コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

まことの愛を欲しながら金しかさしだせない銭ゲバ〜ジョージ秋山『銭ゲバ』

 

銭ゲバ 大合本 全4巻収録

銭ゲバ 大合本 全4巻収録

 

ジョージ秋山の問題作『銭ゲバ』を一気読み。

 

銭ゲバ』は、土砂降りの中、死体の手が土から突き出ているところから、主人公である蒲郡風太郎が這うようにして逃げる場面から始まる。

舞台は1960〜1970年代の日本。風太郎の父親はバーの女性と駆け落ちし、母親は病で寝たきり。5円の金もない極貧暮らしで、母親が発作を起こし、風太郎がどんなに「おねがいだ、かあちゃんが死ぬズラ」と頼みこんでも、金がないからと医者はもう診てくれなかった。

風太郎が「となりのにいちゃん」と呼ぶ男性がなにかと気にかけてくれていたが、やがて母親は死ぬ。風太郎は「かあちゃんは銭があったら死ななかったズラ」「銭がほしいズラ」と思いつめる。車上荒らしをして現金を盗もうとする風太郎を、隣のにいちゃんは「ひとのものをとってはいけない」と止めようとするが、風太郎は勢い余ってにいちゃんをスコップで殴り殺す。土砂降りの中、風太郎はその死体を土に埋める。「銭のためにやったズラ」と呟きながら……。

「銭のためならなんでもするズラ」

風太郎の言葉が、この物語の中心となる。

にいちゃんの死体を埋める悪夢、そっぽをむく医者の記憶に苦しめられながら、金を見つめて風太郎は心を落ち着かせる。

ある日、風太郎はかねてより目をつけていた社長の車にわざとはねられ、社長の屋敷にもぐりこんだ。社長の椅子と三百億の資産を自分のものにする。そう決めた風太郎はあらゆる手を使って社長にとり入り、社長令嬢の三枝子に惹かれながら、足の不自由な三枝子の妹・正美に愛しているとささやき、「ひとり殺すもふたり殺すも同じズラ」と口にしながら、ついには望みをかなえて銭を手に入れる。

 

風太郎はとても独特な風貌をしている。生まれつき左目がつぶれてまなじりが垂れ下がっている。右から見た風太郎の顔は銭のためならなんでもする悪党面だが、左から見た顔は、悲しんでいるようにも泣き笑いしているようにも見える。

作中、意図的に右横顔と左横顔が対比されていることがある。悪党として生きてゆくしかないと思い定めた風太郎が、それでも捨てがたい人間らしい表情。悪党であると決めながらも、きれいだと心動かされた女性をその手にかけながらも、銭のためではないまことの愛を欲しがらずにはいられない、そんな風太郎自身を哀れんで、風太郎の左顔は、悲しむ表情をみせるようにできているのかもしれない。

作者はそのことを、作中人物の口を借りて語る。

この社会がほんとに清く美しかったら……彼、銭ゲバは生まれなかっただろう。ただの蒲郡風太郎だけだ。社会のせいにするわけではないが……現実にこの社会が彼を生みだしたんだからねえ。

彼の中にある狂暴さは生まれつきのものとしてもだ……もうひとつ、もっとも人間的な、人間としての彼がいるのだ。彼の悪、それは彼が人間的すぎるからだともいえる。

 

風太郎はたしかに不幸ではあったが、彼は自身の目的のためにさまざまな人間を不幸に陥れてもいる。作中では風太郎の会社の主力工場から出る排水で近隣住民が水俣病によく似た病気にかかり、ある小説家が風太郎をペンの力で告発せんと立ちはだかる。彼は水俣病がどれほどの苦しみを患者にもたらすのか知っても顔色一つ変えない風太郎に業を煮やして、「あんたはこれよりもっと地獄をしってるとでもいうのか!」と声を荒げる。風太郎はそれを肯定も否定もせず、小説家を追い払う。

風太郎はとても理解しがたい行動をしばしばとる。金を手に入れるためのあれこれはまだしも、もうひとつ、銭目当てではない、きれいな女性からのまことの愛を手に入れようとする風太郎の悪戦苦闘は、むしろ彼を愛から遠ざけているよう。風太郎が金目当てで結婚した正美は、足が不自由で顔にあざがある自分に(たとえ嘘でも)愛していると言ってくれ風太郎をたしかに愛していたが、風太郎は彼女にはふりむかなかった。彼女がみにくかったからだ。実の父親からうまれそこない、ばけもの、とののしられた風太郎は、みにくいものを見ると、惨めな自分自身を思い起こして耐えられなくなる。風太郎はあくまでもきれいな女性にこだわったが、彼が銭で買えるのは夜の蝶たちだけ、彼は愛した三枝子を力づくで手に入れるが、逆に心底憎まれるだけだった。まことの愛を欲しながらも、事実、風太郎は銭を出すことしかしなかったし、できなかった。作中でも風太郎は「求めるだけで与えることをしない」と鋭く突かれている。

銭は命なきもの、手段にこだわらなければ手に入る。だが風太郎がほんとうに欲しかったのはまことの愛、銭がなくてもともにいてくれる女性、その女性と子どもとで送る平凡で幸福な家庭生活だった。自分がされたことを他人にすることで歪んだ復讐心を満足させることもある風太郎のこと、その家庭が長続きしたかはわからないが。ついにそれが手に入らないと悟ったところで、風太郎の物語は終わる。

 

風太郎を生みだしたのは社会のせいか? 貧困のせいか? 風太郎と母親を捨てて出て行った父親のせいか? それをさぐるのは無意味で、私は、風太郎は「銭のためにやさしくしてくれたとなりのにいちゃんを殺す」ことを選んだその瞬間に、その後の人生が方向づけられたのだと思う。風太郎が「銭のためならなんでもする、それを邪魔する奴はだれであろうと殺す」よう行動するとき、彼の左顔はとても哀しい表情を浮かべているけれど、彼はもうそのようにしか生きられなかった。銭と、まことの愛は、両方手に入れることができるのか? 少なくとも風太郎にはできなかった。そして彼は銭を選んだ。

悪党にも五分の理というのか、風太郎はたしかに人間的なものをもっていたけれど、それを捨てようとしたのは彼自身であり、最後まで手放せなかったのもやはり彼自身なのだから、風太郎が風太郎となったのは、彼自身の選択なのだと、私は思う。