コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

1000年前に生きた女性だけれど、現代社会にいてもまったく不思議ではない〜田辺聖子『むかし、あけぼの 小説枕草子』

田辺聖子さんの名前を知ったのは、しばらく前に源氏物語「若紫」帖の定家本がみつかったというニュースが駆け巡ったとき。Twitter上で古典愛好者が大盛りあがりをみせ、定家本発見がいかにすごいことか力説する中で、誰かが田辺聖子の名前を出し、古典入門書として著作を読むことをすすめた。

私は源氏物語枕草子、というより平安時代の女流文学全般がわりと好きだが、なんの因果か、田辺聖子さんの本を読んだことはなかった。たまたまみつけたこの本を手にとったのは気まぐれであるが、読み始めてすぐに夢中になった。

清少納言の一人称で書かれたこの小説は、枕草子をベースとした彼女の人生語りだが、枕草子に書き散らされていること、同時代のほかの古典に記録されていること、人情の機敏についての作者の想像力もあいまって、みごとな奥深い物語りとなっている。

この小説を読むと、とても清少納言を1000年前に生きた女性とは思えない。まるで街中ですれちがう現代女性のように生き生きした姿を見せている。なんならブログやインスタやツイッターを使いこなし、「うちの夫はロマンのカケラもない!」と、歯に衣着せないものいいをする姿、「春はあけぼのがすばらしいわねえ」と明け方に思いついたようにツイートする姿がまったく違和感なく浮かびあがる。枕草子の内容などは思いついた端からツイートするのにぴったりだ。折々の行事についてのまとまった記事は、ブログの方がいいだろう。

小説中にブログだのツイッターだのをたのしむ姿が登場するわけではもちろんないのだが、田辺聖子さんのもの語りのおかげで、清少納言というひとりの女性に、時空を超えて、まるで友人知人のように親近感をもち、友人知人がやりそうなことをつい清少納言にあてはめたりする。

だが清少納言が本当にブログやインスタやツイッターを使いこなすならば、むしろ鍵アカや限定公開に設定しそうな気がする。彼女が求めているのは趣味の合う者同士のサークルであり、クソリプとびかう修羅場ではないからだ。ものの風情を解さない奴は夫の則光で充分であろう。彼女自身、己の価値観を明快に言い切っている。

男や子供に夢をかけるというよりは、手ごたえのある人間と交渉をもち、反応のす早い会話を楽しみ、互いの教養や機智や精神のありどころを測定し、競い合い、賞で合う、そういうときの、いきいきした、緊張状態、親和の感情、するどい感覚、それらを私は愛する。

機敏に富む清少納言は、ときの天皇・一条帝の中宮・定子に仕える。清少納言は身分と主従関係をとびこえて、定子中宮に気のあうものを感じていたらしい。惜しげもなく中宮定子を賛美する一方で、定子の生家である中関白家の没落や不運についてはひとことも書かないと決めている。

今までの後宮の女人たちにない、明快な意思表示のできるかた、ご自分の人生を、愛で彩る勇気のおありになるかた、……感動や愉悦をまぶしいくらい体ぜんたいにあらわされ、それを相手に伝えるのをまた、喜びとされるかた。 更にはそれら、感動や愉悦──つまり、生きる喜びを、周りの人間と共有したいと烈しく希求なさるかた。

枕草子を学ぶとき、ぜひ一緒に読みたい名作。古文文法のむずかしさにあきらめて放り出すにはあまりにもったいない、枕草子、王朝文学の奥深さ、その時代に生きた人々の喜怒哀楽を、この小説は存分にたのしませてくれるだろう。