コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

移民に呑みこまれた欧州、呑みこまれるかもしれない日本〜ダグラス・マレー『西洋の自死』

欧州は自死を遂げつつある。少なくとも欧州の指導者たちは、自死することを決意した。

私が「欧州は自死の過程にある」と言うのは…「私たちの知る欧州という文明が自死の過程にある」という意味である。英国であれ西欧の他のどの国であれ、その運命から逃れることは不可能だ。

この一文から始まる序章を読み始めたときには、この本が死に瀕しているとする「欧州文化」なるものがなんのことなのか、私には分からなかった。欧州と一括りにされてもピンとこなかったのだ。西欧と東欧は全然違うし、西欧の中でもどういう人々を「同じ文化」に属するとみなすのかよく分からない(ドイツがいい例)。そもそも文化は他国との交流によって変わっていくもの。いまある「欧州文化」は100年後には見る影もなく変容しているかもしれないが、全部消え失せることはありえない。エリートの間では古代ギリシャ・ローマの書物がこれからも読み継がれてゆくだろうし、パルテノン神殿も、ローマの遺跡も、美しい歴史的建造物の数々も(ノートルダム大聖堂のように火災などに遭わなければ)次世代への遺産として受け継がれてゆくだろう。それでは「欧州文化」としては足りないのだろうか? 著者は欧州大陸の哲学や歴史、法の支配、基本的人権、民主制度といったものに誇りを抱いており、それが失われようとしていると嘆いているが、実際にはどんなものが失われようとしているのだろう?

過去においては、欧州のアイデンティティは極めて限定された、哲学的にも歴史的にも厚みを持った基盤(法の支配や、この大陸の歴史と哲学に由来する倫理)に帰することができた。ところが今日の欧州の倫理と信念(事実上の欧州のアイデンティティイデオロギー)においては、「敬意」と「寛容」と(何よりも自己否定的なことに)「多様性」が重視されている。そのような浅薄な自己定義でもあと数年はやっていけるかもしれないが、社会が長く命脈を保つために不可欠な深い忠誠心を呼び起こすことはとても望めないだろう。

 

だが、本書を読み進めるにつれて、問題はそこにはないことに気付き始めた。

ジャーナリストとしての著者が問題視しているのは、移民そのものよりも移民がもたらすマイナス影響を討論できない「空気」であり、どういう文化が失われるかよりも失われるものを議論しようとしない「無為」であり、移民がもたらす多様性よりもその多様性を賛美せよと強いる「同調圧力」だ。

欧州は反差別政策を次々打ち出している。ひとを人種、国籍、宗教、性別、性的指向、政治的信念などで差別したと訴えられれば、ときには数百万ユーロにもなる慰謝料を支払うはめになる。たとえばロンドンではすでに白人住民が少数派になり、伝統的なパブよりもカレー屋やらケバブ屋やらが多くなっているにもかかわらず、そのことを公の場で口にするとたちまち「人種差別」「ファシズム支持」「心が狭い」などとレッテルを貼られて社会的立場が危うくなりかねないから、誰もが沈黙している。

そんな重苦しい「空気」がまかりとおっているのなら、多様性を賛美しすぎて逆にそれ以外の言論を封殺してしまうのなら、それは方向性を変えた言論統制以外のなにものでもない。人々は気づいている。「異国から来た異質な人々」がいつのまにかご近所や職場で多数派を占めるようになったことに。だが、それを公に議論することは「できない」。

ロンドン中心部のスタジオで形成された“進歩的な”コンセンサスからは、一般家庭に身を置く大多数の人々の目に映るものがほぼ完全に欠け落ちていた。それを公然と口にしたがる人々はほとんどいないのだ。移民のプラス面について話すのは容易になった。それらに同意することは、偏見のなさや寛大さ、心の広さといった美徳を表現することだ。しかし移民のマイナス面にうなずいたり、まして公言したりすれば、心が狭い、不寛容、外国人嫌い、人種差別主義を隠そうともしないなどといった非難を招くことになる。そのため国民の多数派の意見が、ほとんど表出できなくなった。

著者がこの本を書いたのはこのためだ。移民がもたらす影響ーープラスだけではなくマイナスもーーを白日のもとにさらし、そのような議論を抑圧する「不寛容さ」を告発し、名誉殺人や不信仰者迫害や女性蔑視をごくあたりまえだと考えるような人々が隣人になることもあるのだということを暴き、移民が押しよせることによって失われつつあるものをきちんと考えようと呼びかけるために。

読み進めるにつれて息苦しくなった。民主主義、すなわち多数決を政治体制の根幹とする西欧の国々で、アフリカからの移民たちが多数派になろうとしている。彼らがその気になれば「正当な手段で」彼らが住む国々の政治に介入できる。私はパリ郊外でほとんど黒人ばかりが歩いている街区を見た。ミラノの観光地でたむろする黒人物売りたちを見た。ロンドンの公立病院は医師も薬剤師も看護師も移民ばかりでなまりが強すぎて英語のコミュニケーションすらむずかしくなっているという声を聞いた。移民たちが彼らだけのコミュニティをつくりあげて頑なに彼らの伝統文化をまもり、移住先に「同化」しようとしないという嘆きを聞いた。

それでもなお移民を受け入れねばならないのか? 労働力としてというなら、失業率が高止まりしている南欧の若者を雇えばよいではないか? 多様性を欲するというのなら、いったいどこまで他国文化を受け入れ、その分自国文化が消滅するのを受容すればよいのか? ほかの国々を植民地化した負い目、ナチスユダヤ人絶滅政策をとった負い目があるというのなら、代償になにもかもさしだすことを強いられなければならないのか? なにより、なぜこれらの重要な問題が議論さえされることなく無視され続けるのか?

著者は次から次へと鋭い質問を浴びせかける。なぜ最初から移民を無制限に受け入れることのみをよしとするような結論にもっていこうとする、なぜ不都合な部分に目を向けない、と。ことはファシズムとか人種差別とかそういうごたいそうな問題ではない。あるコミュニティで現地出身者よりも移民の数が多くなりつつあり、彼らの間には無視しえない価値観の差がある、これに尽きる。

議論しなければならない、移民について。受け入れるという結論ありきではなく、移民を受け入れることの現実的なプラス面もマイナス面も。

本書はこのことを呼びかけるために書かれた。私には内容もさることながら、【言論の自由】を根幹のひとつとするはずの社会で、このような本が出版されねばならなかったことがなによりショックだった。著者のいう「欧州社会」には、すくなくとも移民問題については強すぎるほどの同調圧力がある。それを知ることができた意味で、読んで良かった。