コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

【おすすめ】読まずに死ねない〜ドストエフスキー《カラマーゾフの兄弟》

なぜわたしはこの本を読むために時間を使うのか。

①世界の見方を根底からひっくり返す書物、

②世界の見方の解像度をあげる書物、

③好きだから読む書物

この本は③…と言いたいところだが、①②についても期待している。東大教師が新入生に薦める100冊では堂々一位だし、小説のラスボスなどと言われるし、尊敬するブログ「わたしの知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」の中の人もすすめているしで、読まなければ人生損した気分にさせられるから。

シミルボン

だから、わたしはこの本を読む。

 

うん、やばいねこの本。いろんな意味で。

20代前半に読みたかった。当時のわたしはこれまで無条件に善だと信じてきたものーー祖国、親、親族ーーが、ほんとうはそうではないのではないかという考えに数年間苦しめられていたけれど、この本をその当時読んでいたら、もうすこし早く、わたしなりの解決策にたどりついたかもしれない。

オンライン読書感想はこれがすばらしかった。

950夜『カラマーゾフの兄弟』フョードル・ドストエフスキー|松岡正剛の千夜千冊

 

最初は言葉の荒波に圧倒された。登場人物、登場人物、誰もかれもとにかくよくしゃべる。ひとつのセリフが数ページにわたるなんてざら。しかも全員とことん自分勝手に語りまくったあげく、自己陶酔して、酔っぱらいのからみ酒のように、語り口にも熱が入るからますます始末に負えない。

話は「カラマーゾフの兄弟」たちの父親である色ボケじじいフョードルが、散々女遊びをしつつ、二人の妻に三人の息子を産ませたところから始まる。情熱家で向こうみずの長男ドミートリーが、良家の令嬢カテリーナと婚約中でありながら、小悪魔的魅力をもつグルーシェニカにのぼせあがって婚約破棄を考えていること。ドミートリーの父親であるフョードルまでもが(!)グルーシェニカにお熱で、恋のライバルである息子を監獄にぶちこんでやると息巻いていること。ドミートリーの母親の遺産をめぐって金銭問題がもち上がっていること。怒涛の会話でそれぞれの事情が語られる。それを次男のイワンが冷ややかに傍観する(ふりをする)。修道院で修行中の身である三男アリョーシャが父と兄と兄の婚約者(これがまた気位が高くて思いこみが激しいというめんどくさいタイプ)の間を右往左往する。

これだけ読めば喜劇だが、その間に交差されるように、キリスト教に対するそれぞれの考え方が、日常的な話題として、ときには冗談めかして、ときには真剣にさまざまな人物の口から語られ、しだいに読者は宗教論争にひきこまれる。気づかぬうちにさらに話は深まり、キリスト教をとっかかりにしているものの、【人間の信仰】というより普遍的なものにうつっていく。この辺りは凄まじいの一言。

キリスト教についてもっとも懐疑的視点をもっているのは二人。次男のイワンと、フョードルの召使であり、フョードルが信仰心厚い女性を気まぐれに犯したためにできた子であるスメルジャコフ。スメルジャコフは悲惨な生い立ちから神と信仰そのものに冷笑的であり、イワンは高等教育を受けている身らしく、神の存在の矛盾点を理路整然と突く。
イワンにはどうしても納得できないことがあった。なぜ純真無垢な子どもが虐待され、苦しめられ、殺されてゆくこの現実が存在するのか。それが神のおぼしめしであるのならば、理屈を越えたところで感情が納得できない、どうしても。子どもの流す涙は、たとえ神のもたらす救済やら調和やら許しやらの代償であっても重すぎるーーこれが、イワンがアリョーシャに語ったテーゼである。

もし子どもたちまでがこの地上で恐ろしく苦しんでいるなら、それはむろん自分の父親のせいだし、リンゴを食べた自分の父親の代わりに罰せられているんだ。といってもこんなことは別次元の考え方なんで、この地上の人間の心なんかにはとうてい理解できない。罪のない人間が、他人の代わりに苦しみを受ける理屈がどこにある。しかも、あんなふうにまだ罪のない子どもがだ!

