コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

教訓が風化しないことを願って〜羽根田治『山岳遭難の教訓』

私は以前山好きの知りあいに初心者向けの夏山に連れていってもらったことがあるが、「当日の降水確率が30%以上なら中止」といわれた。その時は慎重すぎると若干不満だったものの、さいわい当日は天気にめぐまれた。

登山ではどれだけ天候に気をつけても慎重すぎることはないということは、その後に登山上級者が教えてくれた。慣れ親しんだコースであっても、予想外の暴風や雪に見舞われることがあり、そうなれば登山者は簡単に低体温症や凍傷を起こし、遭難の危険にさらされるということを。

 

本書は、山の遭難をテーマに執筆活動をしているフリーライターによる、実際に起きた山岳遭難あるいは遭難未遂のレポート。雪崩、高体温疾患、低体温症などの状況別に実際の出来事を詳細に書き、その後に医師あるいは救助にあたった山岳救助隊員など専門家による解説、気をつけるべきことをつけている。ことに高体温疾患は、著者本人が体験しており、症状の描写はリアリティたっぷり。

右足の太ももに続いて左足のふくらはぎがつり、その激痛から少しでも逃れようとして体を動かしたら右足のふくらはぎ、さらには左足の太もも、両脇腹、両腕などの筋肉が次々につり出して全身硬直状態。激痛に声も出ず、痛みが去ってくれることだけをただただ祈った。しかし、ようやく治まったと思ってちょっと体を動かすと、またすぐにピキッとつってしまうのである。それはそれは地獄の苦しみであった。(『高体温疾患の恐怖』)

 

本書で強調されているのは、いわゆるベテラン登山者であっても、遭難のリスクから逃れることはできないということ。慣れ親しんだ山でも予想外の暴風雪に見舞われれば、簡単に方向感覚を失ってコースアウトしてしまう。

登山歴が長ければ長いほど、山に慣れすぎてしまい、山の怖さを忘れてしまうのかもしれない。あるいは経験豊富な登山者としてのプライドが高くなり、絶対事故を起こさないから非常用装備など必要ないと思いこんでしまうのかもしれない。たとえば、雪崩に埋もれたときに遭難者の位置を知らせてくれるビーコンを持ちたがらないベテランガイドもいる。本書ではそうしたガイドの言い分を紹介している。

「僕は今でも使いたくない。だって、あれは雪崩に巻き込まれてから初めて使うものでしょ。われわれが安全を第一に考えるのだったら、〝万一〟ではなく〝絶対〟でなければならない。そうすればビーコンなんて必要ない。僕は40数年ガイドをやっていて、ビーコンの世話になろうなんて思ったことは1回もない。今は社会的にも世間的にもうるさくなってきたから、しょうがなくわれわれも付けますけど」(『スキーツアー中の雪崩事故』)

だが、運転歴40数年の運転手が、絶対事故を起こさないから必要ないという理由で、「事故を起こしたときに初めて使う」エアバッグを車から取り外したりするだろうか。しないはずだ。万一事故が起こったら、エアバッグの有無が生死を分けるのだから。なのにビーコンはいらないというのはおかしい。ベテランガイドとしてのプライドが邪魔していると、私には思える。

 

天候悪化や雪崩で遭難事故が起こったあと、よく調べてみれば、数十年前に同じ山で似たような事故が起こっていたことがある。時間とともに記憶が風化してしまうからだ。

著者が山岳遭難をテーマにしつづけているのは、事故防止に役立てばと願ってのことだという。

カナダでは、新型コロナウイルスが感染拡大しているなか、感染者を救助したことで山岳救助隊員が隔離対象となってしまい、事故が起こっても救助できないという理由で、バンフ国立自然公園が閉鎖されてしまった。山岳遭難事故は遭難者のみならず、救助者をも危険にさらすことが少なくない。本書に記録されたような遭難事故がふたたび起きないことを願う。