コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

もしもあなたが怒りたくないと感じるならば読んでみよう〜セネカ《怒りについて》

 

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

怒りについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

私は自分自身の問題を解決するためにさまざまな本を読んできたけれど、なかでも大きな問題は【親との関係】【自分自身の怒り】であった。【親との関係】については、自分自身に子どもができたこともあり、よろめきながらもなんとか解決策が見えてきたように思うが、【自分自身の怒り】についてはまったくこれから。

世間ではアンガーマネジメントの本が数多出版されているけれど、尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人がすすめるセネカ《怒りについて》を読んでみた。ブログの中の人も怒りっぽいという問題を抱えていたけれど、この本がかなり参考になったらしいから。

脱怒ハック「怒りについて」: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

 

ルキウス・アンナエウス・セネカは紀元前後を生きたローマ帝国の政治家、哲学者、詩人であり、《怒りについて》は、彼が長兄ノウァートゥスに献呈した著作である。怒りについて当時考えられていたさまざまな考え方を検証し、怒りとはなにか、怒りは役に立つのか、怒りをどのように扱うべきかについて述べている。著作中に登場するエピソードは、今日の基準からみるとありえないようなことも山盛りだが(奇形の嬰児を水に沈めて殺すとか、父親の目の前で息子を矢で射殺すとか)、怒りについて述べた哲学的部分は、今日読んでもまったく古めかしく感じない。

怒りとは、不正に対して復讐することへの欲望である。または……自分が不正に害されたとみなす相手を罰することへの欲望である。ある人々は、次のように定義した。すなわち、怒りとは、害を加えたか、害を加えようと欲した者を害することへの心の激動である。

こんな扱いをされるいわれはない。そう思ったときに人は怒る。まさに私にも身に覚えがありすぎる……つい昨日にも感じたことだ。仕事で電話会議をしていたとき、ある同僚に厳しい言葉を投げつけられた。そのとき私は自分が怒っていることをはっきり感じ、喉が震えることを自覚したから、電話会議のマイクをミュートにした。これはかなり理性的な判断だったと思う(と、自分で自分をちょっとほめてみる)。

 

「考える葦」ではないが、セネカは理性、規律、徳こそがもっとも至高なものだと考えており、その理性を上回る衝動をもたらす怒りを悪徳扱いしている。このひとことには唸らされた。

理性は実際に公正な判定を下すことを欲する。怒りは下した判定が公正に見えることを欲する。

だが怒りは、まさにその理性があるがゆえに生まれる。不当な扱いをされたという「判断」を下す必要があるためだ。この意味でものいわぬ動物たちのふるまいは怒りではない、というのがセネカの意見。

われわれの見解では、怒りは決してそれ自身で発するものではない。心が賛同してからである。なぜなら、不正をこうむったという表象を受け取ること、それに対する復讐を熱望すること、さらに二つのこと、自分は害されてはならなかったということと報復が果たされなければならないということとを結びつけるのは、われわれの意志なしに惹起される類いの衝動に属してはいないからである。

セネカは、心が「不正をこうむった」と判断する段階と、そのあと、怒りが理性を打ち倒して抑制が効かなくなった段階とを区別している。ゆえに、怒りに対する最良の対処法は、遅延だという。怒りが理性を打ち倒してしまうまえに、あるいは打ち倒してもなんらかの衝動的で愚かしい過ちをしでかしてしまうまえに、時間をおく。セネカは一日置くことをすすめている。一晩眠ってから、怒りを引き起こしたきっかけについて、冷静になった頭で振り返る。ただこれは唯一の方法ではなく、叱責、承認、羞恥などが、怒りを爆発させようとする者を思いとどまらせることもあると、後の部分で述べている。

怒りの原因は不正をうけたという思い込みであるが、容易にこれを信じてはならない。……いつでも時間を与えるべきである。一日が真理を明らかにしてくれる。

……

自分自身に対抗して、欠席者の弁護を行い、怒りは未決状態にとどめておくべきである。罰は延期されても科すことができるが、執行後に取り消すことはできない。

昨日怒りを感じたとき、私は自分が不当な扱いをされていると感じた。一週間の努力が台無しにされたと思った。だが、私が(私を怒らせた)同僚の立場にいればどうしただろうとおもうことでおもうことで、怒りをぐっと呑み込んだ。同僚にとってら私が一週間かけた作業は事態を悪化させただけであり、白紙に戻した方がまだよかった。それだけのことだったとしたら、不正ではないかもしれない。私は良かれと思ってしたことだったが、同僚にとってはそうではなかった。それだけだ。時間を置いて、そう思うことができた(それでも胸糞悪くなるのを避けることはできなかったが)。

 

同僚よりも、家族への怒りの方がコントロールはずっと難しい。私が問題解決しようとしたのも、家族との衝突が目に見えて増えてきたからだ。

セネカは家族への怒りについても述べている。

人が何かを不当と判断するのは、こうむるに値しなかったという理由からか、予想していなかったからである。思ってもみなかったことを、われわれはそれに値することとはみなさない。だから、予想と期待に反して起きたことが、いちばんひどく心を揺さぶる。家庭においてごく些細なことに目くじらを立てるのも、友人の場合だと見過ごしですら不正と呼ぶのも、まさにこのためである。……われわれを怒りっぽくしているのは、無知か傲慢である。

あなたの中でどこが弱いか、そこを最もしっかり守るために知っておかねばならない。

 

だが、そこはセネカ、容赦なく急所をついてくる。

われわれが怒っている相手の立場に立ってみよう。そうすれば、われわれを怒りっぽくしているのが自分に対する不公平な評価だと分かる。われわれがこうむりたくないことは、できたら自分がやりたいと思っていることなのだ。……だが、遅延こそ、怒りの最良の治療である。

こうむりたくないこと、怒りを感じることは、「できたら自分がやりたいと思っていること」……この言葉を読んだときには、目にしたものが信じられなかった。きっと理解しまちがえたのだろう。こんな扱いをされるいわれはないと怒ったことが、実は、自分がやりたいことだとは。

まあもちろん、遺産の取り分が少ないといって怒る人は、自分が遺産の大部分をもらえるはずだと言って怒るものだ。だが、努力の成果を台無しにされたと怒っている私は、誰かの努力の成果を台無しにしてやりたいわけではない。ただ、一週間の努力の成果が無駄ではなかったとみとめてほしかっただけなのだ。ここの部分はきっと理解違いだろう。

いずれにせよ、怒りに呑まれることのないよう克服することはできる、というのがセネカの結論だ。怒りを感じたら行動に移す前に時間をおく。怒りを爆発させたときにもたらされる結果に恐怖するゆえに沈黙する(たとえば他人を殺したいほどの怒りを感じても、刑事罰が怖いため、実行する者は少数)、仕事や暮らしに余裕がないのであればすこしやることを減らしてみる。どれもいますぐ実行できることばかりで、2000年前の言葉とは思えないほど色褪せていない。この本を読み、自分自身の行動を振り返り、怒りの克服を目指す第一歩になれたと思う。