イワンとアリョーシャは料理屋でこれらのことを話し、イワンが創作した物語詩〈大審問官〉に話が向かっていく。これこそイワンがーーそしてドストエフスキーがーー生涯かけて提起した、キリスト教への問いかけだ。

是非全文読んでほしい。凄まじいから。

聖書では、キリストが荒野を彷徨うとき、悪魔に誘惑されたという。キリストがいう「自由なる信仰」ではなく、パン、奇跡、権威をもって人々を従えよと。しかしキリストはこれをしりぞけ、あくまで自由に信仰してほしいとこだわる。

だが大審問官は言う。おまえ(=キリスト)がそれをしりぞけて自由を与えたからこそ人間は苦しんだ、おまえがパン、奇跡、権威という信仰理由を人間に与えなかったために、かよわき人間たちは【自由意志で】おまえの信仰を守らねばならないこと、それ自体に苦しみつづけていると。

(というより、人間が難しく考えすぎるのかもしれない。人間以外の生物は子孫を残すかどうかで悩むなんて贅沢は許されないし、ごく一部の例外を除いて、健康体で生殖可能なのに自死するなんてこともしない。大審問官の問いは、結局のところ人間もまた喰わなければ死ぬ生命体である以上、その人間に「天上のパン」とやらを約束するからいま喰うなということはできない、また、人間が単独ではなく集団で食糧を得る生物である以上、だれを群れのリーダーとするかこそが最重要課題であり、しかも自分自身の判断能力だけでは不安だから『誰もが』認めるリーダーを立てることが肝要である、と言っているにすぎないのかもしれない。今のわたしにはまだ理解出来ないことが多すぎる。)

おまえはほんとうに考えなかったのか。選択の自由という恐ろしい重荷に圧しひしがれた人間が、ついにはおまえの姿もしりぞけ、おまえの真実にも異議を唱えるようになるということを。彼らはしまいには、真実はおまえのなかにはない、とまで叫ぶようになるのだ。なぜなら、あれほど多くの心配や解きがたい課題を彼らに残したおまえ以上に、彼らを混乱と苦しみのなかに放置するものなど、とうてい考えもつかないからだ。

イワンが宗教(ロシア正教)への疑問を提起している一方で、アリョーシャが心酔する修道苦行司祭ゾシマ長老も、宗教者として俗世に対する疑問を提起している。俗世は宗教をしりぞけて科学や自由をありがたがっているけれど、【自由】に果たしてなにを見ているのかと。これもまたぐさりと心臓に突き刺さる。まさにこの通りのことが世界中で起こっている。

彼らの自由に見るものとははたして何なのか。それはひとえに、隷従と自己喪失ではないか! なぜなら俗世が説いているのは、こういうことだからだ。「欲求があるのならそれを満たすがよい、君らは名門の貴族や富裕な人々と同等の権利をもっているのだから。欲求を満たすことを恐れず、むしろ欲求を増大させよ」これこそが、俗世における現在の教えなのだ。ここにこそ自由があると見ている。
では、欲求を増大させる権利から生まれるものとは、はたして何なのか? 富める者においては孤立と精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられてはいるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。

宗教は人間を堕落から救うための良心的抑止力であるーーこのことはベストセラーになったダン・ブラウンの《天使と悪魔》でもとりあげられていた。キリスト教だけではない、イスラム教も、ユダヤ教も、仏教も儒教神道も、伝統も習慣も……あらゆる宗教は「ほうっておいたらなにをしでかすかわからない」人間にかけられた行動規範の鎖であり、考え方の奥深くに刻みこまれている。

これを引き抜くのは並大抵ではない。自分の信じるものを見つめなおす作業は、自分のよりどころがぐらつき、なにを信じればよいのかわからなくなり、支えなしで深淵に立つような底知れない不安感をもたらす。物語の後半で、〈大審問官〉であれほどみごとにキリスト教への問いかけをしてみせたイワンが、ほとんど狂気じみていたように。

人間が、自分の信じてよりどころとしてきたものを、どこまで(精神的苦痛に耐えながら)解剖できるかーーイワンの、そして作者ドストエフスキーひとつの到達点だと思う。善なんて信じていないのに、なぜか善をなすために自分自身を破滅させようとしていて、その理由を自分でもわからずにいる。魂の奥深くに刻みこまれた行動規範と、精神とのせめぎあい。この場面こそが本書最大のハイライトだとわたしは思う。

『きみは、偉大な善をなしとげるために行こうとしてるわけだが、そのじつ、善なんて信じちゃいませんよ。それできみはいらだち、苦しんでいるわけで、だからこそきみはそれほど復讐心にかられてるんです』

ドストエフスキーはこの小説の続編を構想していたというが、第一部完成後すぐに死去した。わたしは想像する。続編はきっと、本作でこれだけ凄まじいものを見聞きしてきたアレクセイ・カラマーゾフが、共産主義がだんだん勢いを増すロシアでみずから行動し、思索し、ついには神と、神の創造たもうた世界について、ある結論にたどりつく物語だろう。

読まずに死ねない。是非全文読んでほしい。