、兵役がなくいざとなれば夫の収入で食べていける女性こそが恵まれているのだと主張する男性もいる。

作中でキム・ジヨンの夫は、義実家の追求をかわすためだけに深く考えることなく「子どもをもとう」と提案し、ジヨンが出産後も仕事を続けられるか不安がると、「失うもののことばかり考えないで、得るものについて考えてごらんよ」と悪気なく言い放ち、ジヨンの怒りを買う。

「それで、あなたが失うものは何なの?」

「え?」

「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友だちっていう社会的ネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。だから失うもののことばっかり考えちゃうんだよ。だけど、あなたは何を失うの?」

「僕は、僕も……僕だって今と同じじゃいられないよ。何ていったって家に早く帰らなくちゃいけないから、友だちともあんまり会えなくなるし。接待や残業も気軽にはできないし。働いて帰ってきてから家事を手伝ったら疲れるだろうし、それに、君と、赤ちゃんを……つまり家長として……そうだ、扶養! 扶養責任がすごく大きくなるし」

ジヨンの夫のしどもどとした言いわけは、新型コロナウイルスの感染拡大対策に「小中高を臨時休校させる」としれっと言い放ち、家にいる子どもたちの面倒を見るために母親たちが仕事を休まなければならなくなることには考えが至っていないように見える政府と、同じメンタリティを感じさせる。

『82年生まれ、キム・ジヨン』に書かれていることはフェミニンなどではなく、女性が見ている世界そのものだ。作中で精神科医が「考えも及ばなかった世界」と呼んでいるものを、この本は目に見える形にしてくれている。

食わず嫌いをせず、この本をぜひ読んでほしい。男性女性限らず、どの国に住んでいるかに限らず。