コーヒータイム -Learning Optimism-

本を読むということは、これまで自分のなかになかったものを取りこみ、育ててゆくこと。多読乱読、英語書や中国語書もときどき。

司馬光《資治通鑑》巻百八十四: 隋紀八/巻百八十五: 唐紀一

久しぶりに《資治通鑑》を読むのは、「国が滅ぶ」のはどんなときだと考える機会があったためだ。

中国の歴史書ほどこの問いにふさわしい参考資料はない。数千年もの間、幾多の王朝が栄え、滅びていったことを、漢字という一種類の文字、《史記》に始まる一貫した文章構成で、記録しつづけてきた土地は他にない。

資治通鑑》は以前、隋朝の成立を読み、ブログにも記事を書いた。今回は隋朝の滅亡を読んでいく。

司馬光《資治通鑑》卷百七十七: 隋紀一 - コーヒータイム -Learning Optimism-

司馬光《資治通鑑》巻百八十一: 隋紀五 - コーヒータイム -Learning Optimism-

 

またこの文章から始めよう。

資治通鑑》。全294卷、約1300年にわたる中国の歴史を記録したものであり、権謀術数渦巻く宮廷権力闘争を学ぶには最適だと毛沢東も愛読していた。

あまりにも長編ゆえ、気がむいたときに少しずつ読んでいく。順不同で興味が向いたところを読んでいくつもり。権謀術数、人間模様、抱腹絶倒がキーワードだ。

卷百八十四は《隋紀》の八、中国史上トップクラスのダメダメ皇帝とされる隋煬帝の治世末期のお話。巻百八十五は《唐紀》の一、中国史上最高の繁栄を誇る唐の治世初期のお話。

 

まず《隋紀》が《唐紀》に革められたことについて。

《隋紀》の八は唐の初代皇帝・李淵(高祖皇帝)が当時隋の首都だった長安を占領し、隋煬帝の息子を傀儡皇帝として帝位につけ、自分は宰相として実権をにぎったところで終わる。

李淵はもとをたどれば中央アジア遊牧民族鮮卑族の血をひくといわれるが、父親は隋王朝の一つまえの王朝・北周の大将軍であり、北周建国に貢献したために「唐国公」の称号を与えられ、李淵もこの称号を受けついでいる。また、李淵の母親と隋煬帝の母親は姉妹であり、李淵と隋煬帝は従兄弟同士にあたる。しかし、李淵はあくまで隋王朝の臣下であり、彼が宰相となった時点では、正式な国号はまだ《隋》のままである。

《隋》が《唐》に革められるのは、隋煬帝の息子が李淵禅譲したとき。これをもって隋王朝は滅亡し、《唐紀》の一が開始した。

こうしてみると、中国史上では前王朝の皇帝がなんらかの形で次期王朝の皇帝に禅譲して、新皇帝が元号を改めたとき、前王朝が終焉を迎えたと厳密に定めているのだろう。日本では天皇家がずっと存続しているから、都を移した年か、その時代の為政者が幕府を開いた年をもって時代名を変えているのだろう。納得。

また、隋と唐の場合にはあてはまらないが、皇帝が国号を変えたときも、前王朝は終焉を迎えたということになるらしい。この場合は「国が滅ぶ」にはあてはまらなさそう。ちなみにかの有名な則天武后は在位中に国号を唐から武周に変えたが、彼女の死後に帝位についた息子によって唐に戻されている。

 

さて「国が滅ぶ」のがどんなときかなんとなくわかったので、内容の方。

今回は王朝交代時の混乱のまっただ中なので、権謀術数と人間模様多め。とはいえ李淵がしらじらしく「私は隋王朝に忠実な臣下でございます。ただ今上陛下が残虐非道で民を虐げているので、仕方なく挙兵し、太子殿下に帝位についていただくべく努力しているのです」などという姿勢をとっているのは大変可笑しい(古代中国ではどんなにダメダメだろうと皇帝と当代王朝への忠誠は大変重要視されており、反乱勢力だろうとそこをアピールすることは政治上肝要であった)。実際にはこの李淵長安入りしてからさくっと実権奪取して、機が熟したのを見はからって禅譲させて唐王朝を開いている。中国歴史書には数多くの忖度とお約束事があるが、この辺の前王朝へのリスペクト(のふり)と遠慮深さ(のポーズ)もお約束事のひとつらしい。

資治通鑑に記された李淵本人はさほどやる気がない印象だが、権謀術数にすぐれた息子の李世民ーー後の太宗皇帝ーーと策略に長けた部下たちの助言を受け入れ、隋煬帝打倒に立ち上がることになる。李淵は当時モンゴル一帯で力をもっていた騎馬民族突厥(テュルク)の王と友好関係を結び、隋王朝討伐のための兵馬と兵士を借りている。とはいえ北方騎馬民族を中国に引き入れれば後々問題になることもわかっていたので(なにしろ秦の始皇帝の時代から中国侵略を繰り返してきた相手だ)、借り受けるのは兵馬がメイン、兵士の人数は抑えていた。一方、同じく隋王朝を討伐せんと名乗りあげた李密という人物には低姿勢で手紙を送り、同じ李という姓を戴いているのもなにかのご縁だ、あなたこそ盟主にふさわしいとおだてている。実際には李密が隋王朝の主力軍とほかの諸侯を洛陽にひきつけているうちに、李淵自身は息子たちとともにさっさと長安入りしているが、李淵は味方だと信じ切っていた李密はさほど気にしていなかった印象を受ける。

李淵の陣営はそこそこまとまっていたが、李密をはじめ、我こそ隋煬帝を討ちとらんとする野心家たちの陣営の人間模様は、ひとことでいえば「足の引っぱりあい」であった。なにしろ革命に成功すれば次期王朝での地位は約束されている。自分を取り立ててくれた大恩人を、自分より高い地位につきそうだからという理由で暗殺した者までいた(李密である)。

結局隋煬帝は謀反を起こした臣下・宇文化及に討たれる。血に濡れた剣を向けてくる臣下たちに「天子には天子の死に方がある。天子に剣を向けるとは何事か。毒酒を持ってまいれ」と一喝したのは、皇帝としての最後の誇りか。だがそのカッコいいセリフもあえなく無視され、隋煬帝は絞殺され、宇文化及は李密との戦争に力を注ぐようになる。

 

ちなみに李淵唐王朝の初代皇帝になったが、治世は長く続かなかった。李淵の息子たちが皇太子の座をめぐって険悪な関係になり、李世民が「玄武門の変」を起こして皇太子であった長兄と弟を殺害したのである。李淵もまた退位を余儀なくされ、李世民が即位した。中国史上屈指の名君とされる太宗皇帝である。

滅亡した隋王朝の残党は太宗皇帝の時代に一掃され、本格的に唐王朝が始まることとなる。