コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

子どもと話すことは学ぶべきスキルである〜アデル・フェイバ&エレイン・マズリッシュ『子どもが聴いてくれる話し方と子どもが話してくれる聴き方大全』

子どもとの話し方、子どもの話の聴き方は、努力して身につけるべきスキルだ。

それが著者の教えである。

私たちはつい、大人に話すのと同じように子どもに話そうとしたり、子どもに話してほしいと期待したりするけれど、子どもはそもそも気持ちをうまく言葉にできないうえ、自分の気持ちを受け止めてもらえているかどうかにとても敏感。子どもの心が傷ついているときは、切り傷だとか擦り傷だとか、身体が傷ついているときとおなじイメージで向かいあうのが大切。

シンプルなようでいて、親が睡眠不足でイライラしていたりするとなかなかできない。無視したり、否定したり、質問攻めにしたり、はたまたアドバイスしたりしたくなる。

そのどれもが、親たちがかつてその親たちに言われてきたこと。言われた当時は、こんな言葉を望んだわけではないとがっかりしたり、反発心を覚えたりしたはずだ。だが親たちはなぜか、自分がそれを望んでいなかったことを忘れたり、同じことを自分の子どもに言ったりしてしまう。子どもが望むのは親が自分の気持ちをわかってくれること、子どもが自分の気持ちをわかるための手伝いをすることなのに。

私などは、子どもに「どうしてこんなことをしたの?」と質問することで、子どもの意見を尊重したつもりになっていたが、実はそれこそがやってはいけないこと。子どもは自分が責められていることを敏感に察知して頑なになってしまうか、そうでなくても、子どもは質問の答えを探すことに集中してしまって、うまくものごとを考えられなくなってしまう。

子どもは、誰かに質問されたり、責められたり、アドバイスされたりしているときには、明確に、または建設的なものを考えられないのです。

ただ「まあ、あらあら…」とか、「そう」と言うのは、大いに役に立ちます。こういった言葉を心配そうな態度で口にすると、子どもに自分の考えや気持ちを探らせることになり、子どもは自分で解決法を見つけられるようになるのです。

また、これも私がやりがちなことだけれど、言うことを聞かない子どもには罰を与えたり、「こうしなければこうなるよ」などと口走りたくなってしまう。けれどもそれも、子どもの目を本来考えるべきことからそらしてしまう。どうやったら今後罰を受けないですむのか考えてしまうのだ。

博士は、子どもは自分の過ちの結果は経験すべきだが、罰は受けるべきではない、と答えました。

……

ギノット博士は、罰の問題点は、それ自体に効果がないこと、罰は注意をそらすものであること、子どもは、自分のしたことを後悔してどうしたら改められるだろうと考える代わりに、報復の空想で頭がいっぱいになってしまうこと、などだと言いました。

言い換えれば、子供を罰することによって、私たちは、子どもが自分自身の過ちに直面するという大切な内的過程を、奪ってしまうのです。

一方、子どもを効果的に褒めるにも、くふうをしなければねらない。

  1. 大人が、(評価しないで)自分の見たこと感じたことを、尊重の意を持って言い表す。
  2. 子どもは、その言い表された言葉を聴いた後で、自分自身をほめることができる。

子どもとの会話はとても繊細なものだと、この本はさまざまな実例から教えてくれる。子どもの注意力をそらすことなく、本題に沿って話すのは、とても神経を使うことなのだ。つい叱ったり、罰を与えたり、子どもを質問攻めにしたくなったりしたときに、この本の内容を思い浮かべて、踏み止まりたい。