コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

タイトル泣かせ〜阿部智里『楽園の烏』

八咫烏シリーズの新刊が出ると知り、すぐに買おうかどうか迷ったけれど、結局買い、一気に読みきった。

本書は大人気和風ファンタジー八咫烏シリーズ〉の第二部第1巻。八咫烏とは人の姿形と鳥形を取ることができる〈神の御使〉。人間世界と幾つかの門で繋がる〈山内〉という美しく閉じられた異界で暮らしている。第一部は八咫烏社会の頂点に君臨する若宮のお嫁探しのため、貴族の姫君達が入内する王朝恋物語からはじまり、若宮と貴族連中の政治駆け引き、若宮の部下として活躍する雪哉の物語がつづく。一方、八咫烏社会できな臭い事件が相次ぎ、八咫烏とは別の生き物である〈猿〉の影がちらつきはじめる……という物語。

第二部第1巻となる『楽園の烏』は、第一部終了後、20年後から物語が始まる。

最初の舞台は現代の東京。行方不明の養父からある山の所有権を相続した安原はじめ(自称「タバコ屋のおっさん」)は、すぐに何人もの男から「あの山を売ってほしい」と言われて困惑する。ある日彼はとんでもない美女に誘われて自分が所有する山に向かい、あれよあれよといううちに、なんと〈山内〉に送り込まれてしまう。美女は自分自身を『幽霊』だと名乗り、かつて自分は殺された、こうするのは自分と自分の大切な人達を殺した者達への復讐のためだ、と口走る、サスペンス仕立ての物語。最初だけは、だが。

 

わたしが大人気の八咫烏シリーズを読むようになったのは、シリーズ最初の2冊『烏に単は似合わない』『烏は主を選ばない』がそれぞれ別の視点から同じできごとを追うという構成、物語の語り手が見ていたものが最後に鮮やかに塗りかえられるというどんでん返しを気に入ったからだった。平安時代の華やかな王朝文化、姫君たちの恋物語を思わせるような舞台設定も好きになった。

けれど、第一部最終巻『弥栄の烏』で、このシリーズに底知れないなにか、ほとんど恐怖のようななにかを感じた。そのときの読書感想。

 

第四作『空棺の烏』では身分差別を書ききった著者が、今作ではべつの理不尽な現実をとりあげた。

著者が思い描いているのは、おそらく、先住民と侵略者。

このことに気づいたとき、わたしが「先住民」と理解したのはなぜか、差別問題がくすぶるアイヌ民族アメリカンインディアンではなく、大和民族ーー日本人だった。

日本列島に古くから住みついてきた大和民族は、彼らなりの伝統や文化を育んでいたのかもしれない。彼らの言葉、彼らの叡智、彼らの文明があったのかもしれない。だがそれは、大陸からきた唐渡り人達がもたらした文化の激流に呑みこまれてしまった。今ではもう大陸文化の影響が強すぎて、古い古い土着文化を見分けられなくなってしまったーー。

 

著者の阿部智里さんはインタビューで、小説は一冊ごとにテーマを決めていると言っている。

『弥栄の烏』は、ますます栄えるという意味のタイトルがブラックジョークにしか見えないテーマの小説だったけれど、第二部第1巻となる本作『楽園の烏』もなかなかタイトル泣かせだ。

慈悲。地上の楽園。

いや〜〜〜〜なキーワードだと感じる、ひと昔世代のひともいるかもしれない。社会主義政権がよく使うキーワードだ。対照的に「憎悪は娯楽なのだよ」という身も蓋もない言葉がでてくるが、これは著者がこめたメッセージなのだろうか?

わけもわからないまま〈山内〉に放り出された安原はじめの目にも、最初、〈山内〉は桃源郷に見えたのかもしれない。だがしだいにメッキがはがれる。第一部を読んだことがある読者であれば「あいつのやることだから必ず裏がある」と身構え、第二部から入った読者でも、はじめを迎えた博陸侯雪斎にうさんくささを感じさせる仕掛けになっているのはさすが。はじめはわりとすぐにおかしいと気づいていたため、物語はむしろ、はじめの護衛をつとめる八咫烏、自分の暮らす八咫烏社会になんらの疑問ももたず、博陸侯を慈悲溢れるお方と心酔する頼斗の視点で展開される。

盲目的に信じていたものが、実は信ずるに足るものではなかったという価値観の転換は、最近読んだフラナリー・オコナーの短編小説集にも似ているが、頼斗の価値観が変わるにはもう少しかかりそう。

第二部はまだ始まったばかり。しかしすでにきな臭さ満載で、第一部からの世代交代もすすんでいる。というより、著者は世代交代を進めるために意図的に20年後に設定したという。20年前の〈猿〉との大戦、その真実が伝わらないままに〈山内〉は危機に瀕しており、謎の美女もあいまって、これからの物語展開に不吉ながら目が離せない影を落とす。

……本文最後の一行は、ミスリードだと信じたい。